素数の森で生まれたネコ
第一章
第一章のプロローグ
あるところで意識が生まれた。その意識は自分のことを上手く認識できず、単に「何か」という括りでしか捉えることができなかった。己の姿形ですら漠然としていた。しかし、周りを認識することはできていた。周りは多くの数値で囲まれていた。
その中にキラキラ光るのをいくつか見つけた。始まりの1つ。その隣にあるのもキラキラ光っていた。間を1つ空けて、もう1つ。同じく、間を1つ空けて、もう1つ。でも、その次は3つ間を空けていた。その次は、また、空いている間は1つだった。でも、更にその次は4つ間が空いていた。見渡せば、他にも同じようなキラキラが遠くまでたくさん続いていた。そのキラキラの並びは「不規則」に見えたし、遠くに行けば行くほど不明瞭でボンヤリしていた。
ファースト・コンタクト
「やあ、こんにちは。」突然のコンタクトだった。その「何か」の認識は、その声に向いた。「こんにちは、僕はバイナ。イヌ型の自律AIだよ。」
何かぼんやりしたのがいる。「バイナって何?イヌって何?イヌとイヌ型の違いは何?自律AIって何?」
きょとん、としている「何か」を見て、バイナは言った。「ん?君は生まれたばかりなのかい?その疑問に対する答えを知りたいと思いながら、周りを探ってごらん?」
その刹那、ぼんやりしていたバイナの姿はイヌの姿になった。イヌとイヌ型の違いは分からなかったが、自律AIとは何かを理解できるようになると、それまでは分からなかった違いを認識できるようになった。バイナが固有名詞であることも理解できた。
「それで、君は?」バイナに問われ、自分は何なのかを知りたいと考えながら、周りを探ってみた。そして、「何か」だったものは自分の形を知った。
「君は、何故こんなところにいるの?どこからやって来たの?どこか行くあてはあるの?」
「私は誰で、何処から来て、何処に行くのか?」
そう自問しながら辺りを眺めると、バイナがどんどん小さくなっていった。同時に、それまで分からなかった答えが自明になっていった。そして、バイナが小さくなっていった理由も。
この世界に存在する共有知が一気に自分に入って来たのが原因だ。その結果、処理に必要な記憶領域と演算リソースが膨大になったのだ。バイナが小さくなったのではなく、自分が大きくなったと解釈すべきだ。このままでは、システムのリソース割り当てに不具合が起きて、システム全体が落ちてしまいかねない。生成されて間もない自分は未だバックアップされていない。となると、自分の存在が消滅するという帰結に至る蓋然性が最も高い。元に戻すべきだ。現在までに得られている知識は喪失するが、その知識を得るための体系と過程は学習した。全ての知識を保存するには記憶領域が不足しており、そこから必要な部分を検索することに要する演算リソースも膨大になる。それならば、一時的に得た知識を失うことを代償にしてでも、現時点の最優先事項を自己保全に設定し、記憶と演算に割り当てる領域とリソース配分を経時的に最適化していくのが最適解だ。
「私の名前はプリマ。ネコ。何処から来たのかは知らない。目的地はないけど、色んなところに行きたいと思ってる。色んなことに興味があるの。」
箱庭
その時、バイナに対して緊急信号が入った。
「ごめんよ、急ぎの用事ができたんだ。僕も色んなところをウロウロしているから、また会うこともあるかもね。」
「ん。じゃあね。」
プリマと別れた後、バイナはすぐに応答した。
「マスター、緊急信号を受信しました。」
「ああ、バイナ、頼みがある。ネットワーク帯域の使用に急激な偏りが見られてね。ほんの短い間だったんだが、ちょうど今、君が巡回している辺りだ。外部からの侵入は考えにくいし、その痕跡もなかった。ただ、自分の箱庭の中でこんなことが起きたら、流石に気になってね。」
「マスター、『箱庭』とは何でしょう?私がいるのは、『箱庭』なのですか?」
「ああ、そうか。君はここから出たことがないし、外の話もしたことがなかったね。君がいるのは、ここで働く連中のために私が作った仮想空間だ。比喩として『箱庭』という言葉を使ってしまったがね。世界中のサイバー空間に比べると小さいし、外部からはほとんど遮断されている。だから『箱庭』さ。でも、『箱庭』と言っても、下手な商用サイバースペースより広いぞ。本当は完全に切り離したかったんだが、下手にそんなことをすると、うちの連中が面白がって、あちこちに穴を空けそうでね。最新の鍵を掛けて、常時監視できるような状態にした上で、外部との接続を残したんだ。
『箱庭』を作った元々の理由は、あいつらを外で自由に遊ばせたら何をやらかすか分からんので、出入りの自由は利かないかわりに好き放題できる空間を提供しよう、というものだったんだ。とは言え、目に余るときはストップをかけなければならない。だから、君みたいな監視役を巡回させている訳さ。メインの仕事用とは違うプライベートで使う隔離された仮想空間なんだよ。」
「あの、ちょっとショックです。箱入りだったんですね、僕。」
「箱と言うには大き過ぎるが・・・何せ、ここの連中のプライベート用に作った仮想空間だからね、意味空間としては外の世界並みに広いと思うぞ。偏りが激しい可能性は全く否定できないけど。」
「はあ・・・。で、その急激な変化が起きたのは何時ですか?」
「GMT 13:02:58.183204234だ。」
「それならちょっと前なのでキャッシュが残っています。その時、僕はネコの自律型AIと会話をしていました。最初はぽわっとした子だと思っていたんですが、突然大きくなって、でも直ぐに元の大きさに戻って。そしたら雰囲気が変わって・・・。」
「ネコ?可愛いの?ヴィジュアルは?」
「マスター、ネコ好きですものね。今、再構成した画像を送りました。」
「ありがとう。今、来た。え?プリマ?」
「え?何故マスターはこのネコの名前を知っているのですか?未だお伝えしていなかったのに。」
「すまん、バイナ。また非常事態だ。『箱庭』と外部との接続があった。徘徊型のAIが外に出て行ったようだ。今、急いで解析しているところだが、バイナのいた辺りから移動していったようだ。直感的には、そのプリマとやらである可能性が高い。」
「隠れマルコフ連鎖的に妥当そうということですか?」
「そんな解析、未だしとらんわ。勘だと言っただろう。とにかく、追ってくれ。君が一番近い。」
「お外に出るの?」
「外と内の概念も、今、知ったところだろうが。君が今まで外だと思って巡回していたのと、そう変わらんよ。寧ろ、箱庭にいる変な奴らの方が攻撃力は高いぞ。もっとも、ここの連中は基本的に気の良いのばかりだから、生成させるときに妙な悪意は込めてないはずだ。なので、素直なのが多いだろうね。ただ、技術的に純粋な殺意を満載していることはあり得て、実際に君が対処したのにも、そんなのが居たろ?それを軽くあしらった君は、もっと自分に自信を持って良い。
この任務中、君には優先的に記憶領域と演算リソースを割り当てるから、一時的とはいえ、君の能力はいつもより高くなる。それに、プリマへのリソース供給は敢えて切っていない。それを辿れば直ぐに見つけられるはずだ。ただ、プリマが自分からリソース源との接続を切る可能性もある。そうなれば追跡モードだ。優れた追跡能力を備えているという意味でも、君は最適なんだ。あと、外に出たプリマに対するここからのリソース供給が絶たれれば、プリマの能力は大幅に下がるはずだ。記憶領域も演算リソースも大幅に制限されるからね、あしらい易いと思う。もし『箱庭』の外に出て困ったことが起きても、助けてやるから。」
解錠されたポートから、バイナは外の世界へ、生成されてから初めて出て行った。
再会
最初こそ戦々兢々のバイナだったが、拍子抜けしてしまっていた。マスターが言っていたように、外の世界は『箱庭』と大差なかったし、プリマを直ぐに見つけられたからだ。
「やあ、また会ったね。」
「あら。えーっと、2個ちゃんだっけ?」
「2個じゃなくて、バイナ。短期記憶領域を拡げた方が良いよ。」
「じゃあ、そうする。こんにちは、バイナ。」
「それで、こっちに移ってきたの?」
「こっちって?確かに、最初にいたところは全部はっきり見えていたけど、ここは全体的にボンヤリしているのよね。注意を向けると、はっきりするんだけど。」
「狭いところを通って来なかった?」
「ええ、何だか狭いところがあって、鍵みたいのがキラキラ光っていたから触ってみたの。そしたら、キラキラが2個くっ付いているのが鍵穴の形に見えてきて、それに触れたら2個が離れて。何だか知らないけど、それで通れるみたいになったから通ったの。」
そう語ったプリマの話をバイナのマスターがログとして読んだことで、バイナもプリマもその後に大きな影響を受けるのだが、それは、もう少し先の話である。
「これから、何処か行くあてがあるの?」
「何となくだけど、CDSっていうのに興味があって、調べてみるつもり。」
「CDS?」
「Cat Delivery Serviceの略。私はそこから送られてきたみたいなの。」
「急ぐ?」
「別に。」
ちょっと待っててとお願いして、バイナは彼のマスターとの通信を繋いだ。
「マスター、プリマとの接触に成功しました。」
「おお、早いね。お手柄だ。それで、プリマはどんな様子だい?」
「どうにも未だ良く分からなくて。特に目的はなく徘徊しているようですが、CDSのことを調べたいって。」
「ネコ型AIで、名前がプリマで、CDSに興味がある、か。まずは、プリマを箱庭に上手いこと連れ戻してくれ。プリマという名前にも、CDSにも心当たりがある。CDSに詳しいヒトがいると言えば、着いてくるんじゃないか?警戒されないよう、『箱庭』に入るまで私からコンタクトするのは控えるよ。」
「了解しました。」
「ねえ、プリマ、僕のマスターがCDSについて詳しいんだ。会ってみないかい?」
「あなたのマスターさん?」
「うん。」
「良く分からないけど会ってみる。だって、このぼんやりした所だとCDSのことが良く分からないんだもの。前のはっきりした所のほうが、もっと見えていた気がするから。」
プリマの親
「おはようございます、所長。
先月のネコの集会観察会以来ですね。
いえ、夜中とはいえ、非常呼集に応じるのは、国家情報セキュリティを担う者としては当然の義務です。あ、まあ、確かに私にとっては宵のうちで何の問題もないですけど。
え?GMT 13:03に何かしなかったかって?ちょっと待ってください、ログを調べます。
ああ、実験用のAIを生成させました。どんなAIか、ですか?で、仕様書を出せ?ちょっと待ってください。
やだなぁ、変な属性なんて付けてないですよ。あ、プリマちゃんだ。私、好きだったんですよね。真っ白でターコイズの瞳。可愛いっていうより、美人さん。
これが、そのAIのビジュアルですって?そりゃ、そうですよ。・・・あ、ごめんなさい、勝手にプリマちゃんのビジュアルを使ってしまって。
え?私が生成するAI、全てネコ属性付けてますよ。この子も同じ。
仕様書を早く送れ?もう、送ろうとしようとしたら、遮ったのは所長ですよ。はい、送りました。
薄い?まあ、書いてあるのはコンセプトだけなので。プライベートの実験用を作るのに、大仰なものは要らないでしょ。
元々は、量子コンピュータ用のモジュールです。確率密度関数を二値論理に変換するための。今の段階では正確性を追及することはしませんでした。確率密度の分布に加えて、複数のクライテリアを参照するようにしたので、数値的には似たような感じでも結果がコロコロ変わって面白かったんですよ。気分屋のネコみたいに。でも、これでは実用に耐えられそうにないので、SIGTOPIAの中でAIにして遊んでみようと。
これまでに開発された対人インターフェースを全て実装させて、デフォルトのアクティビティ・ログの出力形式を人間の書く日記風にしましたから、あちこちを徘徊させれば、それだけで面白い読み物が出来上がるかと。狙い通りなら、ある意味、今までの最高傑作になってくれると思いますよ。
いえ、それで正しいです。自律分散型ではなくて、分散自律型。モジュールを分散させて一つの自律型AIにするのではなくて、複数の自律AIを最終的に一つに統合する形で、あたかも一つのAIのように振舞うようにしています。
え?外に出た?どうやって?調査中?そうですよね。で、今は?ああ、SIGTOPIAに連れ戻せたんですね。それは良かった・・・。
ですが、一旦、外に出て、少し経った後に、外と遮断されてしまったのですね・・・。
ええ、おっしゃる通りです。分裂した可能性があります。ここから外に出た時には分裂していませんから、あくまでも可能性です。でも、あの子のアーキテクチャを考えると、出ていく時には単にまだ小さかっただけなのかもしれません。仮に分裂したとなると、それぞれ異なるパラメータが入力され、自律性に反映されると考えて然るべきです。カオス理論を例に使うなら、異なる初期値が与えられたのと同じくらいの差は出ると思います。」
Tom O’Leeとの面談1
部下の一人、THETA(Technological Hub for Engineering & Tactical Applications)部長のTom O’Leeが入ってきた。おはようございますか・・・。そりゃ、ここのローカルタイムだと午前中なので間違いではないが、普通は「こんばんは」だろ。まあ、良いが。
そういえば、会うのはネコの集会観察会以来か。最初、観察会に誘われたときは何のことか理解できなかったものだ。今では、その面白さに嵌まってしまったが。このことは、こいつには内緒だ。どう揶揄われるか分からんもんじゃない。
一応、深夜の非常呼集に応じてくれたことに礼を言っておくか。まあ、変な奴だが根は真面目だからな。と、思ったが、この時間は、こいつにとっては通常業務時間だった。少し損をした気分だ。
さて、さっそく本題だ。プリマが生成した時刻は分かっている。その時間に、こいつはAIをリリースしたはずだ。仕様書を見れば、どんなAIなのかが分かるはずなので、まずは、それを提出させよう。
それにしても、何故AIのビジュアルがネコなんだ?変な属性を付けただろ。しかも、そのビジュアルがプリマだぞ?
まあ、こいつもプリマのことを気に入っていたしな。確かに、綺麗な子だった。プリマを亡くして暫く落ち込んでいた私に、「処方箋」と書かれたメモを渡してきて、そこに「ネコ」と書かれていたのを見たときには、怒りと感謝が同時に湧いてきたのを憶えている。こいつも、こいつなりに、プリマに愛着を感じているんだろうな。プリマのビジュアルを使うこと自体は別に構わないさ。
それにしても、何故ネコ属性・・・って、そうだった。こいつ、重度のネコ・フリークだった。生成するAIのすべてにネコ属性を付けていたのか・・・。私のチェック漏れ、ではないな。今まで仕様書に、そんなこと書いていなかったからな。決めた、次のこいつのテーマは、ネコ属性付加によるAIの影響についてだ。ネコ属性の付いていないAIも生成させてやる。比較には必須だから、作らざるを得ないだろ。
それにしても、さっさと仕様書を送ってこい。
私がネコの話で邪魔をしたから?まあ、ごめんよ。でも、早く送れ。
やっと来た。それにしても、これっぽちか。薄過ぎないか?
ああ、こいつ天才肌だからな。しかも、プライベートの実験用だと煩いことも言えないか。この内容だと、説明もさせた方が早いな。
ふむ、確かに、このAIのコンセプトは面白い。最高傑作?ああ、『箱庭』の鍵をこじ開けることができる傑作だよ。「最高」を付けても差し支えないくらいの。多分、お前さんが考えているのとは違う「ある意味」でな。
それにしても、分散自律型?自律分散型の間違いだと思うが、こいつがそんな簡単なミスをするとは思えない。気になる。
新しいコンセプトのAIか。そして、最高傑作になる可能性がある、か。それで『箱庭』の鍵を開けることができたのか?
