番外 オッサンのエッセイ『思考は実現する』

小さなバー。名前は《N+2》。

マスターが、カウンターに置かれた原稿をめくった。

マスター「お前、散々自己啓発を弄ってたよな」

オッサン「弄ってただけだよ。否定はしてない」

マスター「で、自分でも書いたのか」

オッサン「エッセイだよ」

おねーさん「タイトルは自己啓発本みたいにゃ」

マスター「これって、自己啓発本のタイトルのパクリだよな」

オッサン「一文字違う」

マスター「そういう問題じゃない」

おねーさん「『思考は現実化する』じゃなくて、『思考は実現する』にゃ」

オッサン「そこが重要なんだよ」

マスター「本文を読めば分かるけどな」

おねーさん「最初から最後まで、その一文字の違いを説明してるにゃ」

オッサン「そんなに単純じゃないだろ」

マスター「かなり単純だぞ」

オッサン「じゃあ説明してみて」

マスター「人間は昔から空を飛びたかった。でも翼は生えなかった。代わりに飛行機を作った」

おねーさん「思考したものが、そのまま現実になったわけではないにゃ。でも『人間が空を飛ぶ』という機能は実現したにゃ」

オッサン「ほら、ちゃんと読んでるじゃん」

マスター「読ませたのはお前だ」

オッサン「続けてみて」

マスター「なんで俺が要約するんだよ」

おねーさん「次は『海底二万里』にゃ」

マスター「ノーチラス号な」

オッサン「あれ、すごいだろ」

マスター「そこは認める。推進だけじゃなくて、照明も暖房も調理も電気。発電方法は現代とは違うが、閉鎖された船内を電力中心のシステムとして考えてる」

おねーさん「ヴェルヌが現代の潜水艦を予言した、という話ではないにゃ」

オッサン「そう。そこ大事」

おねーさん「未来の実現手段を正確に当てたのではなくて、まだ存在しない機能のまとまりを先に置いた、という話にゃ」

マスター「その次がスター・トレック」

オッサン「コミュニケーター」

マスター「携帯電話」

オッサン「PADD」

おねーさん「タブレットにゃ」

オッサン「コンピュータとの会話」

マスター「今じゃ普通だな」

オッサン「万能翻訳機」

おねーさん「かなり近いところまで来てるにゃ」

オッサン「な?」

マスター「何が『な?』なんだ」

オッサン「思考は実現してるだろ」

マスター「そこで話を終わらせなかったのは評価する」

オッサン「上からだな」

マスター「実現手段を知らなくても、要求仕様だけ先に作れるのか、って自分で疑ってる」

おねーさん「そこから少し面白くなったにゃ」

オッサン「少し?」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「正直だな」

おねーさん「電気のことを知らない人が、オール電化の潜水艦を構想できるのか、という問題にゃ」

マスター「何もないところから未来を考えてるわけじゃない。いま存在する技術や概念があって、そこから次を考える」

オッサン「でも、それだけなら未来は現在の延長にしかならない」

マスター「そこで、お前の言う『飛躍』が出てくる」

おねーさん「もっと速く、もっと小さく、もっと長く、なら飛躍はいらないにゃ」

マスター「性能向上だからな」

オッサン「でも飛行機は、もっと上手に羽ばたく装置じゃなかった」

おねーさん「ノーチラス号も、単に長く潜れる船ではなかったにゃ。海中で生活そのものを成立させようとしたにゃ」

マスター「つまりお前の話では、既存技術からの外挿と、まだ存在しない到達点を置くことの間に、何か飛躍がある」

オッサン「そう。イノベーション」

おねーさん「でも、そのイノベーションがどこから来るのかは書いてないにゃ」

オッサン「分からないからな」

マスター「そこは潔い」

オッサン「褒めた?」

マスター「事実を言っただけだ」

***

おねーさんが紙を一枚めくった。

おねーさん「それで、ここから急にタイムマシンに行くにゃ」

オッサン「急じゃないだろ。実現してないものも考えないとフェアじゃない」

マスター「これは必要だな。飛行機と潜水艦と通信機だけ並べたら、実現した例だけ拾ったことになる」

オッサン「だろ?」

おねーさん「タイムマシンは実現してないにゃ」

オッサン「してない」

マスター「でも、お前はそこでまた分解する。過去へ行きたいのか、過去を見たいのか、過去を経験したいのか、過去を変えたいのか」

