第十六話 後悔はやっぱり先に立たない
# 第十六話 後悔はやっぱり先に立たない
小さなバー。名前は《N+2》。
オッサン「さっきコンビニで、鮭とツナマヨで迷って、鮭にしたんだよ」
マスター「それがどうした」
オッサン「ツナマヨの方が美味かったかもしれない」
マスター「知らん」
オッサン「俺も知らん。食ってないから」
おねーさん「当たり前にゃ」
オッサン「でも、『ツナマヨにすればよかったかな』って考えたんだよ」
マスター「暇だな」
オッサン「食ってないものと、どうやって比較してるんだ?」
マスター「比較してない。想像してるだけだ」
オッサン「でも、後悔するときって、いつもそうじゃないか?」
おねーさん「どういうことにゃ」
オッサン「『あっちにすればよかった』って、選ばなかった方と比べてる」
マスター「選ばなかったんだから、そっちは想像だな」
オッサン「つまり、後悔って、現実と反実仮想の比較だな」
おねーさん「そこまでは、かなり研究されてるにゃ」
オッサン「やっぱり」
マスター「おにぎりで新しい学問は作れなかったな」
オッサン「作る気はないよ」
おねーさん「後悔と反実仮想の関係は、心理学や意思決定研究で扱われてるにゃ。実際に得た結果と、別の選択をしていたら得られたかもしれない結果との比較が、後悔に関係するという研究があるにゃ」
オッサン「かなりそのままだな」
おねーさん「反実仮想の結果が不確かだったり、現実の結果と比較しにくかったりすると、後悔が弱くなるという実験もあるにゃ。それに、『自分が別の行動をしていたら』という、自分の行動を変える反実仮想が重要だという研究もあるにゃ」
オッサン「なるほど。じゃあ、『ツナマヨにすればよかった』は、ものすごく普通の後悔なんだ」
マスター「安心したか」
オッサン「いや。別のことが気になった」
マスター「何だ」
オッサン「その反実仮想って、どこまでちゃんと作れるんだ?」
***
オッサン「架空の人がA社とB社から内定をもらったとする」
マスター「おにぎりから就職か」
オッサン「A社を選んで、十年働いた。ところが十年後、B社は急成長して、給料もA社より高くなっていた」
おねーさん「B社に行けばよかったと思うかもしれないにゃ」
オッサン「それが反実仮想だろ?」
おねーさん「そうにゃ」
オッサン「でも、B社に行ったそいつって、本当に今より幸せだったのか?」
マスター「分からんな。仕事が合わなくて辞めてたかもしれん」
オッサン「出世してたかもしれない」
おねーさん「B社がどうなったかは観測できても、B社を選んだその人は観測できないにゃ」
オッサン「会社は実在する。でも、そっちの本人はいない」
マスター「選ばなかったからな」
オッサン「しかも十年だぞ。B社に十年いたら、本人も今とは違うよな?」
マスター「違う経験をしてるからな」
おねーさん「結果だけじゃなくて、評価する人まで分岐してるにゃ」
オッサン「待てよ。それだと、どっちが良かったかを決める奴まで違うじゃん」
***
オッサン「例えば、都会と田舎なら?」
マスター「まだ架空の人か」
オッサン「まだ架空。都会を選んで十年暮らした人が、『田舎に住んでた方が幸せだったかな』って考える」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「でも田舎に十年住んでたら、何を幸せだと思うかまで変わってるかもしれない」
マスター「生活も仕事も人間関係も違うからな」
オッサン「じゃあ、どっちが幸せだったかって、誰が決めるんだ?」
おねーさん「今の自分が決めるなら、その今の自分も、選択した経路の中でできた自分にゃ」
マスター「評価関数まで経路依存か」
オッサン「都会を選んだ俺が、田舎を選んだ俺の人生を採点してる?」
おねーさん「田舎を選んだ自分には、別の評価関数ができていたかもしれないにゃ」
オッサン「それ、反実仮想を一個作れば済む話じゃないな」
マスター「十年分作らないといかんな」
オッサン「十年分の出来事と、それによって変わっていく本人まで?」
おねーさん「そうなるにゃ」
オッサン「無理じゃん」
マスター「かなりな」
オッサン「しかも、選ばなかった方のデータもない」
マスター「そうとは限らない」
オッサン「そんなデータが、あり得るの?」
おねーさん「あるにゃか?」
マスター「株」
***
オッサン「そうか。例えば、A社とB社の株で迷って、A社を買った。半年後、A社はほとんど上がらなかった。B社は二割上がった」
マスター「株価なら残ってる。しかも、小額の個人投資家による株の売買は、全体の株価に影響をほとんど与えないだろ」
オッサン「データの精度も高い。毎日の値動きまで全部分かる。選ばなかったB社がどうなったかも観測できる」
おねーさん「反実仮想側の外部データがあるにゃ」
オッサン「これなら言えるだろ。B社を買えばよかった」
マスター「で、買った株はいつ売るんだ」
オッサン「半年後」
マスター「何で半年持つことになってる」