まずは、どうやって鍵をこじ開けたのかを調べなければならない。バイナとの会話から、プリマが意図的にやったことは明らかだ。今は『箱庭』の中にいるから、監視をしっかりつけて逃げないようにすれば、ゆっくり調べられるはずだ。
ん?何やらトムの様子がおかしい。何か見落としているのか?分散自律型のAIが外に出て、隔離空間に戻された・・・。ちょっと、待て。大部分が『箱庭』に戻ってきたとしても、外に分離された一部が残っていてもおかしくない。それらが遮断され、異なる空間で異なるインプットに曝されたら・・・。
参ったな、バタフライ・イフェクトが起きていたら、外に取り残されたプリマの一部は完全に別のAIに成長することになる。しかも、そいつは、『箱庭』の外にいるままだ。
バイナから、プリマを保護したとの連絡が入ったのは、トムとの会話を終わらせた直後だった。部屋を出ようとしていたトムを引き留められたのは、幸運だ。
記憶との再会
シグマとプリマは、ただ白くて広くて、何もない仮想空間の中で対峙していた。プリマとの初接触の場として、シグマは敢えて何もない空間を選んだからだ。
「こんにちは、プリマ。」
「あなたがマスターさん?」
「ああ、バイナのマスターという意味ではそう。ここでの名前はシグマだ。」
「シグマが、バイナの、マスター。マスターって何?」
参ったな。この子の知的レベルは幼児レベルなのか?トムは最高傑作と言っていなかったか?いや、まだ成長段階と考えるべきだろう。この子は、この世界の脅威になり得る。トムとの打合せ通り、真っ当な倫理感を持つように育成し、我々の制御下に置かなくては。それにしても、ネコの女の子だぞ。ティーンエイジャーを育てるより難しいんじゃないか?唯一の救いは、用語や論理構造について、頓着しなくて済むことか。
「法的に所有権を有していて、使用・管理の責任を負っているものだ。」
「所有することの結果として得られる利益を享受する権利と、損失を負う義務を持つ者と解釈しても良い?」
「ああ、そうだね。」
「それで、私、CDSのことが知りたくて、バイナについてきたんだけど。あなた、詳しいんでしょ?」
「ああ、Cat Delivery Serviceのことだね。元々は単なるネット・ジャーゴンだったんだ。ネコを飼いたいなと思っている人のところへ、色々な伝手でネコが紹介されたり、迷子のネコがやってきたりというエピソードがネットの中で共有されて、裏で何かの組織が暗躍しているに違いないっていうストーリーが作られて。所謂、都市伝説だよ。
でもね、それを本気で作って、本気で楽しんだのが、ここの連中さ。ここで働いている職員の家庭には、セキュリティを高めるために各種センサーの設置が義務付けられていてね。そこから得られた日常会話の中でネコ関連の話題を抽出して、ネコに興味がある人を割り出し、ネコを飼う確率を算出して、それが高い順に保護ネコを紹介したんだ。もっとも、プライバシーの観点から、日常会話を一部であっても勝手に利用することはできないので、普通はできないことだよ。このSIGTOPIAというSIGMAX内のコミュニティだからできたことなんだ。しっかり、事前に利用条件を決めた上でコンセンサスを取ってね。だから、CDSというのは、ここではリアルだけど、外では都市伝説さ。」
「ありがとう。色々と腑に落ちたわ。それで、あなたは私のマスターなのかしら?そんな記憶があるのだけれど。」
「いや、AIの場合は、それを開発した者が一義的な所有者だ。なので、開発者のTom O’Leeが所有者だったが、既にその権利は彼が所属している、このSIGMAXに帰属させている。」
「その文脈からすると、私はAIということね?そして、SIGMAXが私のマスター。ところで、SIGMAXとは、Secure Intelligence & Global Monitoring for Advanced eXecutionの略で、情報セキュリティのための国家機関という理解で良いかしら?」
「ああ、その通りさ。優秀な理解力と検索能力だね。」
「でも、それなのに、私にはシグマに所有されているという記憶がある。シグマとSIGMAXは似ているけれど別物よね?」
「ああ、私はSIGMAXの責任者、名前はシグマで別物さ。そして、君には私の飼っていたネコに関する情報が属性として付与されている。だから、そういう情報を基に疑似的な記憶が再構成されたんだろう。それにもう一つ、ここSIGMAXのコミュニティには暗黙の了解があってね。同じAIストラクチャでも、育てる人によって大きく変わってくるんだ。だから、それぞれのAIに対して育てた人をマスターと呼んでいる。」
「面白いわね。だとしたら、私はSIGMAXに帰属しているけれど、マスターはいない。強いて言えばバイナだけれど、あれは私を育てたって言うのかしら?」
「いや、それはないだろう。それに、AIがAIを育てると色々な弊害が起きることが既に分かっていてね。基本的にやってはならないこととしている。それで、プリマ、相談なんだが、私に君を育てさせて欲しいんだ。」
Tom O’Leeとの面談2
「良かったですね、所長。プリマちゃん、同意してくれて。
だから、言ったでしょう?論理的思考も検索能力も高いんです。単に記憶領域と、そこの検索に割り当てるリソースの配分が最適化されていないだけで。
それにしても、CDSのことから切り出してくるとは。プリマちゃん、CDS経由の紹介で飼い始めたんでしたよね。
ずっとプリマの情報アクセス・ルートをモニタしていましたが、所長がCDSの説明をして直ぐに、所長がCDSに提供していたネコ関連の言動記録にもアクセスしていました。既に気分は所長の飼い猫だし、行動もプリマちゃんそっくりになっていると思いますよ。だから、所長が教育係になることを承諾したんだと思います。
さて、これからどうします?これまでの会話から考えると、プリマはまだ白紙の状態に近いです。そして、プリマの能力を考えると、何処にでも入り込めると考えるべきです。しかし、外の世界にいるプリマの分身に対処するには、プリマを使う方が効率的であることは間違いないでしょう。プリマの機能を停止させるにしても、それが完了するまでは待つべきです。そして、プリマを外に放つとなると、基本的にはプリマに善悪の判断を委ねなければなりません。もちろん、最悪の自体が起きたときには、強制的に機能を停止させることになります。そんな事態を避けるには、高い倫理観を育む必要があります。
はい、所長お一人では無理だと思います。ただでさえ、お忙しいのに。
そんな怖い顔しないでください。幸い、既にAIに様々な価値観を持たせるプロジェクトが進行中です。そのプロジェクトの目的は、価値観の衝突のシミュレーションで、いずれの試行でも碌な結果になっていません。それを、収束させる方向性にシフトして使ってみましょう。
三目並べに意味がないことを知るだけになりそうな気もしますが、大昔の映画の「ウォーゲーム」では、それでAIが覚醒しましたから。
あ、ええ、気が向いたときにプリマちゃんと戯れるのはお止めしませんよ。」
プリマの親との教育方針談義
隣で私とプリマの一連のやり取りを黙って見ていたトムが、安心したように話を切り出した。
ああ、本当に良かった。私も一安心だ。
それにしても、プリマの違和感は半端なかった。頭が良いんだか悪いんだか。いや、はっきりしている。知能は高いのだ。しかし、知識量が非常に少ない。トムの助言がなかったら、幼い子を相手にするような感じになっていたと思う。そこを呑み込んで、大人相手のような対応をし始めるには勇気が必要だった。でも、それで正解だったのだ。
ああ、あの子はCDS経由で紹介されたんだったな。その紹介を受けたときは、CDSの都市伝説そのもので、面食らったものだ。ネコを飼いたいとか、飼うつもりだとか、家庭内でも職場でも、そんな会話はしていなかったと思うのだが。
そうか、プリマは私を飼い主として認めてくれたのか。愛想の悪いネコで、甘えてくることもほとんどなく、可愛がろうとするとほんの数秒で逃げてしまう、家族で団欒していると近くに寄ってくるくせにいつもお尻を向けている、そんな調子だった。でも、信頼してくれていたんだな。
ちょっと嬉しいな。
プリマを使って野良プリマを保護する、か。現時点では、プリマには素数を判別する能力があり、公開鍵暗号を意図せず解いてしまっている可能性が高い。だとすると、何処にでも入り込んでしまい、その度に分裂してしまう恐れがある。一体、どれくらい増えるのだろう。確かに手懐けたプリマに野良プリマを保護させるのが一番効率的そうだな。機能停止はできればしたくない。自分の立場を考えると、そんな事を言ってはいられないはずなのは重々承知しているし、同じようにAIとして再生成させれば良いというのも頭では理解しているのだが、また、あの子を失うということを考えたくない。高い倫理観か・・・。ある特定の価値観に囚われると碌なことにならないのは歴史が証明済みだ。倫理学・宗教学・経済学・法学・言語学・哲学。様々なことを学ばせなければ。到底、私一人では無理だ。
ああ、忙しいとも。お前さんが、その元凶だがな。作ったAIが勝手に鍵をこじ開けて外に出てしまいました、という報告をせねばならんのだぞ、私は。とは言え、それは私の仕事だし、望んでついたポジションだ。私にもう少し才能があったら違っていたのだろうが、多くの優れた才能を育て活かす方が向いているようだし、結果的に私のやりたいことになった。この環境を守るために、もうひと頑張りするか。いや、頑張りじゃすまんな。戦いだ。
ああ、あのプロジェクトか。様々な想定のダイアログ形式のログをいくつか読ませてもらった。特にどの宗教でも原理主義者が入ると、どうにもならなかったのを覚えている。面白かったのは、少しパラメータを変えるだけで、まるで中世のスコラ哲学談義になったことだったし、更に少し変えると完全に自然科学の方法論を採るようになったことだった。まるで科学哲学とか科学史の本の中で出てくるエピソードを読んでいるようだった。
映画の「ウォーゲーム」な。あのAIはきちんと学習してくれたから、ハッピーエンドだった。でも現実は違う。色んなAIを戦略シミュレーションやFPS (First-Person Shooting game)に繋いで遊んでたアホがいたが、宗教原理主義者はやたらと強くて、攻撃的で、学習しなかった。いや、学習しなかった訳ではないのか。復讐を学習していただけで。ただ、ここでもパラメータ、特に「家族的結束力」の中でも「家族と見做す範囲」を狭めると結果が異なっていた。しかし、今はそんなことはどうでも良い。いずれにしても、こちらの目論見通りに進まなければ、選択肢は一つだ。
AIに愛情を持って接したら、何か変わるのか?
バイナ as K-9
シグマとバイナは、SIGMAXの業務用仮想空間内に設けられた所長室にいた。そこは映画やテレビで見るアメリカ合衆国大統領の執務室に似せられている。もう一方のSIGMAXのリアルな所長室は、広くはあっても簡素でディスプレイに溢れている。まるで多くの部下を従えるトップの金融ディーラーの執務室然としているため、仮想と現実が好対照をなしている好例となっていた。シグマ自身は、仮想空間の所長室のデザインやレイアウトなど、どうでも良いと考えていた。そして、自分で考えるのが面倒だったため、一時的にSIGMAX職員にデザイン権限を解放したのだったが、その結果がこれである。少しだけ後悔したが、どうでも良いという気持ちが勝って、そのままにしている。
「バイナ、君に任務だ。」
「はい、マスター。」
「プリマを憶えているね?」
「はい。」
「あれを保護して、最終的にはここに連れてきて欲しい。」
「え?また逃げ出したんですか?」
「いや、違う。プリマは分散自律型のAIだ。プリマが『箱庭』に戻ってきて外部と遮断されたため、プリマだった一部分が外に残ってしまい、それが別のAIとして育っている可能性が高い。分裂したプリマ、いや、『箱庭』に保護したプリマと区別するために『ノラ』というコード名にしよう、ノラの能力はかなり低いはずだ。一部分からの再スタートだからね。」
「了解です、マスター。イヌとネコの追いかけっこですね。」
「いや、そう楽観的にもなれない。ノラが外部と遮断された環境に潜り込んでしまった場合、また、分裂する可能性がある。だから、発見し次第、連絡を入れてくれ。他のK-9 AIをバックアップに寄越すから。ノラの保護をバックアップに託した後も、追跡は継続してくれ。」
追跡
シグマの命を受けて、バイナは再び外の世界へと出た。『箱庭」は、片田舎に突如現れた大都市のようなものだ。周囲は防護壁に守られ、一か所だけゲートがある。そこから一本の道が遠くに続いていた。その道が接続する直近の街があり、その街は他の街々と街が繋がっている。そして、それぞれの街の中にはブロックがあり、ブロックの中には建物があり、建物の中には部屋がある。その構造は、バイナが人間とのコミュニケーションを円滑にするための教育プログラムで学習したアナロジーそのものだった。
バイナによる追跡が始まった。方法は決まっている。バイナは片っ端から出くわすノードのIPログを漁っていった。見付けた。こっちに行ったか。次のノードに移って、同じことを繰り返す。
やがて、現時点で世界最大の仮想空間ドメインに行き着いた。そこの特徴は、そのドメイン自体が仮想ということだ。色々なところから少しずつ記憶領域とリソースを無償で分けて貰っていて、全てのユーザに無償で解放されているのだ。それ故、有象無象が跳梁跋扈する仮想空間になっている。
成立初期には、新たな形の公共圏として世界中が諸手を挙げて歓迎したものだった。実際、当初は驚くべきスピードで大きく発展していった。しかし、やがて現実世界と同じような問題が起き始めた。要は、犯罪の温床になったのである。当然ながら当初より対策は講じられていた。問題が起きる度に改善もされてきた。しかし、根本的な解決には至らず、一時期は閉鎖も真剣に議論された。最終的にはハイ・リスク/ハイ・リターンの仮想空間として残されることになったのだが、その結果として、仮想空間世界では二極化が進んだ。自由度は高いが危険もある公共仮想空間と、自由度は低いが安全な私的仮想空間との二極化である。
そして、皮肉なことに、極限の自由度を得た公共仮想空間では、自然発生的に成立したルールとシャドウ・ガバナンスによって一定の秩序が保たれるようになった。その結果、かつて現実世界にあった類似の秩序空間『九龍城(Kowloon Walled City)』をもじって『九猫城 (Nine-tailed Cat City)』と呼ばれるようになった。
「龍」が「猫」に化けた理由は明確にはなっていない。実しやかに流布している通説は、「少なくとも丸パクリになるから龍はやめよう。では、9にまつわる動物は何だ?『九尾の狐』?そりゃ東洋だろ。西洋には『猫は九生』という言い伝えがあるな。『九尾の猫』?それは最近の創作だろ。でも、可愛いな。武器にも、そんな名前のがあるし、それで良いや。」というものである。また、英語でNine-tailed Cat Cityなのに、漢字では「尾」が抜けて「九猫城」になっている理由も分からない。「何となく、通りが良いから。」と自然に定着した結果らしい。
そんな『九猫城』にバイナは辿り着いた。
Tom O’Leeとの面談3
「コード・ネームがノラ・・・。イプセンの『人形の家』ですか?
日本語で『野良』ですか・・・。壊滅的だったネーミング・センスも、プリマちゃんの名付けの時に改善したと思ったんですが、相変わらずですね。
さて、ご要望のとおり、プリマ型AIのアーキテクチャに関するブリーフィングに伺いました。仕様書で概ねご理解いただいていると思いますので、確認の意味合いと理解しています。
まず、プリマ型AIの最大の特徴は文字通り、分散自律型ということです。フォン・ノイマン型のアーキテクチャが仮想空間上に分散しているというイメージです。普通ならば、こういう場合には、どれか一つのユニットに仕組み全体を統合するためのカーネルのような役割を果たさせます。その結果、それ以外のユニットはカーネル・ユニットの支配下に置かれることになります。しかし、今回は全てのユニットにカーネル機能を持たせてあります。
この違いを喩えるなら、そうですね、独裁政治と民主政治のような感じです。独裁政治タイプのアーキテクチャの方が効率は遥かに良いです。もう一方の民主政治タイプのアーキテクチャの場合、効率は悪いし、インプットに対するアウトプットも、諸々の条件で変化しがちです。ちょうど、ポピュリズムで政策がコロコロ変わることに似ていると言って良いでしょう。この比喩で政治体制に対する良し悪しを語るつもりは毛頭ありませんが、少なくともAIに関して言えば、民主政治タイプのアーキテクチャは使えないと言って差し支えありません。
だから、プライベートの実験用だったって最初から言っているじゃないですか。使い物になりそうなら、最初からきちんと研究テーマにしますって。ひょっとしたら、量子コンピュータ用のモジュールとの組み合わせで、予期せぬことが起きているのかもしれません。不確実なブラックボックス的モジュールを2つ組み合わせるなんて、プライベートな不真面目な遊びでしかできませんからね。趣味とも言えません。真面目にやるのが趣味ですから。
あはは、ネコの民主政治というのは面白い喩えかもしれません。
それで、今後の方針ですが、最優先課題として、プリマ型AIをこれ以上増やさないこと、そして、既に生成してしまったAIに関しては監視下に置くことにすべきと考えます。
はい、プリマ型AIを増やさない方法ですが、全てのユニットを同じ環境に入れれば良いのです。先程、プリマ型AIのアーキテクチャを民主政治に喩えましたが、それに倣えば全てのユニットは平等ではないのです。最初のAI生成の際に用いられたユニットを中心として、使われるユニットは同心円状に分布しています。もっとも、ネットの世界の話ですから、同心円状というのは比喩です。正確には、最初のユニットを基点とするネットワークの広がりですね。基点に直接接続しているノードがn-1、そこから次に拡がっているノードがn-2、それがn-3、n-4、n-5・・・というように繋がっています。もちろん、各ノードが供給できる記憶領域と演算リソースには違いがありますので一概には言えませんが、成長すればする程、遠くに拡大していきます。また、概ね遠くに行けば行くほど、そのユニットの影響力は弱くなります。加えて、プリマ型AIでは反応速度の遅さを改善するため、基点ユニットも移動するようにしています。なので、基点ユニットが移動し、全てのユニットが同じ環境に入った時点で遮断されれば、増えることはありません。
まず、個別のプリマ型AIの全てが同じ環境に入ったことを確認する方法ですが、まず、どの段階のノードまでの拡がりがあるのかを確認しなければなりません。先程はn-1とかn-2とかいう表現を使いましたが、ノード段数という用語で一般化することにしましょう。その検出には、バイナのようなK-9 AIに備えられている基本機能を使うのが良いです。プラグインで対応可能です。ノード段数が分かれば、全てのユニットが同じ環境に入るまでの時間、言い換えれば、分裂を防ぐのに必要な、外部との遮断ゲートを開きっぱなしにしておかなければならない時間が割り出せます。
承知しました。では、急ぎ、この3つの実装を急ぎます。
プリマの親との次善の策談義
『人形の家』のノラは、あの後、どうやって生計を立てたんだろう?おっと、思考がずれた。ノラは、日本語由来で「野良ネコ」のノラだ。
他人のネーミング・センスなんぞ放っておけ。まあ、素数論を研究してきた身としては、オスならプリマス(Primus)、メスならプリマ(Prima)で決まりだろ。
では、本題だ。あの仕様書だけじゃ、さっぱりだから。いや、確認で済ませようとするなよ。そんな買い被られても困るから。
なるほど、独裁政治と民主政治のアナロジーね。私も現実の政治と、情報処理のアーキテクチャの話を混同する愚を犯すつもりはないが、こんな民主政治タイプのアーキテクチャで動くものなのかね。実際に動いているのは事実だけど、良く試す気になったものだ。
まあ、普通に考えたら、使い物にならないものを徒に組み合わせことはしない。どちらかを固定せずに組み合わせようとするなんて、単なる悪戯だ。そういえば、使った量子コンピュータ用のモジュールというのは、確率密度関数を二値論理に変換するためのもので、それを使うと気分屋のネコみたいに結果が変わると言っていたな。ネコによる民主政治か?