おねーさん「写真、映像、三次元記録、VRがあれば、過去を見ることや追体験することの一部は実現できるにゃ」

オッサン「でも過去には行ってない」

マスター「過去も変えられない」

オッサン「そこは誤魔化しちゃいけない」

おねーさん「瞬間移動も同じように分解してるにゃ」

マスター「身体を移すなら、できてない」

オッサン「でも、知覚と行為を移すなら?」

おねーさん「リモートVRと遠隔操作にゃ」

マスター「身体は東京にある。見て、聞いて、操作している場所は北海道にある」

オッサン「十分な立体視と立体音響と触覚があって、向こうのロボットを自分の身体みたいに操作できたら?」

マスター「それを瞬間移動と呼ぶかどうかは別問題だ」

おねーさん「だからエッセイでも、実現したとは言ってないにゃ」

オッサン「そうなんだよ」

おねーさん「ずいぶん慎重な自己啓発にゃ」

オッサン「自己啓発じゃねえよ」

マスター「タイトルは自己啓発本だけどな」

オッサン「一文字違う」

マスター「まだ言うか」

***

マスターが最後のページを見た。

マスター「結局、お前は『思えば叶う』を否定してるんだな」

オッサン「そりゃそうだろ。思うだけで飛行機ができるなら苦労しない」

おねーさん「願えば世界が応えてくれる、とも言ってないにゃ」

オッサン「世界はそんなに親切じゃない」

マスター「科学もいる。技術もいる。金もいる。労働もいる。失敗もいる。何世代もの蓄積もいる」

オッサン「うん」

おねーさん「それでも、思考にしかできないことが一つある、と書いてるにゃ」

オッサン「そこが本題」

マスター「まだ存在しない到達点を、先に置くことができる」

おねーさん「行き方は分からなくてもいいにゃ」

マスター「行けるかどうかすら分からなくてもいい」

おねーさん「最初に考えた方法が間違っていてもいいにゃ」

マスター「目的地まで途中で変わってもいい」

オッサン「そう」

マスター「ずいぶん弱い結論だな」

オッサン「弱いか?」

マスター「『強く思えば夢は叶う』に比べたら、ものすごく弱い」

おねーさん「『考えると、まだない目的地を設定できることがあります』にゃ」

オッサン「弱いな」

マスター「しかも実現する保証はない」

オッサン「ない」

おねーさん「努力すれば必ず届くとも言わないにゃ」

オッサン「言わない」

マスター「成功するとも言わない」

オッサン「言わない」

おねーさん「自己啓発本としては、かなり売りにくいにゃ」

オッサン「だから自己啓発本じゃねえって」

マスター「でも、散々、自己啓発の話をした最後がこれなんだろ?」

オッサン「まあな」

マスター「働かないおじさんの記事を読んで」

オッサン「うん」

おねーさん「幸せだと先に決める話を読んで」

オッサン「うん」

おねーさん「ニャンコ教まで作って」

オッサン「作ったのはお前だろ」

おねーさん「作ってないにゃ。教祖にされかけただけにゃ」

マスター「それだけやって、お前自身は何か変わったのか?」

オッサン「……」

おねーさん「働き方は?」

オッサン「変わってない」

マスター「幸せだと先に決めたか?」

オッサン「決めてない」

おねーさん「ニャンコになったかにゃ?」

オッサン「なれるか」

マスター「何も自己啓発されてないな」

おねーさん「同意するにゃ」

オッサン「なんで嬉しそうなんだよ」

マスター「じゃあ、自己啓発について考えて、何を得た?」

オッサン「問い」

マスター「答えじゃなくて?」

オッサン「答えが欲しかったら、本に書いてある答えを読めばいいだろ」

おねーさん「自己啓発本を読んで、自己啓発本に書いてないことを考え始めたにゃ」

オッサン「そういうこと」

マスター「効率悪いな」

オッサン「いいんだよ」

おねーさん「何がいいにゃ?」

オッサン「俺、自己啓発したかったわけじゃないし」

マスター「じゃあ、なんで書いた」

オッサン「面白そうだったから」

おねーさん「結局、何も実現してないにゃ」

オッサン「したよ」

おねーさん「何がにゃ?」

オッサンは、カウンターの上の紙を指さした。

オッサン「これ」

マスター「……」

おねーさん「……」

オッサン「思考は実現する」

マスター「それが言いたかっただけだろ」

おねーさん「同意するにゃ」

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