オッサン「……今、半年後を比較してるから」
マスター「B社を買ったお前が半年持ってた保証はない」
オッサン「あ」
おねーさん「一か月で上がったところで売っていたかもしれないにゃ」
マスター「途中で下がったら損切りしてたかもしれん」
オッサン「でも、その値動きも全部分かるぞ」
マスター「株価はな」
オッサン「俺がどうしたかは分からない」
おねーさん「B社を買ったオッサンはいないにゃ」
オッサン「じゃあ仮定しよう。半年持ちました。二割儲けました」
マスター「その金はどうする」
オッサン「……また株を買うかもしれない」
おねーさん「A社を選んだ場合とは、使えるお金が変わってるにゃ」
オッサン「その儲けをC社に突っ込んで、大損してるかもしれない」
マスター「さらに儲けてるかもしれん」
オッサン「どっちでもいい。次の選択まで変わるんだ」
おねーさん「最初の選択が変わると、次に現れる選択肢も変わるにゃ」
オッサン「しかも二割儲けたら、俺自身も変わるかもしれない」
マスター「調子に乗るかもしれんな」
オッサン「ありそうで嫌だな」
おねーさん「逆に慎重になるかもしれないにゃ」
オッサン「それも分からない」
マスター「だから経路が分岐する」
オッサン「B社の株価は全部ある。C社も、他の株も、過去の値動きなら全部調べられる」
マスター「それで?」
オッサン「データがあるのに計算できない」
おねーさん「選択肢のデータはあっても、そこを通ったオッサンのデータはないにゃ」
オッサン「……データ不足じゃないんだ」
マスター「そこから先のお前がいない」
***
オッサン「じゃあ、最初のツナマヨも同じか」
マスター「戻るのか」
オッサン「俺、『ツナマヨにすればよかった』って思っただろ」
おねーさん「思ったにゃ」
オッサン「でもツナマヨを選んだ俺はいない」
マスター「いないな」
オッサン「じゃあ俺、何と比べて後悔してたんだ?」
おねーさん「自分で作った反実仮想にゃ」
オッサン「現実の俺と、想像上の俺を比較してた?」
おねーさん「そうにゃ」
マスター「片方は実測値で、片方は推定値だな」
オッサン「それ、現実の方が不利じゃない?」
おねーさん「どうしてにゃ」
オッサン「現実には、失敗も嫌だったことも退屈だった日も、全部入ってる。でも反実仮想は想像だろ。都合の悪いところを入れなければいい」
マスター「逆もできるぞ」
オッサン「逆?」
マスター「選ばなかった方を悪く作れば、今の選択を正当化できる」
オッサン「どっちにも作れるのか」
おねーさん「観測できない部分が大きいほど、作れる余地も大きくなるにゃ」
オッサン「後悔って、ずいぶん怪しい比較をしてるんだな」
おねーさん「反実仮想との比較そのものが無意味ということではないにゃ。別の行動を考えることで、次の判断に使えることもあるにゃ」
オッサン「でも、それで選ばなかった人生を観測したことにはならない」
おねーさん「そうにゃ」
マスター「反省と後悔は別だな」
オッサン「反省はする。後悔はしない、か」
おねーさん「反省なら、実際に起きたことから次の判断に使えるものを取り出せるにゃ」
オッサン「後悔は、起きなかったこととの比較」
マスター「しかも比較対象は反実仮想だ」
オッサン「ああ。だから反省はできる。でも後悔の答え合わせはできない」
***
オッサン「じゃあ、どうやって選ぶんだ?」
マスター「分かる範囲で考える」
オッサン「それでも正解は分からない」
おねーさん「未来を全部観測してから選ぶことはできないにゃ」
オッサン「選んだ後も、もう一方が正解だったか確かめられない」
マスター「そうだな」
オッサン「じゃあ、正解が分からないのに選ぶのか?」
マスター「選ぶしかないだろ」
おねーさん「分からないことと、選べないことは同じじゃないにゃ」
オッサン「何を根拠に?」
マスター「最後は自分の意思だ」
***
オッサン「そう考えると、人生やり直しものって、ちょっと怖いな」
マスター「怖い?」
オッサン「昔の失敗を直して、もっといい人生にするって話あるだろ」
おねーさん「あるにゃ」
オッサン「俺だったら、できるだけ同じルートを通る」
マスター「失敗もか」
オッサン「どの失敗が、どこにつながってるか分からないだろ」
おねーさん「一つ変えたら、その後の経路も変わるにゃ」
オッサン「下手に直したら、今の嫁さんと結婚できないかもしれない」
マスター「まあな」
オッサン「そうなると、今の子どもたちにも会えないかもしれない」
おねーさん「同じところには戻れないかもしれないにゃ」
オッサン「だったら、できるだけ同じにする。失敗も含めて」
マスター「今より良くするんじゃないのか」
オッサン「それこそ、反実仮想だ」
おねーさん「じゃあ、別の人と結婚していた方が幸せだった可能性は考えないのかにゃ?」
オッサン「ないな」
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