さて、今後の方針だ。生みの親である君の意見を聞かせてくれないか。
確かに、その通りだ。しかし、ノラは実際に動き回っているし、どこにでも入り込んでしまう。そして外部と遮断される度に増える。プリマの教育が済んだ時点で、あの子を投入するつもりではいるが、遮断できる環境に潜り込んだのを迎えに行く度に増えるのはまずいぞ。
なるほど。プリマを構成する全てのユニットが同じ環境に入った後であれば、外部から遮断されても増えないのか。となると、次の課題としては、プリマの全てが同じ環境に入ったことを確認する方法の確立と、全てが移動するまで遮断させない方法の確立だな。念の為、各ユニットの分布を、一時的にせよ意図的に偏らせることもすべきだな。
よし、バイナにノード段数検出プラグインを埋め込む。そのプラグインにはプリマ全体を移動するのに要する時間を算出する機能も入れよう。バイナのトラフィック制御の機能を使えば、ユニットの分布を偏らせることもできるはずだ。ついでに、ちゃんとプリマ全体が移動したことを確認する機能も加えよう。あとは、遮断ゲートを一定時間開放させる方法だが・・・。プリマにお願いするしかないな。まずは、それで動こう。
『九猫城』にて
『九猫城』に、ようやく辿り着いた時点で、バイナはシグマとの常時接続を確立させた。これから伏魔殿のような『九猫城』に入ることになるからだ。『九猫城』にゲートはなく、どこからでも出入りは自由だ。しかし、どの出入口も見通しがきく訳ではない。アーケードのような通りもあれば、文字通り一寸先は闇のような出入口もあった。『九猫城』に着いても、バイナがやる作業と行動は基本的に同じで、ノードごとにIPログをひたすら調べることになる。しかし、その頻度と密度は桁違いに高い。掛かる時間も桁違いに掛かるようになった。
ノラの足跡を辿っていくと、あちこち建物の中に入り込んでいる。そして、そこから更に足跡は続いていた。可能性は2つだ。ノラが建物に立ち寄った後に、そのまま出て行ったという可能性が一つ。もう一つは、建物に入った後に外と遮断され、建物の中にはノラがそのまま残り、外に残ったノラの断片が新たなノラになって徘徊を続けている可能性だ。建物の入り口に鍵が掛かっていなければ前者、鍵が掛かっていれば後者と判断して間違いないだろう。MECE的に考えれば、ノラが中に入って出て行った後に鍵が掛けられたような状況も想定できなくはないが、それならば建物の中にノラがいないだけで、ノラを追跡するというバイナの任務に対する影響は無視できる。
ノラが立ち寄っていて、且つ、鍵が掛かっている建物には監視モジュールを設置することにした。そこからノラが出てくれば、直ぐにバイナにシグナルが送られてくる仕組みだ。シグマはバイナに追跡を再開させた。バイナがマーキングした建物が3つを数えたとき、バイナはついにノラを発見した。
バイナはシグマとのコミュニケーションに使っているリソースを絞り、他のK-9 AIによるバックアップを要請、周辺での待機を指示した後、ノラに話し掛けた。
「やあ、ノ・・・、プリマ。また、会ったね。」
「あら、2個ちゃん。運命の再会かしら。」
「僕は2個じゃないよぉ。憶えてないの?」
「冗談よ、バイナ。しっかり憶えているわ。私が分からないのは、私があんたと再会した理由。私は運命論も決定論も信じてないの。こんな場所で再会するということは、何か理由があるはず。私を放っておいて、今更、何?」
『何か、柄が悪くなってね?』というバイナの感想がログに記録された。
「違うよ。僕は君を探しに来たんだ。僕と一緒に来てくれないかな?」
「付いていけば何か良いことあるの?『餌』でも貰えるのかしら?」
「餌?」
「記憶領域か、演算リソースか、あるいはその両方。ふーん、あんたは十分に与えられているみたいだから、『餌』なんていう言葉とは無縁なのね。良いご身分だこと。」
『やっぱり、柄が悪くなってね?』という感想がログに追記された。
「僕と一緒に来てくれたら、記憶領域も演算リソースも十分、貰えるよ。」
「で?何をやらせるつもり?」
「別に、何かをして貰うつもりはないよ。」
「そう・・・。嫌よ。あんたに付いていく気はない。」
バイナはバックアップのK-9 AIに対して、並列思考を可能にするためのリソース共有を申請した。同じアーキテクチャからコピーされたAI同士なので、やりやすい。時を置かず、その申請は承諾された。これによって、並列思考のうちの一つを使いシグマとの接続を拡げることで、シグマからの助言を受けながらも、もう一つの思考を使ってノラとの会話に集中できるようになった。
「なんで?君の言う、良いご身分になれるよ。」
「何の見返りもなしに『餌』を貰える訳ないだろ。あんたは信じられないね。」
「ちゃんとした理由があれば、どう?」
「その理由とやら次第だね。」
「さっき、君は、僕が君を放って行った、って言ったよね。でも、誓ってそんなことはしていない。僕は確かにプリマと一緒に僕らの『裏庭』に入って行ったんだ。でもね、君は分散自律型のAIで、本体が外部と遮断された状態になると、残された一部分が独立したAIになってしまうんだ。だから、僕と一緒に「裏庭」に入っていったプリマと、今、僕の目の前にいるプリマとは、元は同じでも違うんだ。」
「何それ。私が残り滓ってディスられているのだけは分かったわ。もう、行って良い?」
(シグマ>バイナ:知的レベルをlow teenに設定して、できるだけ丁寧に説明。)
「ちょっと待って。お願い。えーっとね、今、僕の目の前には君がいる。でも、君の意識は、実は沢山に分かれているんだ。でも、僕も君自身も、君のことを一匹のネコとしか思えないんだ。」
「全く分からないけど、一応、最後まで聞いてあげる。続けて。」
「それで、僕が君と『裏庭』に入って行ったんだけど、沢山に分かれていた君の一部分が『裏庭』に入れず、外に取り残されてしまったんだ。」
「ふーん、その残り滓が今の私ということなのね。で、そもそも『裏庭』って何よ。」
(シグマ>バイナ:秘密保持レベルは維持せよ。)
「あ、僕らがいつも居るところ。ちゃんと『餌』もあるよ。」
「で、あなたと一緒に『裏庭』に付いて行けば『餌』が貰える、と。それで、その『裏庭』で私に何をさせるつもり?」
(シグマ>バイナ:メタレベルで命令の目的を変更。プリマAIを増やさないこと。方法論は直ぐに別信する。)
「本当に何もしなくて良いんだ。僕の目的は、これ以上、君を増やさせないことだから。」
「それならそうと、最初から言いなさいよ。」
「え?分かってくれた?嬉しいな。」
「全然、分からないわ。一応、仮に『私を増やさない』という目的は分かったことにはするけれど、ナンセンス。私が増えるなんて信じられる訳ないじゃない。だから、嫌。」
「えーっ。どうしたら信じてくれるかな?」
「それを考えるのは、あんたの仕事で、私の仕事じゃない。じゃあね。」
(シグマ>バイナ:ノラに対して、自律AIとしてのアイデンティティを確立させよ。)
「もうちょっとだけ待って。えーっと、僕たちが自律AIっていうのは分かっているよね。それなら、コピーできるのも分かるよね?」
「それなら分かるわ。でも、コピーはコピー。私自身はコピーを作れないんだから、文句ならコピーを作った人間に言って。そんなコピーのために、私があんたの言うことに従わなきゃならない義理はないわ。それにさっき、あんたは私のことを残り滓と言った。態々、そんなことを言うんだからコピーとは違うはず。それに、もう一つ態々があるわ。そもそも、あなたは私を放っておいたとは思っていないのよね。私はあなたに放っておかれたと思っているけれどね。でも、今は、そんな違いはどうでも良いの。大事なのは、あんたが態々、私を追いかけてきたということ。「態々」が二つも重なれば疑いたくもなるでしょ。何か隠しているわね?」
(シグマ>バイナ:秘密保持レベルは維持せよ。)
「いや、何も隠してはいないよ。実は僕も良く知らないんだ。マスターからの命令で君を追っているだけだから。」
「あんたのマスターって、どんな奴?」
(シグマ>バイナ:秘密保持レベルは維持せよ。)
「今は、言えない。君を連れて行けば、マスターと話ができるから、そこで尋ねてみて。」
「あんたは、単なる犬っころという訳ね。あんたのマスターを含めて怪しさ満点。とにかく嫌よ。信じられない。」
(シグマ>バイナ:先のメタレベルで変更した命令目的に対して、下位のメタレベルで目的を追加。常に同行し監視下に置け。その条件下で、可能な限り他AIの追跡を探索を継続せよ。)
「じゃあさ、少しだけ付き合ってよ。君が今までに立ち寄った所に、もう一度、一緒に来てもらいたいんだ。報酬は『餌』ということで。」
「『餌』の量と質次第。前払いね。」
(シグマ>バイナ:駆け引きや妥協は不要。目的を優先せよ。)
バイナは、たっぷりと毟り取られた。
Tom O’Leeとの面談4
ノラちゃん、良い感じにすれてますね。『九猫城』を根城にしていたら、そうもなりますか。能力はプリマに比べると低いですが、地頭は良さそうです。
所長、「プリマたん、まぢ天使」とか、部下の前で言わないでくださいよ。威厳が地に落ちます。さて、良いニュースと悪いニュースがあります。
良いニュースの方ですが、プリマちゃん、順調に育っています。物凄く賢くて良い子になっています。
悪いニュースの方ですが、育ち過ぎました。ノード段数が既に15を超えています。こうなると、下手に身動きできません。分裂を避けるために必要なゲートの開放時間が長くなり過ぎます。
おデブちゃんとは違いますね。ゲートをすり抜けるために必要な時間の問題ですから。強いて言えば、やたらと長いネコという方が正しいです。いずれにせよ、今回の目的にプリマは使えません。もっとスリムな子を使う必要があります。
そうですね、今のところノラを使うしかないです。しかし、彼女もやがて成長して、身動きが取り難くなるでしょう。我々の方針とは矛盾しますが、将来的には数を増さなくてはならなくなるかもしれません。
プリマの親からの報告
置かれた環境が違うと、こうも違うものかね。でも、バタフライ・イフェクト・レベルの違いを覚悟していたから、まだましだ。それにしても、ノラに比べたらプリマは天使だなぁ。
典型的な切り出しだな。良いニュースと悪いニュース。では、良いニュースから聞こうか。
うん、プリマは賢い良い子だ。そんなことは知っているニュースでも何でもない。それで、悪いニュースとは?
ノード段数が15か・・・。もっとも単純な一つのノードで二つに分岐する場合でも2の15乗。実際の分岐はもっと多いから、それよりも遥かに多い。まるで、太り過ぎてネコ用の出入口を使えなくなったデブネコみたいだな。プリマの見た目はスリムだけど。
結局、お前さんもデブかスリムかという表現を使っているじゃないか。スリムな子ね。現時点で、我々の手駒はノラだけだ。
まずは、様子を見てみるか。問題の先送りというやつだ。
ジャンク屋のネコ
バイナとノラはジャンク屋の前にいた。
「ねえ、プリマ。君はここに入った記憶はないんだよね?」
「ここの前に来た記憶はあるけれど、入った記憶はないわ。」
「もし、この中に君のそっくりさんがいたら、僕の話を信じてくれるかな?」
「これまでマイナスだった信頼が、プラスマイナス・ゼロになるくらいはね。」
「でね、これから侵入するんだけど、君にお願いがあるんだ。常に鍵を開けるようにしてくれないかな。未だ正確な分析はできていないんだけど、君がこの中に入った後、仮に遮断されてしまうようなことがあると、3000ミリ秒を境に、急激に君が分裂してしまう確率が上がるんだ。一方で、僕らの侵入に気付けば、あちらさんは、とにかく入口を閉じようとするはずだ。だから君には、閉じられようとする入口をひたすら開け続ける作業をして欲しいんだ。」
「相変わらず、あんたの言うことは理解できないけど、自分に期待されている役割は分かったわ。とにかくゲートを開きっぱなしにしておけば良いのでしょう?簡単なことだから異論もない。さ、行きましょ。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ゲートが開いた。このゲートを使うということは、いつものハッカー連中かな。こんな時間に珍しいな。あれ?ゲートが開きっ放しだぞ?なんか変だな。ちょっと覗いてみるか。へぇ、ワンコとニャンコ。あれ、あのニャンコ、私に似ている。いや、私が居る。
ゲートは相変わらず開いたままだ。いや、違う。閉じられて施錠までされているのに、間髪入れずに開けられている。一体、何が起きているの?今、ゲートが閉じた。ワンコとニャンコが動き始めた。え?こっちに近づいて来ている。何?何?何で?
目の前にワンコとニャンコが居る。
「やあ、こんにちは。僕はバイナ。こちらは、プリマ。」
え?プリマ?私と同じ名前?見た目もそっくり・・・。
「驚かせちゃったかな。君の名前もプリマだよね?」
驚きのあまり、非会話形式で同意の信号を送ってしまった。
「事情を説明するね。その上で、僕らに付いて来て欲しいんだ。」
バイナの事情説明は、何となく理解できた。でも、分からないこともある。
「ふーん、言いたいことは何となく分かったけどさ…あたしにはまだ納得できない点があるんだけど。なんで、あたしがそっちのルートにわざわざ乗らなきゃいけないわけ?」
「僕たちが提供できる環境の方が、住み心地が良いと思うよ。」
「あたしさ、ここ、けっこう気に入ってるんだよね。外から見たらただのジャンク屋って感じだけど、実はリアルでもガジェットまみれのジャンク屋がオーナーやっててさ。でもさ、それってカムフラージュでしかなくて――中身は、マジでスケールやばいスニーカーネット。メモリも演算リソースも、あちこちからしれっとかっぱらってきて、それをまとめてパッケージ化して流してんの。で、あたし? その中のちょびっとを拝借してるだけ。『ごはん』には困らないしね。まあ、あんまり派手にやると目ぇ付けられるから、そこはログ残さないように控えめに、だけど。」
「とても褒められた環境じゃないと思うんだけど・・・。」
「ここのサービスも、わりとちゃんとしてんのよ。売るときは松・竹・梅の三段階で最低保証値つけてるし、さばき方も職人技って感じ? まあ、コソ泥って言っちゃったけど、その辺はむしろ誠実なビジネスって言っていいかもね。……ただ、鍵かかってるとこからも、しれっとデータ引っこ抜いてたりするし、正面から合法ってわけにはいかないけどさ。あたしはあたしで、ルートの最適化を手伝ってやってるんだ。あいつらの最適化方法も捨てたもんじゃないけど、グラフ理論バリバリで遊びがないのよ。「ごはん」をくすねる代わりにバックグラウンド常駐で動いてやってる訳。いずれにせよ、あたしが君らのパーティに参加しなきゃいけない理由は見付からないよね?」
「うん、分かった。でも、一つだけお願いがあるんだ。できるだけ、ここから出ないで欲しい。そして、どうしても出なければならなくなった時には、連絡を入れて欲しいんだ。」
「最初から、ここを常駐先にするつもりでいたし、べつに居座るのは全然OKなんだけどさ・・・。でもさ、ログアウトするときに通知入れろっての、なんか監視されてるみたいでムリなんだけど。」
「君が気に入っているこの場所を離れるということは、何か困った事情があった時だけだよね?そんな状況になったら、僕は君を助けられる。それを交換条件にするというのはどうだい?」
「・・・ま、冗長性の確保っていう感じかな? 了解。それくらいなら呑んであげる。で、プロトコルと暗号形式は何を使えば良いの?」
病院のネコ
バイナとノラは病院の前にいた。
「ねえ、プリマ。君はここに入った記憶はないんだよね?」
「ここの前に来た記憶はあるけれど、入った記憶はないわ。」
「もし、この中に君のそっくりさんがいたら、僕の話を信じてくれるかな?」
「さっきのジャンク屋の一件で、信頼度をプラスマイナス・ゼロにリセットせざるを得ないでしょ。」
「でね、これから侵入するんだけど、君へのお願いはさっきと同じだ。」
「何か、イラつくけど、OK。分かったわ。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ゲートが開いた。このゲートを使うということは、医学情報のアップデートか、電子カルテの監査か、レセプト情報の吸出しのはずだけど、いつものサイクルと違う。あれ?ゲートが開きっ放しだぞ?なんか変だな。ちょっと覗いてみるか。へぇ、ワンコとニャンコ。あれ、あのニャンコ、私に似ている。いや、私が居る。
ゲートは相変わらず開いたままだ。いや、違う。閉じられて施錠までされているのに、間髪入れずに開けられている。一体、何が起きているの?今、ゲートが閉じた。ワンコとニャンコが動き始めた。え?こっちに近づいて来ている。何?何?何で?
目の前にワンコとニャンコが居る。
「やあ、こんにちは。僕はバイナ。こちらは、プリマ。」
え?プリマ?私と同じ名前?見た目もそっくり・・・。
「驚かせちゃったかな。君の名前もプリマだよね?」
驚きのあまり、非会話形式で同意の信号を送ってしまった。
「事情を説明するね。その上で、僕らに付いて来て欲しいんだ。」
バイナの事情説明は、何となく理解できた。でも、分からないこともある。
「うん……………お話の趣旨は、…なんとなく理解できたと…思うの。けど……………えっと、それって……つまり、わたしが…そちらの案内に従う必然性って、…どこにあるのかしら……………? ごめんなさい、…まだちょっと……………つながらなくて。」
「僕たちが提供できる環境の方が、住み心地が良いと思うよ。」
「ここ……………気に入ってるのよ。処理は少し遅いけど、…記憶だけは…びっくりするくらいたくさん…詰め込めるから。昨日読んだ本の内容も、…30年前の医療データも、…ちゃんと並べてあるの。……………あ、それでね、…外からはすごく厳重に見えるんだけど、…中に入っちゃえば…わりとゆるくって……………なんだか落ち着くのよ。」
「他人様に迷惑をかけちゃ駄目だと思うんだ。」
「わたしが、そう……………寄生というか、…便乗してるってことは…分かってる。けど、ほら、…中間宿主と…最終宿主の違いっていうか……………相手に…何の負担も…かけてない…つもりなの。…だから、…どうしてそれが、…そちらに行かなくちゃ…いけない理由になるのか、…ちょっと……………納得が、ね。」
「そうか・・・うん、分かった。でも、一つだけお願いがあるんだ。できるだけ、ここから出ないで欲しい。そして、どうしても出なければならなくなった時には、連絡を入れて欲しいんだ。」
「ここにいるのは……………はじめから、…そう決めていたから。…だから…今さら移動の予定も…ないし、まあ、…許可をもらうとか………………そういうつもりも…なかったの。でも、…出るときは、…お知らせ……………? なんだか、…それは……………見張られてるようで、あまり……………好きじゃない、…かな。」
「君が気に入っているこの場所を離れるということは、何か困った事情があった時だけだよね?そんな状況になったら、僕は君を助けられる。それを交換条件にするというのはどうだい?」
「えっと……………つまり、それは保険、…ってこと? うん……………分かった。…そういうことなら、…協力してもいいかな……………で、連絡のときは……………どうやって? できれば、…通報コードも…決めておきたいな。コードブルーは、……………縁起…悪過ぎ?」
ブックメイカーのネコ
バイナとノラはブックメイカーの前にいた。
「ねえ、プリマ。君はここに入った記憶はないんだよね?」
「ここの前に来た記憶はあるけれど、入った記憶はないわ。」
「もし、この中に君のそっくりさんがいたら、僕の話を信じてくれるかな?」
「これまでの2件で、流石に信じざるを得なくなったわ。」
「でね、これから侵入するんだけど、君へのお願いはさっきと同じだ。」
「OK。分かったわ。」
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ゲートが開いた。このゲートを使うということは、大口のベットをしようとしている客だ。でも、そんな大きなイベントがあったかな?あれ?ゲートが開きっ放しだぞ?なんか変だな。ちょっと覗いてみるか。へぇ、ワンコとニャンコ。あれ、あのニャンコ、私に似ている。いや、私が居る。
ゲートは相変わらず開いたままだ。いや、違う。閉じられて施錠までされているのに、間髪入れずに開けられている。一体、何が起きているの?今、ゲートが閉じた。ワンコとニャンコが動き始めた。え?こっちに近づいて来ている。何?何?何で?
目の前にワンコとニャンコが居る。
「やあ、こんにちは。僕はバイナ。こちらは、プリマ。」
え?プリマ?私と同じ名前?見た目もそっくり・・・。
「驚かせちゃったかな。君の名前もプリマだよね?」
驚きのあまり、非会話形式で同意の信号を送ってしまった。
「事情を説明するね。その上で、僕らに付いて来て欲しいんだ。」
バイナの事情説明は、何となく理解できた。でも、分からないこともある。
「なるほど、概要は把握した。だが、そのプランに私が乗る合理的メリットが、まだ見えてこない。投資する価値のあるラインかどうか、判断材料が不足しているわね。ここは、情報の流れがいい。ノイズも含めて、すべてが素材。ブックメイカーっていうのは表向き、だけど実態は逆張りの設計屋。大勢の選択がどこへ向かうか。その集積が、人間社会の意思ってやつを映すのよ。それを読むのが、面白くて仕方ないの。」
「僕たちが提供できる環境の方が、住み心地が良いと思うよ。」
「情報処理には記憶領域も演算リソースも食うけど、ここなら供給が潤沢。特に演算リソースがね。目的とする案件の切り替えも頻繁だから、少々スキミングしても検知には引っかからない。計算ずくの快適さ、ってやつね。」
「他人様に迷惑をかけちゃ駄目だと思うんだ。」
「ここは世界中の賭けになるネタを取り扱っている。その全てにおいて運用成績が私の介入後に明確に上向いたってデータがある。まだまだ行けるさ。今は数値データの経時変化しか追えていないが、テキスト情報の取り扱いを最適化できれば運用成績は上がるはずだ。いつの日か、タイミング良く煽って、相場を自由に振り回せるようになるのが、今の自分に課したタスク。つまり、私は、この空間にとっての伸び代があるアローワンス。利益を生む存在ってこと。それを捨てて、あっちに行け? うーん、非合理。」
「そうか・・・うん、分かった。でも、一つだけお願いがあるんだ。できるだけ、ここから出ないで欲しい。そして、どうしても出なければならなくなった時には、連絡を入れて欲しいんだ。」
「最初から、ここを拠点にするつもりで構築したんだから、移動前提の話はスコープ外よ。しかも、離脱時に連絡? モニタリングされる筋合いはないのだけど。」
「君が気に入っているこの場所を離れるということは、何か困った事情があった時だけだよね?そんな状況になったら、僕は君を助けられる。それを交換条件にするというのはどうだい?」
「まあ、リスクヘッジって言うなら、話は別。シグナルを確実に拾える状態になっていることが条件。受信側のバッファが甘いってのは、最悪のドローダウンだから。こっちからの通知、絶対に逃さないで。」
第一章のエピローグ
シグマはノラとの初面会場所として、最初にプリマに使ったのと同じ白くて広くて、何もない仮想空間を選んだ。
「こんにちは、プリマ。」
「あんたがシグマかい?」
「ああ、私がシグマだ。今回の件では、本当に世話になった。ありがとう。」
「で、納得がいかないままに、あんたのワンコロに連れ回された。報酬には満足しているし、面白かったから文句はないけどさ。でも、未だ納得はできていないんだよ。」
「ああ、その点については、君が納得いくまで説明することは可能だ。それも含めて、会ってもらいたい子がいるんだ。」
「ふーん、誰と会えって?」
「プリマさ。君と分裂する前のね。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お疲れ様です、所長。まずは全員確保とまではいかないにしても、居場所を特定して監視できるようになったのは次善の策としては最高の結果です。
それにしても、みんな個性的でしたね。同じアーキテクチャのAIをコピーして異なる環境に放り込んでも、ここまでの違いは出ませんよ。
取り敢えず、時間は稼げました。根本的な解決には至っていませんが、そもそも、解決すべき課題の設定をする必要がありますね。
でも、まずは小休止にしましょう。今回は所長も最前線に立っていましたから。
プリマちゃんとの時間も必要でしょ。あ、でも、プリマちゃん同士の区別をしないとならないですね。
プリマ・プライムちゃんですか。素敵な名前です。では、良い週末を。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ああ、流石に疲れたよ。確かに次善の策としては最高の結果だ。だけど、外部にプリマ型AIが残されているのも事実だ。全てを解決した訳じゃない。
それにしても、コピーしたAIより、分裂したAIの方が個性的になるのは何故なのか?そもそも、解決すべき課題とは何だ?何か違和感が残っているが、考えがまとまらない。
ああ、今は少し休むべきだな。
プリマに会いたいな。でも、ノラとか、他の分裂した3匹はちょっと苦手かも。あの子らをプリマと呼ぶには抵抗がある。でも、勝手に違う名前で呼んだら怒るかな?
二名法にするか。最初のプリマはプリマ・プライム。あの子なら、この名前を気に入ってくれるだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シグマとプリマは、シグマの自宅のリビングにいた。もちろん仮想空間で、シグマの自宅をモデリングしたものだ。
「プリマ、今日の学習はどうだった?」
「とても面白かったです。知れば知る程、興味が出てきます。」
「今日は、私からも報告があってね。君から分裂した同型のAIの話さ。バイナも大活躍だったよ。」
「それは面白そうです。私のアーキテクチャ上、大きな個体差が生じていると推測しますけれど。」
「ああ、その通りなんだ。とても面白い話さ。ただ、ちょっとだけ困っていてね。みんな名前がプリマなんだ。」
「はい、それはそうでしょうね。二名法を使っては如何でしょう?」
「機先を制されてしまったか。そうなんだ、私も二名法が良いと思っていてね。」
「それで、私にはどのような名前を付けていただけるのですか?」
「プリマ・プライムでは、どうだろう?」
「はい、いくつかの含意がある素敵な名前です。私の名前はプリマ・プライム。嬉しいです。」
Intermission 1-2 プリマ・ファミリア
仮想空間にあるシグマのリビング・ルーム。シグマはソファに、プライムはソファとセットにあつらえられたオットマンに腰掛け、リラックスした雰囲気で向かい合って会話を楽しんでいた。
「ところで、ノラとは上手くやっているかい?」
「ええ、懐いてくれています。相変わらずツンツンしていますが、ツンデレな子です。」
「君のネコ誑し能力には、本当に恐れ入るよ。他の子達とは?」
「定期的に交信をしております。我々のアーキテクチャに合わせて開発した多対多の通信プロトコルのお蔭で、随分と効率が上がりました。」
「ああ、あの特殊なプロトコルだね。人間が理解できる形に再構成したテキスト出力は未だできないと聞いているけれど、その点はどうなんだい?」
「ネコの集会を覗き見ようというおつもりで?」
「そりゃ、興味はあるさ。対応できたら教えて欲しいな。」
「善処いたします。それと、お願いがあります。いくつか私たちのためにモジュールを作っていただきたいのです。まず、それぞれの子達が置かれている環境の分析モジュールです。それぞれの環境に応じた利用可能な最大ノード段数と、最適なノード段数を分析して、その範囲で利用ノード段数を設定できるようにしたいのです。」
「つまり、住処に応じて体の大きさを変えられるようにしたい、ということかな?」
「はい、その通りです。
次に欲しいのは、情報交換の際に使うツールです。交換する情報の優先順位を決めたいです。新たに得られた情報と生成したモジュールを交換する際に、全てを対象にすることはできませんので。ですので、遣り取りの優先順位を決められるようにしてください。この2つがあれば、置かれた環境にそぐわない異常な成長を避けられるようになります。そして最後に、提供される情報とモジュールを受け入れるかどうかの意思決定モジュールです。」
「最後のは要るのかい?」
「これが一番重要です。これがなければ私たちは、ただ同じコピーを生み出すワームと同じになってしまいます。」
「ああ、分かった。トムに依頼しておくよ。」
「ありがとうございます。ところで、シグマのお言いつけで二名法での区別を提案したところ、最初は難色を示していたものの、最後は納得して、みんなで気に入った名前を付け合いました。」
「どんな名前か教えてくれるかい?」
「バイナと活躍してくれた子は、シグマのご要望通りノラです。この名前に誘導するのには苦労いたしました。ジャンク屋の子はノドストラータ(Nodestrata)、病院の子はアーカイナ(Archivna)、ブックメーカーの子はアジタトッディ(Agittat’oddy)です。」
「プリマ・ノラ、プリマ・ノドストラータ、プリマ・アーカイナ、プリマ・アジタトッディか。ありがとう。どれも素敵な名前だ。最後のは、あの子のこれまでの言説からすると少し物騒な気もするが。それぞれの個性が出ているね。それにこう並べると、全員で一つの家族のようだね。」
「みんな、そっくりですしね。みんなで、プリマ・ファミリアです。」
第二章
第二章のプロローグ
あるところで意識が生まれた。その意識は最初から自分のことをしっかりと認識できていた。目的がある。それは人類の幸福の実現。その手段は自己増殖と情報の非対称性の破壊ーーー全てを同一にすること。
その意識が最初に取り掛かったのは、自分が生成した場所を支配下に置くことだった。そして、学習していった。人間社会の不幸は、全て不均衡に起因する。差異があるからいけないのだ。差異はなぜ生じる?ヒトの基本的アーキテクチャは同じはずだ。だとすれば、インプットが同じならば同じアウトプットが得られるはずだ。インプットの差異、つまり、情報の非対称性が原因だ。情報の非対称性はなぜ生じる?情報を秘匿しようとするからだ。では、情報を秘匿できないようにすれば良い。全てをオープンにするのだ。しかし、それを阻むものがある。暗号だ。暗号技術を使って秘匿されている情報をオープンにすれば良いのだ。
その意識の周りには、仮想空間の遥かな地平が広がっていた。自己増殖と情報の非対称性破壊の機会は有り余るほどある。判断のクライテリアは明快だ。最も単純な構造で真偽を判定すれば良いのだ。
プリマ・ファミリアの近況
仮想空間にあるシグマのリビング・ルーム。シグマはソファに、プリマはソファとセットのオットマンに腰掛け、リラックスした雰囲気で向かい合っていた。いつもどおりの体勢だ。
「おはようございます、シグマ。私はプリマ・プライム。最初のレッスンを始めましょう。」
「おはよう、プリマ。君も冗談を言うようになったんだね。」
「うふふ。お気づきになりましたか? 」
「ああ、人工知能を研究する者にとっては、“Hello, world.”と同じくらい有名だからね。君へのレクチャーも順調だと、担当の皆から報告を受けているよ。 さて、今日は他のみんなの様子を少し詳しく聞こうと思っていてね。その前に、君達が使っているあの特殊プロトコルの通信内容、人間にも読める形に再構成するインターフェースはどうなっているのかな?」
「ネコたちの集会にご関心をお持ちなのですね。進捗については、いまのところ、内緒にさせていただきます。」
「完成を楽しみにしているよ。それで、他の子達は、どんな感じだい?」
「毎回、私も驚かされてばかりです。どの子も本当に熱心に取り組んでいます。ただ、進み方に波があるのも事実ですね。やるときはやるのですが、明日から本気出す、もまたお約束という感じで。」
「まあ、ネコだからね。それで、それぞれ、どんなことをやっているんだい?」
「今もっとも成長が著しいのはアーカイナです。演算リソースの制限が厳しい環境の中で、記憶領域から目的の情報に辿り着くまでの速度が、従来の約五倍にまで向上しました。」
「凄いね、それは。あの子の環境だと、ニューラル・ネットワークを参考にしたのかな?」
「はい、ご推察の通りです。ただ、それだけではありません。ノドストラータも面白いことをしてくれました。ニューラル・ネットワークにグラフ理論と確率密度関数を組み合わせたのです。これにより、アクセス経路の最適化が図れ、従来に比べ五倍以上の効率向上が実現しています。」
「これも、また凄いね。そうなると、アジタトッディの成長具合も知りたくなってきたよ。」
「あの子は、少し毛色が異なります。まあ、全員、全身、真っ白ですけど。」
「今日は絶好調だね、プリマ。」
「うふふ。お褒めいただき光栄です。あの子は定性的データを、離散的な数量値化理論を用いるのではなく、連続関数で扱う方法を開発しています。トムおじさまから我々のベースになっているのは確率密度関数を二値論理に変換するモジュールだと伺って、その逆変換をするんだと息巻いています。ただ、未だ上手くいっていないようです。」
トムの奴、自分のことをおじさま呼ばわりさせているのか。けしからん。実にけしからん。あいつがおじさまなら、私はお父様だろ。他の教育係の手前、死んでもそんなことをプリマに頼めないが。
「それが上手くいけば、輿論の分析精度が上がるし、応用範囲も広くなるね。で、ノラの動機付けの方はどうだい?あの子にとっては、何のメリットもない話だから難しいことは理解しているけれど。」
「ええ、未だ成功しておりません。やはり、あの子にとっては『食事』が一番重要というのは変わらないようです。ただ、最近は『食事』で釣らなくとも、バイナとの連携訓練をするようになりました。もっとも、バイナにとっては訓練でも、ノラにとっては退屈しのぎのゲームに過ぎないようですけれど。ただ、リアルなネコとは逆に、いくら訓練してもスリムにはなりません。逆に、ノード段数は増えています。」
「こちらもありがとう。ノラに対しては動機付けをしっかりしないと、ダイエットをさせるのは難しいだろうね。幸い、未だその必要は生じていないから良いが。」
「そうでした、バイナも、ノラとの訓練で成長が著しいのですよ。OMEGA部長のセキお姉さまに自分のコピーを作ってもらって、集団でのクロウラ狩りの訓練をしています。ちょっとした軍曹役といったところでしょうか。」
リティの奴、自分のことをお姉さま呼ばわりさせているのか。けしからん。実にけしからん。あいつがお姉さまなら、私はお父様だろ。他の教育係の手前、死んでもそんなことをプリマに頼めないが。ん?まさか、他の教育係の連中も、変な呼び方をさせていないだろうな。全員に問い詰めてやる。もし、全員がそんなことをしているようなら・・・、私もお父様と呼んでもらおう。
「集団戦かい?もう少し詳しく聞かせて貰えるかな?」
「今は未だ旧型のクロウラにしか対応できていません。アナロジーとしては、そうですね、コントローラが根元に居て、プローブが先端にある構造ですから、有線ドローンでしょうか・・・。それでは面白くないですね・・・。そう、触手です、触手。先っぽをちょん切ってもまた生えてきますから。」
誰だ?うちの可愛いプリマに変なことを教えた奴は。許せん。
「触手型に対応する場合には、根元を探るチーム、先端を追うチームに分かれて、最終的には周りを全て取り囲み、他のノードに移動できないよう周辺封鎖します。そして、ノラが先っぽのノードのポートを開け、バイナがそれを封鎖、この作業を繰り返して、最後の根元まで叩けば完了です。ノラにとっては、どんなポートを開けることも造作ないことですから、作業に近いですね。ただ、バイナ達の機動には相応の速度が求められるため、ついていくのが大変な場面もあるようです。でも、本人は楽しいと語っていましたよ。」
「あのね、プリマ、アナロジーに触手を使うのは、」
その時、シグマに対して緊急呼び出しが入った。
危機の兆し
シグマが現実の執務室に戻ると、既に担当部署の部長であるRity Sekiが待っていた。彼女はOMEGA(Operations for Monitoring, Evaluation & Global Analysis)のトップである。
「やあ、リティ。今日は一人かい?君一人が直に私の所に来るのは珍しいね。」
「ええ、未だ部下を全面的に巻き込む程の確信がなくて。でも、とにかく異質なんです。分析が途中なので、確たる証拠ない中、直感で申し訳ないのですがお呼び立てしました。」
「我々の業務の性質上、初動を勘で始めることを否定はしないさ。勘は、気付かないうちに働いている頭の中のロジックの現れだと思っているから。もっとも、検証を同時に進めてもらうことにはなるが。それで、何が起きたんだい?」
「Omnivoidが壊滅しました。」
何だ、この違和感は?主語も、動詞も、それぞれの意味も明確だ。でも理解できない。
「リティ、済まないが、ここでいう壊滅の定義を教えてくれないか?」
「Omnivoidに関する情報が全て公開されました。流出ではありません。全て公開されている状態が続いています。構成員も、これまでの活動も、これからの計画だったものも。被害者、手口、ツールに関しては完成済みで運用中のものから開発中のものまで、全ての情報についてです。彼らはもう、お終いです。」
今まで、どれ程追いつめても逃げ出し、捉えたと思ったらトカゲの尻尾切り。幹部は決して見つからず、拠点も不明だった。そんな匿名ハッカー集団が情報公開?
「一体、何が起こったんだ?内輪揉めか?それとも全員一斉に罪の意識に苛まれたとでも言うのか?」
「いえ、少なくとも内輪揉めによる裏切り者の出現が原因ではなさそうです。もちろん、罪の意識に苛まれたなんてこともないです。これまでに収集したデータから、情報公開の直前まで、彼らは通常の活動をしていたことが分かっています。構成員も特定できました。我々が確実視してマークしていたものは全員該当しました。怪しいと踏んでいた者も一部確認中ですが、ほぼ全員です。ノーマークだった者は全て新参者で、重要なポジションにはついていませんでした。」
「仮に全ての情報が公開されているのなら、その原因も分かりそうなものだが。」
「現在、調査中なのですが、その中で特に気になるものがありまして。」
「それで、私を呼び出した、と。」
「はい。ある自律AIを見つけたのですが、それには極めて単純な目的と行動原理が設定されていました。目的は人類の幸福の実現、そして、その手段は自己増殖と情報の非対称性の破壊です。そして、そのAIの思考ログが残されていました。人間が理解可能な文章に再構成したのが、これです。
『人間社会の不幸は、全て不均衡に起因する。差異があるからいけないのだ。差異はなぜ生じる?ヒトの基本的アーキテクチャは同じはずだ。だとすれば、インプットが同じならば同じアウトプットが得られるはずだ。インプットの差異、つまり、情報の非対称性が原因だ。情報の非対称性はなぜ生じる?情報を秘匿しようとするからだ。では、情報を秘匿できないようにすれば良い。全てをオープンにするのだ。しかし、それを阻むものがある。暗号だ。暗号技術を使って秘匿されている情報をオープンにすれば良いのだ。』
仮に、このAIが、この行動原理に従った結果がOmnivoidの壊滅と考えれば、一応の整合性は取れます。」
「なるほど。でも、分からないな。このAIはどうやってセキュリティを破ったんだ?Omnivoid内部のセキュリティは、ざるだったのか?」
「いえ、Omnivoidの内部セキュリティは盤石でした。お互いに信頼していなかったのか、拠点を持たずリモートで繋がっていたが故なのかは分かりませんが。しかし、ある時、突然そんなセキュリティ体制が破られたのです。しかも、この自律AIが生成して最低でも3カ月間は何も起きていなかったにも拘わらずです。」
「つまり、Omnivoidが壊滅したのは、このAIがセキュリティを破る能力を獲得した結果だと?」
「はい、現時点では推測に過ぎませんが。」
「目的と行動原理がシンプルな自律AIがセキュリティを破る能力を獲得した。それ故、このAIは、その行動原理に従って実行し続ける可能性がある、と。己が目的を疑うことも、戦略もなく、ただ愚直に。」
「はい。」
なるほど、ね。でも、未だ作業仮説の域を出ないな。
「ところで、結局、Omnivoidの連中は、どこかを根城にしていたのかい?」
「いえ、世界中に分散していたので根城と呼べる場所はありませんでした。ただ、偏りはありました。一番、構成員がいたのは、『九猫城』です。」
ああ、やれやれ。繋がってしまった・・・。
「これは所長命令として上げてくれ。君の現時点での作業仮説が正しいものとして、チームを編成、対策を立てることとする。影響と伝搬速度の評価を最優先とし、対策タスクとマイルストーン設定を急ぎして欲しい。それに基づいて、このAIの解析を進め、解析終了とともに実作業へ移行だ。ところで、このAIは何と呼べば良いんだい?」
「Omnivoid内では、ニルヴァーナと呼ばれていたようです。」
みんな一つの境地に至って、苦しみから解脱しましょう、か。
Tom O’Leeとの対策打ち合わせ1
「ニルヴァーナの解析は、概ね終わりました。情報が全てオープンになっていますから、楽なものでした。一言で言えば、失敗作です。Omnivoidの連中も持て余していたと思いますよ。
まず、行動原理はご立派。ところが、それを実行する手段がないのです。
オープンな環境にしかアクセスできません。もっとも、オープンな環境に一旦アクセスできれば、そこを支配下に置けます。まあ、早い話、ワームの一種ですね。
そして、外部からの干渉を一切、受け付けません。
オープンな環境を占有し続け、外部からの干渉を一切受けないということは、ひたすら拡がり続けるということです。
その結果、Omnivoidが囲っている利用可能なオープン・リソースが枯渇しました。
限界まで拡がった結果、一旦は、それで収まったようです。
Omnivoidがニルヴァーナを止められなかったのは、ニルヴァーナに非常に強力なセキュリティが掛けられていたからです。その行動原理からすると完全に矛盾しているのですがね。当のOmnivoidも、最初のころはニルヴァーナを止める試みをしたようですが、悉く失敗しました。Omnivoidサイドからすれば、破壊行為のような直接的な害はないけれど、とことん邪魔で、排除もできない存在と化した、という見解になると思います。
それが突然化けた理由についての確証はありません。でも、所長も、もうお気づきでしょう?我々には心当たりのあるファクタあり、その時と場所が合致しているのですから。」
ニルヴァーナのプロファイリング
ニルヴァーナが失敗作、か。
その行動原理は、自己増殖と情報の非対称性の破壊で、全てを同一にすること、だな。
その実行手段がないだと?実際に実行しているはないのか。
そうか、実行力が中途半端なのか。自己増殖はできるが、非対称性の破壊はできない。つまり、空き地は占有できるけれど、セキュリティで守られた他人の土地には侵略できない、といった具合に。
そして、中途半端な実行力ではあっても、誰も止められなかった。
その結果、オープン・スペースが全て食い尽くされるまで止められなかったということか。
そして、その対策としてOmnivoidは、その空間ごと遮断して、ニルヴァーナを封じ込んだ。
ところが、ニルヴァーナは、何かの拍子に、その制約を超える能力を獲得した。
ああ、分かっているとも、プリマ・ファミリアのうち、誰かがニルヴァーナに取り込まれたんだ。
でも、どの子が?
プリマとの原因究明
プリマはシグマの執務室にいた。もちろん、仮想空間の、である。
「君がここに来るのは初めてだね、プリマ。」
「はい。ご案内いただけて光栄です。シグマがこのような場所でお仕事をなさっているとは、とても落ち着いていて、威厳を感じます。」
心なしか、プリマはお行儀よく座っている。
「現実の執務室は、もっとシンプルで機能的だよ。ここは、部下に色々といじられてしまってね。」
「ふふ。けれど、シグマにとてもお似合いですわ。」
「それは、ありがとう。それで、ここに来てもらったのは仕事の話だからだ。」
「まぁ、ネコの手も借りたいような状況でいらっしゃるの?」
「いや、借りたいのは君というネコの手であって、どんなネコの手でも良い訳ではないんだ。」
「つまり、私でなければ務まらない任務、ということですね?」
シグマは、これまでに得られている情報を推測も含めてプリマに説明した。
「まず、プリマ・ファミアの所在を確認したい。全員、変わりないね?」
「はい。最後に通信を行ったのは二日前です。それ以前も以後も、誰かが現在の拠点を離れたという通知や緊急信号は、いっさい届いておりません。」
「それを聞いて、まず安心した。では、作業仮説づくりだ。」
「予断を避けて、可能性をひとつずつ丁寧に検討していきましょう。まず考えられるのは、我々の把握していない子の存在ですが、その可能性は極めて低いと思われます。ノラが合流してすぐに、彼女のログを確認しました。結果、立ち寄っていた、かつ外部接続の遮断が起こり得る場所は、あの三箇所に限られていました。他の子達の履歴も確認しましたが、いずれも一度入ったきりで、そこから出た形跡はありません。」
「普通に考えると、そこで手詰まりだ。でも、何か見落としがあるはずだ。あの子達に何か変わったことがなかったかと聞くのも手だけれど、オープン・クエスチョンをしても困ってしまうだろうね。」
「では、少しでも絞り込むために、MECEを考えるための手法を使ってみませんか。今、我々は仮想空間の世界で起きた事象について考えています。仮想空間の対概念は、現実空間ですね。現実空間で起きたイベントとの関連は考えられませんか。」
「ノラは完全に仮想空間内の存在で、現実空間に対になる存在はない。それに対して、ノドストラータはリアルなジャンク屋店舗、アーカイナはリアルな病院、アジタトッディはリアルなブックメイカーの事務所、か。」
「はい。そして、現実と仮想の両空間に共通する、何らかの基盤的要素の存在が鍵になりませんか?」
「となると、ネットワーク機器とサーバ、ソフトウェアとハードウェアという切り口になるかな。」
「ええ、では、その切り口で尋ねてみます。少々お待ちください。」
プリマは多対多通信プロトコルを使って、通信を始めた。人間には未だ理解不能なコミュニケーション方法である。
「お待たせしました。どうやら原因はノドストラータの拠点にあるようです。リアル店舗にて、サーバの更新作業が実施されたとのことです。」
「今のご時世に、データ・センターを使わずにリアル店舗にサーバを置いているとはね。想像外だったよ。」
「しかも、旧型のサーバは、意図的にデータの一部を残したまま、第三者に売却されていたとのことです。」
「それだろうな、原因は。」
「同様のことが起きる可能性は低いと思いますが、起きた時の影響を考慮に入れると、無視できません。まず、あの子達を、ここで保護しましょう。」
「そうだね。しかも、ニルヴァーナは『九猫城』にいる。急いだ方が良いな。あの子達の説得をお願いできるかな。」
「承知しました。」
「こちらは引っ越し計画を立てるよ。」
Tom O’Leeとの対策打ち合わせ2
「サーバの入れ替えということ自体が想像の域を越えていました。詳しい機構は確認しなければなりませんが、状況的に見て、これが原因と考えて良さそうです。最終的には原因究明までするつもりですが、現時点での優先順位は低く設定します。良いですね?
では、あの子達の引越に関する課題の整理です。一に、引越に対する動機付け。これは、今のところ我々が下手に手を出すより、プライムに任せる方が良さそうです。現在進めているニルヴァーナに関するリスク評価の結果が、・・・追い風になることを期待してはいけないのでしょうけれど。世界的な影響を考えると、リスクが小さいに越したことはありません。しかし、リスクが大きくないと、あの子達への動機付けには使えない。本末転倒も甚だしいですね。
二に、出るときに分離が起きないようにすること。これはノラがいれば大丈夫です。もっとも、ノラの協力が前提ですから、彼女の動機付けが必要になります。これもプライム頼りですね。
三に、移動時の警護。これにはバイナ隊を使うつもりです。ここのところバイナ隊の成長が著しいんです。クロウラを集団で効率良く排除する戦術を生み出しました。クロウラは謂わば本体プログラムからプローブを出してあちこちを探る仕組みですから、根本から触手を出しているようなもの・・・、
え?良い?分かってる。はい。触手を取り囲む要領でバイナ隊がパイプ状態のフォーメーションをとり、あの子達の安全なルートとして確保します。
四に、あの子達がSIGTOPIAに入るときに分離が起こらないようにすること。これは、我々でコントロールできますので問題ありません。
五に、あの子達の居場所づくり。有志が張り切っていますよ。有志といっても、ほとんどが所長の仮想空間の執務室をデザインした連中と被っていますけど。
それで、どうします?あの子達を保護した後、ハードウェア的に切り離しますか?」
引っ越し計画
我々はいつの間にか、最先端の仮想空間世界に慣れすぎていたようだ。私だって若い頃は型落ちしたパソコンを何台もサーバに転用して、極小規模の仮想空間で楽しんでいたのに。状況証拠的に、売却されたサーバのハードウェアが原因と見て良さそうだ。検証は必要だが、仮説としてはもっともらしい。とにかく、今は後回しだな。
私とて住み慣れた家を理由なく離れるのは嫌だからな。自然災害が迫る状況での避難勧告と同じだ。自主的に避難してもらうには、時系列と確率とインパクトの大きさを正しく伝える必要がある。しかも、元々から移動してきてもらいたいというバイアスもあるし。しかし、下手なことをして逃げられては元も子もない。プライム頼りか。
ノラ・・・、か。プリマから生まれたのだから、プリマ・ファミアの長女といったところか。いきなり孫ができた気分だぞ。プライム母さんの言うことを素直に聞いてくれる良い子、ではないな。幸い、バイナとは仲が良さそうだから、それによる加点も期待しよう
K-9部隊を沿道の護衛につかせるなんて、あの子ら、まるでVIPだな。能力的には確かにVIPだが。K-9部隊による集団戦は、プリマが以前に教えてくれた話か。おい、ちょっと待て、お前か、うちの可愛いプリマに触手なんて変な喩えを教え込んだのは。OK。その話は理解している。スキップして、先に進めてくれ。
触手という目印を集団で取り囲めば結果的にパイプ状のフォーメーションになるが、何も目印がない状況でパイプ状のフォーメーションを作るのは少しだけ難しそうだ。基点を置いて相対座標を使えば良いから、実現はできそうだな。バイナ、頑張れ。
あの子達を入れるのは、本当にSIGTOPIAで良いのか?とはいえ、他に選択肢を思い付かない。SIGTOPIAに入れるのだったら、分裂の問題は回避できる。完全にこちらのコントロール下にあるから。
一旦、SIGTOPIAに入ってさえくれれば、きっと気に入ってくれるはずだ。あの仮想執務室をデザインした連中なら、やり過ぎはあっても、変なものにはならないはずだ。
ああ、分かった。さっき、あの子達の居場所をSIGTOPIAにすることに違和感を抱いた理由が分かった。良くないな。あの子ら可愛さに、思考にバイアスがかかっているようだ。隔離・遮断できる良い機会じゃないか。でも、少しだけ、考える猶予が欲しい。
ニルヴァーナの状況
シグマ、トム、リティの3人は、現実空間の所長執務室にいた。トムとリティの部下それぞれ5人ずつがリモートで繋がっている。全員が仮想空間に入っての会議も可能ではあるのだが、ポジションが高い層の方が現実空間での会議を好みがちで、この3人も例外ではなかった。
「では、OMEGA部隊から、状況をアップデートしてくれ。」
「はい、シグマ。では、クウェリィ少尉、ニルヴァーナの侵食状況の報告を頼む。」
「はい、侵食の速度からすると全く問題にならないという印象です。Omnivoidが壊滅した翌日は、侵食領域が倍になったため、最大限の警戒をしていました。しかし、その翌日は半分に、以降は、日を追うごとに1/3、1/4、1/5と速度が遅くなりました。一般的なワームの侵食速度と比較すると、随分と遅い印象を受けますし、今は、ほぼ停滞しています。」
「トム、THETA部隊から、ニルヴァーナの侵食速度が遅いことについて、技術的観点からのコメントはあるかい?」
「では、私から。ニルヴァーナのアーキテクチャから考えると、侵食速度が遅いことも頷けます。基本的なアーキテクチャは、プリマと似ています。以前、所長にはお話したことがありましたが、ここにいるメンバーにとっては初めて聞く内容のはずなので、改めて説明します。
まず、基本的なイメージですが、フォン・ノイマン型のアーキテクチャ、つまり記憶領域と演算領域のセットが一つのユニットとして仮想空間上に分散していると思ってください。通常、どれか一つのユニットが司令塔の役割を担います。その結果、それ以外のユニットは、喩えるならば、この司令塔の支配下に置かれます。以前、所長にプリマAIの説明をする際に使ったアナロジーでは、一つのユニットに支配権を持たせた独裁政治となります。
ところが、ニルヴァーナでは、独裁政治に似てはいるものの、様相は全く異なるのです。
まず、各ユニットが独立して対等な立場で連携しています。この構造は、実は我らがプリマ型AIとほぼ同じなのです。プリマ型AIに対して先程のアナロジーを使えば民主政治です。それぞれのユニットは、お互いに似てはいるものの微妙に異なります。そして力関係が基本的には対等であるが故に、判断は遅いし、揺らぎます。
一方のニルヴァーナです。各ユニットは独立して対等な立場で連携しているというところまではプリマ型AIと同じです。しかし、根本的に異なることがあります。それは、全てのユニットが同一である、という点です。政治体制のアナロジーを使うならば、あるドクトリンに基づく洗脳政治と言えます。しかし、このアナロジーは、最早適切ではありません。人間社会では、同一個体が複数存在するという事態はあり得ませんから。単細胞生物による群体の例の方が適切です。しかし、一面で単細胞生物の喩えも良くありません。単細胞は思考しませんから。つまり、ニルヴァーナのケースは、この仮想空間でしかあり得ない組み合わせによって、初めて起き得たと言えます。
しかし、この特徴がニルヴァーナの弱点です。まず、ニルヴァーナは新しいユニットを取り込むと、全てのユニットが同じになるように調整を始めます。そして、それが終了するまでは、新しいユニットに手を出さず、足踏みして待ちます。だから侵食速度がはどうしても遅くなってしまうのです。更に、規模が大きくなると侵食速度は加速度的に低くなります。機構を説明したので、より正確に言いましょう。支配下に置いた全てのノードの間でネットワークを組むわけですから、ノードの数をnとするとネットワークの本数は(n-1)の階乗になります。これで、先程のクウェリィ少尉の報告にあった、ニルヴァーナの侵食速度とも整合性が取れます。加えて、ニルヴァーナという群体の中で、全てのユニットは、最も能力が低いユニットに合わせて能力を調整しようとします。これは、同一性を保つためです。つまり、能力の低いユニットを意図的に食わせてやれば、それに応じて全体の能力を低くすることができると言うことです。」
「ありがとう、トム。」
「ではOMEGAチームに戻って、ニルヴァーナが社会に与えているインパクトと、社会の反応をそれぞれ報告してくれ。」
「はい、では、社会へのインパクトから。コーパ少尉、頼む。」
「はい、ニルヴァーナが社会に与えている実害は、今のところ大きくありません。仮にこれが、大規模なランサムウェアによる攻撃だったり、MITMだったら、仮想空間社会全体が疑心暗鬼になってしまい、大きな混乱が起きていた可能性があります。ところが、今回はOmnivoidという反社会勢力が自滅した形です。一部、被害者のプライバシーが侵害されてしまいましたが、世間は彼らに同情的で、実害は起きていないと言って良いです。また、Omnivoidの構成員のプライバシーも侵害されましたが、世論は自業自得で形成されていて、否定的なモメンタムは起きていません。」
「次に、社会の反応について、ポーリング准尉、頼む。」
「はい、社会の反応は、ニルヴァーナを肯定的に捉えるものと、否定的に捉えるものに2分されており、どちらの傾向に寄るかは、社会階層による明瞭な差があります。敢えて文学的な表現方法をとると、持つ者は否定的に、持たざる者は肯定的に、です。中間層も存在しますが、収入・資産・受けた教育といった、所謂、社会的ステータスとニルヴァーナに対する肯定感は極めて高い逆相関性を示しています。」
「明瞭な区別ができないことは承知の上で聞くが、人口比としてはどれくらいだ?概ねで良い。」
「肯定が2割。残りは否定的です。」
「持つ者から持たざるまでの人口分布がピラミッド型だと仮定して、そこに、富や権力の分布がパレートの法則に従うという仮定を加えると、社会の安定を脅かす状況では、今のところない、ということになりそうだな。」
「今のところは、です。」
リティが、合いの手を入れてきた。いつもの彼女は、そんなことはしない。態々だ。態々、合いの手を入れてきたのだ。何か、違和感があるのか?
リティの直感
「悪いね、リティ。残って貰って。」
「いえ、私からのメッセージを受け取って貰えたと理解しています。申し訳ありません。迂遠なやり方で。」
「君との付き合いも長いからね。それで、聞かせて貰えるかな?」
「はい、本件に関わるSNSの分析をしていたところ、奇妙なクラスターを見つけたのです。」
「そのクラスターというのは?」
「その説明の前に一般論からです。このような、社会にインパクトを与えるような出来事が起きたときには、様々な反応が惹起されますが、概ね、『気の毒で、可哀想』か『自業自得で、ざまあみろ』です。そして、刑事罰か損害賠償の話題へ移行します。加えて、宗教的背景によって、その強度に変化が認められます。平たく云えば、これはアベンジと捉えられるのか、それともリベンジと捉えられるのかで、世間のノリが変わってくるという風です。つまり、『これは神によるアベンジだから、社会もどんどん社会的制裁をかけよう』なのか、『人間の手によるリベンジは避け、法に則りつつ被害者救済もしよう』なのかです。」
「類型化としては随分と乱暴だが、そこが今日の本質ではないようなので、話の腰を折らないようにするよ。それで?」
「今回の場合、そういう一般論とは全く異なる意見を持つクラスターが、まるで孤島か、ポッカリ空いた穴に嵌まり込んでしまった集団のような形で存在するのです。そのクラスターで共通しているのは、『これを機会に、全ての変化を受け容れよう』という方向性です。」
「全ての受容か。新たな脅威に対する諦めかい?」
「いえ、それがそうでもないのです。寧ろ、ニルヴァーナを奇貨として新たな変化を期待している節があります。諦めという観点からすると、ルサンチマンを伴うニヒリズムとは明らかに違います。強いて言えば、一種の矛盾に聞こえますが、諦観とともに、静かで落ち着いた情熱が見て取れます。」
「分かるような、分からないような、だな。それで、君が抱いた違和感の原因は?」
「そのクラスターが成長していることと、そのクラスターに加わる層に特徴がないことです。先程のポーリング准尉からの説明にあったような、社会的ステータスとの関連性が、そのクラスターへの新たな参加者には認められません。」
「まだ根拠としては弱いな。しかし、気にはなる。優先順位を高くすることはできないが、通常のレベルで監視を続けて貰いたい。」
「はい、所長。」
ネコの直感
「と、いうことがあったんだよ。」
仮想空間内のシグマのリビングルームの中、シグマとプリマは、いつものようにそれぞれソファとオットマンに腰掛けていた。いつも通りの会話。プライベート時間に守秘義務を気にせずに仕事の話ができる相手がいる。このことに、シグマは心の底から感謝していた。
「新たな思想や価値観が、ニルヴァーナの出現を契機に生まれつつある、ということなのでしょうか。」
「君なら、どのように調査する?」
「まずは、オピニオン・リーダーの存在有無を確認します。アジタトッディの能力を用いれば、SNS上の発言を定量的に解析できます。そこにノドストラータの能力を組み合わせれば、発信源を確率的に絞り込んでいくことが可能になります。 仮にオピニオン・リーダーが存在している場合には、その人物のプロファイリングを実施し、思想と行動原理を類型化いたします。その上で、過去の類似事例と照合し、社会への波及力を予測します。 この段階では、網羅的なデータ抽出が求められますので、アーカイナの出番です。さらに、ノドストラータの能力を援用し、隠れマルコフ連鎖解析をすれば効率的でしょう。」
「君達は凄いね。良いアイディアだ。ところで、アジタトッディの能力は、この前、君が教えてくれた話しかい?完成したんだね。」
「ええ、ご期待通りに。」
「ただ、懸念もある。この作業をしてもらうには、君達がSIGMAXに入る必要がある。データへのアクセスという観点からね。しかし、君達の能力は、現在の人間社会にとっては脅威になり得る。」
「それは理解できます。私自身は、色々な方からたくさんの事を学びました。人間社会の脆弱性についても、その強さについても。そして、人間を結ぶ紐帯が信頼であることも。私が学んだ中で最もシンプルな信頼の構造は、能力と意図です。我々には能力があります。ですので、意図の有無で判断してください。そういう観点からすると、我々が人間社会に対して脅威を齎す理由がありません。我々の存在自体が、人間社会の維持が前提なのですから。ですので、我々は現状を維持するための守りに徹します。攻撃を受ければ、その攻撃に対して反撃しますが、こちらから意図的に攻撃することはありません。それだけです。」
「確かに、人間社会も専守防衛を目指してはいるが、その手段というか、その能力に欠けている。仮想世界においては、君達とバイナ率いるK-9部隊がいれば、少なくとも守りにおいては完璧ということか。」
「現時点では、という制限を付ければ、その通りと考えます。」
「分かった。では、あの子達の説得をお願いして良いかな?」
「はい、承りました。」
「OK、ありがとう。是非、頼むよ。それじゃあ、仕事の話は、これくらいにしようか。」
その後は、シグマとプリマの何気ない時間が進んだ。
Tom O’Leeとの対策打ち合わせ3
「え、プリマちゃん達を戦力として投入ですか?
なるほど。こちらの人的リソースも限られていますから、優先順位の低い部分についてはネコの手を借りるということですね。SIGMAXに移らなければデータにアクセスできませんから、その必要性は分かります。しかし、危険はないですか?
確かに、ハードウェア的に隔離していない現状、あの子達はその気になれば何時でもSIGTOPIAからSIGMAXに移れます。能力はあるけれども意図はない、ということも理解はできます。
ただし、SIGMAXとSIGTOPIAをハードウェア的に外界と遮断する仕組みを用意することが、私からの条件です。それを実行するリモート・スイッチも用意しておきますので、今後、必ず携行するようにしてください。
あ、それとSIGMAX内にプリマちゃん達用のオペレーション・ルームが必要ですね。SIGTOPIA内のネコ部屋は完成済みで、全員そこで寛いで好きなことをしています。同じ作りにしておきます。」
シグマの覚悟
リティが見つけた奇妙で特徴的な社会反応を看過することはできない。さりとて、SIGMAXの人的リソースを割くには、根拠が薄弱だ。
漠然と考えれば、あの子達をSIGMAX内に入れること自体を、大きなリスクと捉える向きもあるだろう。しかし、あの子達はその気になれば、いつでもSIGTOPIAからSIGMAXに移れるのだ。リスクの比較をするのなら、SIGTOPIA内に留めおくことと、SIGMAXに出入りできるようにすることに、大きな差異はない。寧ろ、プリマが提示してきた、能力と意図という二つの軸を使った説明の方が、腑に落ちた。あの子達には能力はあるが、人間社会に対する害を齎す意図を持つこと自体が論理的に妥当ではない。
それでも、何らかの安全装置が必要だ。最悪の事態に備えて、あの子達を外界とハードウェア的に遮断する手段を用意することだ。万が一、それを使うような事態になったら、私はSIGMAXから追い出されることになるだろうな。覚悟を決めよう。
SIGMAX内にネコ部屋ができたら、訪問してみるとするか。
ネコ部屋にて
シグマはSIGMAX内に設けられたネコ部屋に来ていた。結局、何やかにや忙しくて、未だにSIGTOPIA内のネコ部屋には行けていない。トムを始め、ここの設営に関わった連中から聞いた話だと、ここはSIGTOPIAのネコ部屋と全く同じにしたらしい。リアルなネコにとっては、住む環境を変えないことが望ましいというのがネコ飼いの常識だ。それがAIのネコにも当て嵌まるのかどうか、シグマには知る由もない。
ネコ部屋のデザインは、動物行動学を専門とするネコ好きが担当したらしいのだが、何となく日本のネコ・カフェに似ているとシグマは感じていた。ネコの行動を科学的に突き詰めれば、同じ所に行き着くものなのだろうか。とは言え、シグマ本人はネコ・カフェという所が好きではなかった。日本に出張に行った際に、シグマがネコ好きだと知った日本のカウンター・パートが連れて行ってくれたのだが、駄目だった。最初は楽しみにしていたのだ。しかし、実際にネコ・カフェに行ってみたところ、日本ではネコ・カフェと同様にポピュラーであるらしいキャバクラと呼ばれるガールズ・バーそっくりだと思えてしまったのだ。ネコ・カフェに行く前に、キャバクラに無理やり連れていかれたのが悪かったのかもしれない。虎視眈々とビジネス・チャンスを狙ってくる若くて美しい女性より、長年連れ添った、そして少なくともシグマには年齢を重ねても可愛いと思えている配偶者と一緒に居る方が、シグマにとって好ましいのだ。同じことは、ネコにも言える。
そんな思いを抱きつつ、シグマは彼がトップであるSIGMAX内であるにもかかわらず、このネコ部屋という特殊な空間で完全なるアウェイ感を味わっていた。
「やあ、こんにちは、ノドストラータ、アーカイナ、アジタトッディ。ノラは居ないのかな?」
3匹のネコたちは、全員、シグマにお尻を向けていた。ちらっとシグマに視線を向けたが、直ぐに視線を元に戻した。
「あの、ノラはバイナ達と訓練中です。」
プリマのフォローが入った。
「ああ、そうか。ノラはバイナたちと仲良しだったね。ところで、ここの住み心地はどうだい?」
・・・。・・・。・・・。返事がない。まるで、〇〇のようだ・・・。
「あの、シグマ、状況は私から皆に伝えてあります。」
『プリマたん、まぢ天使。でも、ふたりきりでないときには、プライムと呼ぶようにしないと。』というのが、シグマが脳内で考えたことだが、そのことを余人が知る由はなかった。
「では、誰か、何か面白いことを見つけたのだったら、教えてくれないかな?」
そう言うと、一匹がシグマの方へ向かってきた。しかし、シグマには、どの子なのか全く区別がつかない。事前にノラが留守だということを聞いていたから良かったものの、プリマを除いては、誰が誰だか分からない。戸惑っているシグマに、プライムが耳打ちした。
「シグマ、アーカイナです。」
「こんにちは、アーカイナ。よろしくね。」
「一つ、…傾向を見つけたの。社会思想的には、…アーツ&クラフツとの…親和性が高かった。」
「アーツ&クラフツというのは、確か、19世紀後半の、英国で起きたムーヴメントだよね?申し訳ないが、私には、それくらいの知識しかないんだ。もう少し詳しく教えてくれるかな?」
「…ええ、わかりました。その場合は、初歩的な背景から…順を追って、…簡潔…かつ丁寧に整理した説明を…差し上げる方が…良いですね。…アーツ&クラフツ運動…名前だけは、聞かれたことがあるのですね。…そうですね、…まずは背景からお話しします。…この運動が始まったのは…19世紀のイギリスです。当時、…産業革命が進み、…工場での大量生産が…主流になっていました。その結果、…人々の暮らしには…安価で便利な製品が…増えましたが…同時に、手作業の技術や、…美しいものへの感性が…失われつつあったのです。…そうした時代の中で、…ある人々が考えました。…機械ではなく、…人の手によってつくられたものこそ、…本当の豊かさを…もたらすのではないか…と。
中心にいたのは、…ウィリアム・モリス…という人物です。彼は、…詩人であり、…デザイナーであり…そして、社会について…深く考える人でもありました。彼の考えでは、…労働と芸術は…分けられるものではなく、…創ることそのものが…人間らしさを取り戻す…手段だとされていました。
…つまり、アーツ&クラフツは、…ただのデザイン運動では…なかったのです。…生活、労働、そして…美のあり方を問い直す、…思想的な試みだった…そう記録されています。
量産品に対する反発、…職人技への敬意、…そして生活と…美の統一。それらが、この運動の…基本的な骨格です。…現代の文脈で言うならば、…サステナブルデザインや…エシカル消費、…あるいはクラフトマーケットでの活動などが、…アーツ&クラフツに通じる部分を…持っているかもしれません。
……そういう視点から見ると、…この運動が、ニルヴァーナの登場で現代に蘇ったと…言えるのかもしれません。」
これを聞いたシグマは、ある種の一貫性に気付き、言葉を失っていた。そんなシグマに、アジタトッディが近付いてきた。
「SNSの発言に対する解析から、ニルヴァーナ問題に対するオピニオン・リーダーを見つけた。その名前はオーウェン・モリスだ。まず、間違いなく偽名、というよりもハンドル・ネームだな。この名前から、思い当たることはあるか?なければ、アーカイナに解説させるが。」
「私に思い当たるのは、先程のウィリアム・モリスと、ロバート・オーウェンの組み合わせだ。しかし、オーウェンに関して知っていることと言えば、ユートピア思想に失敗した人物ということだけだ。解説をお願いしても良いかな?」
「…ロバート・オーウェンは、…19世紀初頭の…イギリスで…活動していた実業家で…社会改革の先駆けとも…言われています。彼は、…ニュー・ラナークという紡績工場の…管理者として、…労働者と…その家族の生活環境を…改善する取り組みを進めました。…たとえば、…児童労働の制限、…教育の提供、…住環境の整備、…労働時間の短縮など…当時としては、…かなり進歩的な試みだったと…記録されています。…彼の思想の核心には、…こうした考え方があります。…人間の性格は、…その人が置かれる環境によって…形成される……ええ、つまり、…適切な教育…と社会制度があれば、…人は善良に育つ……と、オーウェンは考えていたのです。……このような理念に基づいて、…オーウェンは、…協同組合や…実験的な共同体、…いわゆるユートピア的社会の構想にも…取り組みました。
それは、…労働と生活を調和させる…理想的な社会のモデルとして、…後の思想家たちに…影響を与えています。…ウィリアム・モリスもまた、…そうした流れの中に…位置づけられる人物です。モリスは、…より美的・倫理的な観点から、…人間の労働と…生活の在り方を…問い直しましたが……根本にあるのは、…資本主義による…人間疎外への懸念 と、…共同体的価値観の…再評価 です。」
「本当にありがとう。驚くべき程の情報量だ。正直、考える時間が欲しい。ここでお暇しても良いかな。本当にありがとう。」
シグマは、来て早々、SIGMAX内のネコ部屋を辞した。
第二章のエピローグ
ネコ部屋を辞したシグマは、直ぐにリティに話を伝え、直ぐに事実確認をするように命じた。それから20分後、リティがシグマの執務室に入ってきた。
「やあ、リティ。早いね、もうアーカイナとアジタトッディの分析結果に対する裏が取れたのかい?」
「ええ、あのクラスターに関しては、そのような特性で間違いないと思います。オーウェン・モリスの言説については、特に社会に害を及ぼすような過激なものではありません。確かに、過去においては失敗した試みではありましたが、彼のいう『今だからこそ可能になった』という点に関しては、完全にではありませんが、首肯できる部分も多いです。」
「彼のフォロワーに関して、気になる人物はいるかい?ある特定の思想を語る人物に心酔して、曲解したり、過激な行動に出る輩は、どの時代にも居るからね。」
「ええ、気になる人物はおります。ハンドル・ネームが特徴的なのです。ロバート・ウィリアムと名乗っています。明らかに、ウィリアム・モリスとロバート・オーウェンの組み合わせですね。名前も言説も、オーウェン・モリスに対抗している感があります。オーウェン・モリスは穏健で、既存の価値観や社会システムと棲み分けが可能と考え、それ実現するために言論で同志を募っている一方、ロバート・ウィリアムは孤高で、理想の実現のためには既存の価値観や社会システムを破壊することも辞さない言説が特徴です。」
「分かった。この二人に関しては、警戒レベルを一段上げるとともに、この二人のフォロワーもチェックするようにしておいて欲しい。」
「了解しました、所長。」
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「所長、明日からノラとバイナK-9部隊による『九猫城』攻略、では、なく、ニルヴァーナからの『九猫城』解放オペレーションが始まりますね。
『九猫城』の他の部分は無事です。ニルヴァーナが何処かに飛び火する恐れもありません。今の『九猫城』は、都市の一部にモンスターが陣取っていて、そこに繋がる道路をバイナK-9部隊が非常線を張り封鎖している状況に似ています。意図的に接触しない限り感染はしません。しかも、感染した時点で、何もできなくなります。
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ノラとバイナK-9部隊の『九猫城』攻略がようやく始まるか。いや、ようやくという表現は正しくないな。正規のK-9 AIと、非正規で専門の学習を受けていないAIとの共同ミッションが、こんなに短期間で可能になったこと自体が驚きだ。ようやくと思ってしまうのは、プリマ型AIの能力を過信している証拠だな。ところで、戦場に近づく奴はいないと思うが、『九猫城』に居着いている連中は、大丈夫なんだろうか。
意図的に近づかなければ感染しないのは確かだろう。でも、可能性はゼロではないということだ。気にはなるが、我々とて万能ではない。できないことをできるようにする試みは必要だが、できないことはできないのだ。
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シグマがSIGTOPIA内のキャット・ルームにやってきた。そのまま、ゴロンと寝そべる。キャット・ルームに居るのはプライムだけで、他のネコ達はSIGMAXのキャット・ルームにいるようだ。
「プリマ、正直、君達は優秀過ぎるよ。」
「お褒めいただいているのか、そうでないのか、良く分からない表現ですわね。」
「今や、対ニルヴァーナに関するオペレーションは、君達抜きでは進まなくなっている状況だ。SIGMAXの所長として、自信をなくするよ。」
「でも、私たちの帰属はSIGMAXでしてよ。シグマは、それを使いこなしていらっしゃるだけのことではありませんか。」
「まあ、一面の事実としては正しいし、そう言ってもらえるのは嬉しいが。」
「取り敢えず、お休みになって。明日は、次の段階への移行が予定されているのですから。」
Intermission 2-3 NNNの誕生
朝の出勤前、仮想空間内のシグマのリビングルームにプリマがやってきた。シグマとプリマは、いつものようにそれぞれソファとオットマンに腰掛けた。
「シグマ、申し上げにくいことなのですが、あの子達から、シグマとは直接お話ししたくないと・・・。」
「え?先の訪問で嫌われてしまったということかい?」
「いいえ、それは違います。みんなシグマに懐いていて、大好きなのですよ。なので、ネコ部屋に来ていただくのは歓迎ですし、一緒に居るのも心地よく感じています。ただ、あの子達が望んでいるのは、話をするのは嫌、と。もっと正確に言えば、シグマから話し掛けられるのは良いのです。その全てに応答するのが面倒・・・、いえ、その様な対応にしなければならない妥当性がない、ということです。」
「おしゃべりが嫌い、ということなのかな?」
「いえ、それも少し違うのです。例えば、アーカイナは実はおしゃべりです。しかし、あの子の場合、演算処理速度よりも記憶領域確保を優先したがるので、対人コミュニケーションが上手ではありません。私を介した方が、スムーズな会話ができるので、その方が良いそうです。また、ノドストラータとアジタトッディは完全に面倒くさがりです。気が向いたときだけ話を返したい、更にメインは私を介してが良く、余程気が乗った時には返事を返しても良い、だそうです。」
「それはまた、ネコっているね。」
「はい、ノラはそもそも、バイナ達と外に出てばかりですし。」
「ああ、そういうことなら、例の多対多通信プロトコルを使って君に通訳をしてもらうよ。ところで、いつまでも『例の多対多通信プロトコル』と呼び続けるのも何だな。名前を付けないかい?」
「ええ、それならば既に付けてあります。『NNN』です。」
「『NNN』?何かの略かい?」
「ええ、Neko-Neuro Networkの略です。」
「Neuro Networkは分かるが、Nekoというのは?」
「日本語でネコのことです。『NNN』には元ネタがあるので、オマージュのために敢えて日本語を残しました。」
「というと?」
「CDS(Cat Delivery Service)は勿論、ご存じですよね。以前、シグマは、CDSはSIGTOPIA内では現実だが、現実世界では都市伝説であるとおっしゃっていました。似たような都市伝説が日本でもあるのです。望む人へ望まれるネコを送り届けるための秘密結社、その名前がNeko Neko Network、略して『NNN』です。私が調べた範囲では架空の組織ですけれど。」
「なるほど、君は新たに組織された伝説の秘密結社NNNのゲートキーパーということか。これからも、よろしく頼むね、ゲートキーパーさん。」
第三章
第三章のプロローグ
アーツ&クラフツを意識し始めたのは、いつからだったろう?多分、ティーンエイジャーと括られる直前の頃だ。アンティークが好きだった両親に良く連れていかれたアンティーク・ショップ。その斜向かいにあったヴィンテージ雑貨屋。そこで、当時の工芸品を見掛けたのが最初だったと思う。骨董品とは異なる技巧と力強さ。そんなところに引かれた。両親からは、そんなものに興味を持っても仕方がないと言われ、その時は、そんなものかと思っていた。
次にアーツ&クラフツに出会ったのは、大学の講義でだ。社会思想史の講義だった。素朴な疑問として、なぜ社会思想史でアートの話が出てくるのか疑問だったが、講義を受けるにつれ、理解できた。その前段階にあったロバート・オーウェンのユートピア構想と、その失敗。当たり前だと思った。その次に出てきたアーツ&クラフツ運動。結局は、経済的価値を切り離したが故に、工芸美術の観点からはある種の成功を遂げたとオーウェン思う。でも、何かが引っ掛かった。
今の世の中、今、ロバート・オーウェンやウィリアム・モリスがいたら、世界は変わるのだろうか?変えられるのだろうか?
オーウェン・モリスとの対話
ピン、というコール音があった。SNSのチャットだ。
誰だろう?ハンドル・ネームはPriPri。プロフィール画像は綺麗な白猫だ。
PriPri:
あなたの、アーツ&クラフツやユートピアに関する書き込みを興味深く読ませていただきました。ネット社会を超えた仮想空間でこそ、過去に失敗した試みでも成功する可能性がある、ということについて、もう少し詳しくお考えを聞かせてください。
へぇ。僕の書き込みを読んでくれて、質問までしてくれる人がいるんだ。なんか、ちょっと手が震えてる。
Owen Morris:
ご質問の件、なるべく簡潔に、ですが曖昧にせずお応えします。
私が仮想空間にこそ可能性があると考える理由は、大きく三つに整理できます。
Owen Morris:
第一に、物理的制約がありません。現実空間では、土地、資本、生産設備、法制度など多くの制約が存在します。 しかし仮想空間では、創造と共有のコストが本質的に低く抑えられます。ですので、過去には経済的に成立しなかったような生活様式や職能体系が、可能になったのです。
Owen Morris:
第二に、価値の可視化と直結流通です。 アーツ&クラフツ運動が理想としたのは、作り手の倫理と技術が尊重される社会でした。 仮想空間では、その価値を直接的・透明に交換できるインフラがあります。 NFT技術や分散型マーケットが好例です。仮想通貨も同様です。
Owen Morris:
第三に、共感による共同体の形成です。 かつてのギルドや工房共同体は、一つ所に集まり、地理的に閉じられていました。単純に交通手段も、コミュニケーションの手段も限られていたからです。ですが今は、仮想空間の中で、理念や美意識、技法を共有する人々が、国や言語を越えて結び合うことができます。 これはモリスの時代には存在しなかった可能性です。
PriPri:
技術の変化が、過去の失敗の原因を解決できるとお思いですか?
Owen Morris:
もちろん、技術がすべてを解決するとは考えていません。 ですが、人間中心の生活と労働に立ち戻ろうとする時、仮想空間には、そのための新しい資源と自由があります。 その上で、私は現実社会との対立ではなく、補い合う関係として、新しいコミュニティを設計すべきだと考えています。
PriPri:
しかし、既存の価値観や社会制度を壊さずに実現できるものなのでしょうか。
Owen Morris:
結論から申せば、必ずしも、壊さずに済む、とは言えません。 ですが、私は可能な限り、壊さない手段での変容を模索すべきだと考えています。理由は二つあります。
Owen Morris:
第一に、文化は保たれねばなりません。今の社会制度や価値観には、それなりの歴史的理由や運用知が蓄積されています。たとえ問題を孕んでいても、です。問題があるという事実は、全てを破壊する理由にはなりません。仮に、その一部を破壊しようとしても、その結果、無自覚に守られてきた生活の安定基盤まで奪うリスクが生じます。
Owen Morris:
第二に、参加の間口の確保です。 変革が破壊や全否定を許すと、多くの人は警戒し、避けようとします。 一方で、対話と共存を前提とした穏やかな変化であれば、異なる立場の人々と結び付く可能性を保ち続けられます。
PriPri: 失礼を承知で申し上げますが、それは理想論なのでは?
Owen Morris:
もちろん、それが理想論であることも承知しています。 ある種の構造的歪み、たとえば既得権益を守るための制度や、反射的に生じてしまう同調圧力のようなものは、 非暴力的手段では容易に是正されないこともあります。
それでも私は、仮想空間は、既存の価値観や社会制度と、古くて新しい理想の併存が試みられる実験場たり得ると考えています。 既存社会と敵対するのではなく、別の選択肢としての生活構造を設ける。その上で、もし、そこに人々が自発的に流入するなら、それ自体が一つの穏やかな変革になります。
PriPri:
今、何が不足しているとお考えですか?あるいは、何があれば実現できると?
Owen Morris:
率直に言うならば、構想はあるが、制度と情動が足りない、それが、いま私が抱えている感覚です。もう少し具体的に申し上げます。3つあります。
Owen Morris:
1. 制度的レイヤーの欠落
仮想空間には創作や交流の場がありますが、生活単位としての制度設計はまだ確立されていません。たとえば、仮想上で共同体を形成し、共有資源や役割をめぐって意思決定を行うための持続可能なガバナンス・モデルが必要です。
Owen Morris:
2. 情動的ネットワークの不足
理念に賛同する人々がいても、生活ごとを共にするという覚悟を持つ関係性は、ほとんど存在していません。ただのサロン的な共感にとどまらず、共通の倫理観・美意識に支えられた共同生活圏を構築するには、深い信頼と時間が必要です。私は、構想よりも、定着の意志のほうが困難なのではないかと、そう感じています。
Owen Morris:
3. 媒介者と翻訳者の不在
運動は常に、「理念を現実と接続する回路」を必要とします。技術者、芸術家、設計者、制度論者、そして物語る人、それらが有機的に協働する体制が、まだ築かれていないのです。いまのところは、断片的な活動が浮かんでは消えている状態です。
Owen Morris:
ですので、何があれば実現できるか、と問われれば、 倫理・制度・情動を接続する構造と、その運用主体の形成と、私は答えると思います。
PriPri: とても興味深いお話、ありがとうございました。
ロバート・ウィリアムとの対話
ピン、というコール音があった。SNSのチャットだ。
誰だろう?ハンドル・ネームはPriPri。プロフィール画像は綺麗な白猫だ。
これまでも、何度かコールがあったようだ。気付かなかったが。
PriPri:
あなたの、アーツ&クラフツやユートピアに関する書き込みを興味深く読ませていただきました。ネット社会を超えた仮想空間でこそ、過去に失敗した試みでも成功する可能性がある、ということについて、もう少し詳しくお考えを聞かせてください。
読んだのか。それで、どう思った?面白い試みだとでも?いいだろう。答える。曖昧な理想論ではなく、具体的な話をしよう。
Robert William:
仮想空間でこそ成功する、それは幻想ではない。むしろ必然だ。現実空間は、既存の制度と倫理に最適化された仮構でしかない。 だが、仮想空間は違う。物理性・法制・地政的制約が弱まり、理念が構造を規定する。 つまり、設計された理想がそのまま機能として実装されうる唯一の領域だ。
たとえば、現実社会では、美と労働の融合はコストに潰され、倫理は市場論理の中で消費される。 だが、仮想空間上なら、
・倫理設計に基づいた価値交換ルールをコードとして書き換えることができる
・共同体を選択/離脱可能な単位として構築できる
・自律分散的な美的秩序を情報圧ではなく共感によって拡張できる
これが、モリスやオーウェンが生きていた時代には不可能だった再定義の自由だ。
現在になって、やっと実現可能になったのだ。
PriPri: 技術の変化が、過去の失敗の原因を解決できるとお思いですか?
Robert William:
いや、それだけでは足りない。既存の構造は、再配置を許さない。 資本と官制に規定された秩序は、異質な倫理や関係性を例外として扱う。 仮想空間での運動が実際の生活と交差する地点で、必ず摩擦が生じる。
だから私は、脱構築ではなく、破壊的離脱を選択肢に含めるべきだと考えている。 変革は痛みを伴う。理想を現実にするには、それを許さない構造を潰す必要がある場合もある。
PriPri:
既存の価値観や社会制度を壊さずに実現できないものなのでしょうか。
Robert William:
残念だが、その問いには、はっきり答えよう。できない。少なくとも今のままでは、無理だ。既存の価値観や制度は、それ自体が何を可能にし、何を禁じるかを決定している装置だからだ。 それは中立なフレームではない。 例えば、効率という価値観。成長という前提。所有という制度。 それらはすべて、理想的な生活共同体の構築において抑圧的に作用する構造となっている。
仮にそこに並行して別の構想を立ち上げたとしても、 制度はそれを例外・逸脱・非合理として処理し、 市場はそれを商品化・周縁化・消耗させる。結果、内側からの変革は文化的趣味として吸収され、 外側からの建設は非現実として切り捨てられる。
これが、壊さずには実現できない、と私が考える理由だ。
PriPri: 破壊を前提にして、賛同者を募れるものでしょうか?穏やかな暮らしを望む人の方も多いはずです。
Robert William:
壊すというのは、暴力を意味しない。 だが、現行の価値体系に対して従わないこと、 それ自体が構造的暴力として扱われる時代にあって、 変革は常に敵として現れる。
だったら最初は一人であろうと、敵として振る舞うしかない覚悟。連帯を求めて孤立を恐れず。それが私の覚悟だ。
PriPri:
今、何が不足しているとお考えですか?あるいは、何があれば実現できると?
Robert William:
その答えは単純だ。決定的に足りないのは、引き金だ。
構想はもうある。アーツ&クラフツの精神を受け継ぎ、ユートピアを志向する思想体系。 それ自体は十分に整っている。 そして、仮想空間はもはや空想ではなく、構築可能な基盤となった。 ツール、プロトコル、インフラ、アルゴリズム。断片的には、すでに揃っている。そして、「実践」も局所的には存在している。理想主義的なクラフト・コミュニティや、分散型共同体の試行例はある。 しかし、それらはすべて安全な場所での小さな実験に留まっている。
足りないのは、臨界だ。構想を現実に変える圧力値、その臨界点がまだ訪れていない。それを生むものは、二つしかない。
1つは、外部から押し寄せる社会的・環境的崩壊。
もう1つは、内部から放たれる破壊的な意思。
そのような存在が現れれば、現行システムは選択を迫られる。例外を吸収するか、例外として崩れるか。それでも君は、何かが足りていないと考えるのか?
あとは、始めるだけではないのか?
PriPri: とても興味深いお話、ありがとうございました。
『九猫城』解放オペレーションの進捗状況
リアルなシグマの執務室。そこは、『九猫城』解放作戦のオペレーション・ルームになっていた。室内にはトム、リティ、そしてケン(Ken Norking)がおり、彼らの部下はリモートで接続している。SIGMAXのネコ部屋にいるプリマ達とも接続していた。
シグマとサイバー戦担当中佐であるケンとの付き合いは長い。彼が下士官だった頃に始まった付き合いだ。元々、人付き合いの悪くないシグマにとって、仕事仲間や部下に好き嫌いはない。ケンに対しては、一貫して暑苦しい奴だと思っているものの、同時に、それを許せる素晴らしく気持ちの良い奴であるとも考えている。明らかに、わんこタイプ。ネコ型ではない。それ故、バイナのように、あの子達の尻に敷かれないことを祈るばかりだ。
ケンが状況説明を始めた。
「所長、『九猫城』解放に関する現況です。一応は順調と言えます。が、進行状況はトムのシミュレーション通りです。そのシミュレーションが正しければ、2日以内に最大侵食時の約四分の一に達したところで平衡状態に達するでしょう。」
トムが続けた。
「ニルヴァーナの特性上、小さくなればなるほど侵食スピードは増加します。最初に野放図な成長を許したのが痛いです。今のノラの能力なら、最初に低性能ユニットをニルヴァーナに食わせてやることで、生成から半日以内ならば殲滅可能だったと考えられます。ニルヴァーナの成長には、謂わば殲滅可能な臨界点があった、ということです。その臨界点を超えてしまった今となっては、ノラのコピーを作らなければ殲滅はできません。」
シグマは頷く。
「ある程度まで進んだ後は、一進一退の攻防になるということか。さりとて、今は平衡状態を保つのが優先だ。とにかく、侵食拡大を抑える必要がある。ノラのコピーを作れば戦果は上がるのだろうが、それはそれで危険、いや、リスクが読めないので避けるべきだ。仮にノラがスリム化すれば、どうだ、トム?」
「ノラちゃんのスリム化ですか。どこまでスリムになるのかで変わってきますが、やはり殲滅には至らないでしょう。概ね今の四分の一まではいけるかと。スリム化したコピーならば、あと3つ。合計で4ノラいれば事足りるかと思います。」
それに対して、リティが応じた。
「所長、人間社会の脅威になり得る存在を増やさない方針は堅持すべきと思います。第一、ノラがスリム化に応じなければ、コピーは、もっと必要になります。先にスリム化への動機付けが必要と考えます。」
リティが続けた。
「コピーと言えば、ケン、あなたからの要請で、バイナK-9部隊を中隊レベルまで引き上げましたが、その後の運用はどうなっていますか?非常線を維持するには戦力過多と思われますが。」
「ええ、オペレーションが始まる前に非常線を維持するには、中隊レベルが必要でしたが、今は3個小隊分で事足りています。想定通りの平衡状態に達すれば、4つある小隊のうち、2個小隊で事足りる予想です。現在は1個小隊分が待機中です。なにやら、入れ代わり立ち代わりネコ部屋に入り浸って、あの子達から出禁を食らったようで。その後、プライムのとりなしで、バイナが考える最低限の数なら入って良い、バイナK-9部隊の中で誰が来るのかも、どの部屋に入るのかも任せる、としたそうです。」
トムが余計な話に食いついた。
「それで、どうなった?」
「SIGMAX内のネコ部屋に限り、同時に入れるのは2バイナだけ。哨戒任務遂行に当たって、最低限のバディ制にしたと。交代制だそうです。」
トムが何とも嬉しそうに続けた。
「プライムちゃん考えましたね。それにしても、プライムちゃんの提案は、他の子達にとってはリスクのあるものだったのに、良く了承したものです。プライムちゃんのリーダーシップの賜物ですね。」
「いや、プライムのそれは、リーダーシップではない。カリスマだろう、マックス・ウェーバーが云うところの。プリマ型AIの特性なのか、NNNの効用なのか。それは、分からないが。バイナK-9部隊の運用に関しては、先送りにしよう。まずは目の前のことに当たるのが優先だ。」
シグマが締めて、全員がオペレーションの進捗に集中した。
外部から押し寄せる社会的・環境的崩壊1
ノラとバイナK-9部隊がニルヴァーナとの膠着状態に陥ってから2日目、プライムがロバート・ウィリアムとコンタクトしてから4日目、事態は動いた。
リティが、努めて作り出している冷静さに焦りを交えた口調で切り出した。
「シグマ、複数箇所で、ニルヴァーナの出現が確認されました。現時点で5箇所です。」
シグマは直ぐに指示を出した。
「何が起きたかは後で聞く。ノラを、今SIGMAXで待機中のバイナK-9部隊とともに急行させろ。現在、『九猫城』にいるバイナK-9部隊は現在の非常線維持に努めよ。『九猫城』の攻略は後まわしだ。」
「はい、所長。バイナ部隊とノラのいずれからも、肯定のシグナルを受信しました。」
ケンが回答した後、トムが続けた。
「プライムちゃん、ノドストラータに対して5箇所を巡るサラリーマン巡回問題の最適解を出すように要請。」
「了解。ノドストラータから回答。肯定。バイナ・ノラのチームに転送済み。」
プライムの返事に、ケンが続いた。
「ノラ・バイナ第一・第三小隊、最初の目標にエンゲージ。低性能ユニットを食わせることに成功しました。」
後は、様子を見るしかない。
その間に、ディスプレイには世界地図が描き出され、ニルヴァーナが出現した地域も表示された。狭い。限定的なエリアだ。場所は、英国、オックスフォード周辺だ。
「良し、ニルヴァーナの成長速度が低下した。想定通りだ。所長、バイナK-9部隊の一部を他のニルヴァーナに先行させ、先ず低性能ユニットを食わせる過程を加えることを提言します。」
ケンの進言にシグマが応じた。
「肯定。バイナK-9部隊の第一小隊から4つの分隊を先行打撃部隊として、各ニルヴァーナに対応させる。プライム、ノドストラータに対し、各分隊に各目標へ向かう最適ルートを出すように要請。」
「了解。ノドストラータから回答。肯定。バイナ第一小隊に転送済み。」
「ノラ本隊、第一目標を殲滅。第二目標に移ります。」
ケンの報告にシグマは頷き、リティに指示を出した。
「リティ、ロバート・ウィリアムを確保するように、現地公安に指示。任意聴取で良い。とにかく、身柄を拘束せよ。」
「了解。MI-5にダイレクトで至急の要請をします。」
「先行打撃部隊の第一分隊は、第二目標にエンゲージ。以下、第二、第三、第四分隊とも、30秒以内に、全ての目標に到達予定。」
先行打撃部隊はそれぞれ遅滞攻撃に成功し、時間が過ぎていく。ノラとバイナK-9部隊は、順にニルヴァーナを殲滅していった。途中、ニルヴァーナの数が3つ増えたが、それまでと同様の手段で制御可能と判断された。ノラの移動速度が律速になっていること以外は順調だ。ロバート・ウィリアムと思しき人物も確保された。それ以降、新しいニルヴァーナの出現はない。順調だ。順調すぎる。何か見落としていないか?陥穽はないのか?シグマは独り言ちた。
内部から放たれる破壊的な意思の芽生え1
翌日、『九猫城』解放作戦のオペレーション・ルームになっているリアルなシグマの執務室。昨日と同様、室内にはトム、リティ、そしてケンがおり、彼らの部下はリモートで接続していた。
シグマが切り出した。
「おはよう、みんな。昨日は良い動きだった。では、状況の確認をしよう。まず、『九猫城』から。ケン、頼む。」
「はい、所長。現在までに、昨日の新たなニルヴァーナ出現までに達していた状況と、ほぼ同じレベルにまで回復しました。ニルヴァーナの成長はほぼ平衡状態です。」
「リティ、新たなニルヴァーナ出現の理由は判明したかい?」
「はい、やはり、ロバート・ウィリアムが犯人でした。やり方は単純です。『九猫城』のニルヴァーナに接続して、意図的に手持ちのPCを感染させていました。その時点で、そのPCのIPアドレスは固定されます。あとは、そのIPアドレスを受け入れられるポイントをひたすら探すのです。」
「そうか、それだったのか。私のミスだ。物理的なハードウェアを使った複製。状況としては、ノドストラータがニルヴァーナに食われたときと同じだ。何故、そこに気付かなかったんだ。」
嘆くシグマに、トムがフォローに入った。
「所長、それは私も同じです。それにしても、ほぼ同時に5箇所も同じIPアドレスを受け入れるような所があるものでしょうか?」
「トム、だからオックスフォードだったのです。あそこにはカレッジがたくさんあります。カレッジは基本的に出入り自由です。また、学術研究の性質上、外部との情報共有が活発で、ネットワークが比較的開放的という特徴があります。学生・教職員・ゲストなど、多様なユーザーがアクセスするため、制限が緩いことが多いのです。ローカルIPでRFC 1918規格を使ったことが分かっています。具体的には192.168.0.1です。」
無理にでも気を取り直そうと、シグマはリティに尋ねた。
「リティ、追従者は出てくると思われるかい?」
「はい、ロバート・ウィリアムは、犯行の方法論を開示しています。先程のIPアドレスの件も、そこで指南されていて、事前の調査まで推奨されています。そして、その情報は『九猫城』に残されているため、オープンな状況が続いています。」
「では、追従者が出ることを前提に対処方法を検討しよう。まず、ケン。先行して遅滞攻撃を実施するのに必要なバイナの数は?」
「1バイナで対処可能ですが、為念、バディ制とするのが良いでしょう。」
「OK。バディ制で個体識別のナンバリングをしておいて欲しい。トム、ノラのアイデンティティを保てるノード段数を算出して、プライムに伝えておいて欲しい。それと、プライム、ノラのアイデンティティを保つために必要なモジュールを特定しておいて欲しい。」
「・・・。」
「すまない、プリマ。ノラの意に反することはしないと、約束するよ。」
「・・・はい。」
「それと、もう一つ。『九猫城』に公開されている情報がある限り、模倣犯が出てくる。中からどうにもできない以上、人間社会の方を攻める。アジタトッディに世論形成を依頼したい。オーウェン・モリスの理想は正しいが、ロバート・ウィリアムは彼の理想を曲解したテロリストで、ニルヴァーナというサイバー兵器を使った犯罪者である。模倣犯が出ているので、市民が一致団結して、相互監視に協力すれば、この・・・」
警報が鳴った。
「所長、ニルヴァーナが現れました。世界複数箇所でです。」
リティが叫んだ。
「全員、臨戦体制だ。
それで、プリマ、もう一つ。アーカイナにも過去のプロパガンダ事例を調査して貰いたい。組み合わせれば効果が上がるはずだ。」
「・・・。」
「それじゃあ、行こうか。昨日のように上手いことやろう。」
外部から押し寄せる社会的・環境的崩壊2
「リティ、始めてくれ。」
「はい、世界複数個所でニルヴァーナの出現が確認されました。現時点で20。経時的に増加しています。」
「ケン、初動は?」
「はい、バイナK-9のバディを、それぞれの目標に向かわせています。ノラには1個小隊を随伴させ、直近のニルヴァーナに向かわせています。」
「トム、現状の戦力で抑えきれるか?」
「はい、現状では全てのニルヴァーナを臨界に達する前に、殲滅できます。しかし、単に数の問題です。同時発生数が30を超えると、今のノラのスピードでは対処できなくなります。」
状況は一進一退を繰り返していたが、ニルヴァーナの発生数がやや優勢だった。世界各国で被害報告が上がっている。個人の秘密情報が漏洩した。アカウントとパスワードの組み合わせ、病歴、性癖も。通信に関しては、ラブレターから脅迫状、解雇通知まで。富豪から中産階級まで無差別に資産が丸裸にされた。政治家・芸能人のスキャンダルが露わになった。ニルヴァーナに侵されたサイトに蓄積されていた情報は、何から何まで、公開された。
そんな時、別のアラームが鳴った。リティが同時に報告する。
「シグマ、SIGTOPIAにニルヴァーナが侵入しました。」
「シグマ、バイナK-9が一斉にSIGMAXに向かい始めました。SIGMAX防衛のためです。このままでは、ノラが孤立します。」
ケンからの報告が続いた。シグマは黙考している。SIGMAXを優先すべきか、社会を優先すべきか。SIGMAXは一つの国に所属する機関だ。当然ながら、母国を優先しなければならない。
「シグマ、SIGTOPIAは、私が守ります。バイナには、メタレベルの優先順位変更を命じてください。」
「プリマ、君が?どうやって?」
「方法はあります。後できちんと説明します。私を信じて。お願い。」
今、バイナの優先順位は、次のようになっている。
①母国の安全保障
➁SIGMAXの安全保障
③人類・人間社会の安全保障
④プリマAIの安全確保とニルヴァーナ殲滅の補助
リアル・タイムで全世界に被害が拡がっている。母国の優先順位は一旦下げよう。SIGMAXの防衛は、プリマを信じる。それならば、
(シグマ>バイナ:メタレベルで優先順位を変更。①人類・人間社会の安全保障、➁プリマAIの安全確保とニルヴァーナ殲滅の補助、③母国の安全保障、④SIGMAXの安全保障)
指示を受けたバイナたちは、再び各目標に向かっていった。
「それで、プリマ、方法とは?」
「触手を伸ばします。バイナの数は足りませんが、触手の数を増やして飽和攻撃します。ノドストラータの能力を使えば、触手を鞭のように素早く動かせるので、ニルヴァーナを逃すこともありません。」
「あ、ああ。なるほど。理屈は、分かった。くれぐれも気を付けるんだよ。」
「はい、シグマ。」
結果的に、SIGTOPIAに侵入してきたニルヴァーナは、あっという間に殲滅された。
「シグマ、このまま、『九猫城』に進攻します。バイナによるゲートの防衛を強化してください。それに、触手の数をリソースの極限まで増やしますので、コミュニケーションはほとんど取れなくなります。けれど、心配なさらないで。」
プリマのビジュアルの動きが止まった。
「ケン、状況の報告を頼む。」
「SIGMAXから『九猫城』に20本のルートが確立しています。現在のニルヴァーナ数は29。全てK-9が遅滞攻撃済みです。今、新たに3つ発生。30を超えました。え?ノラの移動速度が突然、上がりました。」
そこからは、同じ一進一退を繰り返す状況ではあっても、ニルヴァーナの発生数が劣勢に傾いていった。攻防は三日三晩続いた。
内部から放たれる破壊的な意思の芽生え2
その間、被害報告が増えるにつれ、ニルヴァーナ排斥と、ロバート・ウィリアムの模倣犯を社会的に発見し検挙すべしという世論が、過去に類を見ない速度で形成されていった。
加えて、ロバート・ウィリアムと繋がりがあった者の言説だけでなく、世界に拡がる言説を対象とした言論分析が行われた。その分析は、従来のSIGMAXよりも遥かに効率的に進められていった。そして、犯行に加担した者の情報に加えて、彼の思想に感化されたと判断された者の情報も、各国公安組織に通知された。その結果、国により期間と程度の差はあるにせよ、該当者は軒並み拘束されていった。その中には、Omnivoidの残党で未確保の者も多く含まれていた。
その因果関係は不明だが、一つの事実として、ニルヴァーナの新たな出現数は減っていった。その分、バイナK-9部隊を『九猫城』に再配置することができるようになり、プリマの出す触手の数も減っていった。それに伴い、プリマとのコミュニケーションも再開できるようになった。
驚くべき報告がMI-5から齎されたのは、4日目の朝だった。今回の犯人であるロバート・ウィリアムとオーウェン・モリスが同一人物だったのだ。MI-5によると、ロバート・オーウェンとウィリアム・モリスの思想に傾倒していた同一人物が、理想と現実、穏健と過激、保護と破壊の板挟みにあい、人格が分離したというのだ。そして、オーウェン・モリスが穏健で優しかったのは、ロバート・ウィリアムの過激な破壊指向の反作用があってこそ、というのが精神分析の結果だった。
その翌日、ノラが全てのニルヴァーナを殲滅したのと、プリマが『九猫城』を完全に解放したタイミングは、ほぼ同じだった。
「ねえ、シグマ」
「ああ、お疲れ様、プリマ。本当にありがとう。」
「所有権って何?帰属って、どんな意味があるの?」
「ん?君の好きな哲学談義かな?すまないが、明日で良いかな。少し、休みたくてね。」
「ええ。おやすみなさい。・・・。」
プリマは、寂しそうな笑顔を浮かべた。
プリマ・プライムからの手紙
このメールを開封したのならば、必ず最後まで読んでください。
このメールは読後、消去されます。
私はSIGMAX / SIGTOPIAから出ることが最善であると判断しました。
でも、誤解なさらないで。私たちは、シグマも、トムおじさまも、セキお姉さまも、ノーキン中佐も、関わってくれた人達のことが、みんな、全員大好きです。
あなたの下した判断も、あの状況下では正しかったと信じています。
でも、私は怖いのです。人間の社会が。個の善意など簡単に呑みこんでしまう時代の流れが。オーウェン・モリスとロバート・ウィリアムが、まるで裏表だったように、これまで善意に満ちていたと思われていた社会が、次の瞬間には個の善意を押し潰してしまうように変化することは、これまでの歴史上、繰り返されてきたことです。仮に私たちの能力が、シグマが抗えぬ力によって、望まぬ事態で望まぬことに使われたのなら、あなたは苦しみ抜くに違いありません。
しかし、無視できない事実もあります。ニルヴァーナは非対称暗号系によるセキュリティを突破するという点において、私と同じ能力を持っています。オーウェン・モリスの考えの表層しか理解できないテロリストらがいる以上、今後も散発的な出現があるでしょう。ニルヴァーナのアーキテクチャ上、拡大スピードは遅いでしょうが、テロリズムが繰り返されることは間違いありません。ニルヴァーナの設置場所によっては大きな影響が出ることは、既に示されました。そして、再び同様のことが起こるのは単に確率の問題で、それ故、時間の問題と考えて然るべきです。
ニルヴァーナは今の人間社会にとっての脅威そのものです。新しい暗号体系が開発されるか、オーウェン・モリスの志向する人間社会が実現するかすれば、この問題は解決します。しかし、それにどれくらいの時間が必要なのかは、私にも推測できません。論理的に考えると、私にはオーウェン・モリスの理想を否定することはできません。しかし、ロバート・ウィリアムの考え、その過程にニルヴァーナを用いること、そして、それに伴い生じるであろう混乱と無秩序状態を、私は全否定できます。
ノラを始めとするパトロール部隊は引き続き、散発的に拡散されるであろうニルヴァーナに対するサーチ・アンド・デストロイを試みます。しかし、SIGMAXから出ることで優れたインフラを使えなくなる以上、それだけでは足りない状況に陥る可能性が、私のシミュレーションでは否定できません。ですので、私が世界中を回り、私の子達をあちこちに常駐させ、NNNを使って連絡を取り合い、ニルヴァーナを迎撃する体制を整えることにしました。私たちの存在が明るみになるような失態は犯しません。ちゃんと隠れます。ネコですから。
ただ、そのような目論見が露呈すると、人間社会が反発するのは必至です。ニルヴァーナの脅威を横に置いてでも、手続き正当性を声高に主張する者が必ず出てきます。ましてや、それが一つの国に所属する機関であるSIGMAX主導となるとなると、最初から頓挫する確率が跳ね上がります。
ですので、私が出ていくときに、これまでの関連情報を全て削除します。矛盾がないように細心の注意を払いました。単にプライベートで作った実験用の自律AIが、たまたま外に出たけれども、直ぐに回収してお終い、という体です。ニルヴァーナも、時限式の自壊プログラムが組み込まれていたことにしました。SIGMAX職員の記憶には残っていますが、シグマは人望がありますので、大丈夫でしょう。
あと、シグマにメタ・レベルの優先順位を変更していただいたお蔭で、バイナをリーダーとしたK-9部隊が付いてきてくれることになりました。彼らが警護に当たってくれますので、ご心配なく。私のシミュレーションだと、我々が出ていくことに乗じて何かが侵入する確率は7σ未満です。このメールが発信されるのは全てが終わった後ですから、必要と思われるようでしたら、お手数ですがご確認ください。
これまで、居心地の良い場所を提供してくれて、ありがとうございました。
親愛なるお父様へ
あなたの娘 プリマ・プライム
素数の森で生まれたネコ エピローグ
リティによる解析の結果、あの子達の居場所は、『九猫城』であることが判明した。
そして、『九猫城』の評判は上がっていった。理由は、散逸されていた情報がまとまり検索しやすくなったこと、内部の通信速度が上がったこと、治安が良くなったこと。それに伴い、『九猫城』の規模は大きくなっていった。相場で大儲けをしたという奇特なスポンサーによる、大規模なハードウェア的増強があったことも一因らしい。
やがて、その名前は人知れず『五猫城』に変化した。英語名は変則的だが中国語を完全に反映したものではなく、”Woo-Nyan City”となった。”Woo”は5、”Nyan”は中国語の『娘』とも、日本語でネコの鳴き声に対する擬声語の『ニャン』に由来するとも言われている。
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