第十八話 19世紀末風のホテルの居心地は悪いのか
小さなバー。名前は《N+2》。
オッサンはスマホで、ホテル検索をしていた。
オッサン「札幌に、昔よく泊まってたホテルがあってさ」
マスター「急だな」
おねーさん「どこのホテルにゃ?」
オッサン「エーデルホフ」
マスター「ああ」
オッサン「昔は地味に安かったんだよ。今は知らんけど」
マスター「安いから泊まってたのか」
オッサン「あのグレードでは比較的、ではあったが、そうだ」
おねーさん「身も蓋もないにゃ」
オッサン「ホテルなんだから、安くて便利ならいいだろ」
マスター「その話なら終わりだな」
オッサン「終わらないんだよ」
マスター「何がある」
オッサン「あそこ、なんか落ち着かないんだよな」
おねーさん「安いからにゃ?」
オッサン「違う」
マスター「部屋が狭い」
オッサン「グレードは悪くないんだから、そういう話でもない」
マスター「じゃあ何だ」
オッサン「雰囲気」
マスター「知らん」
オッサン「お前、そういうものを一語で切るなよ」
おねーさん「どんな雰囲気にゃ?」
オッサン「十九世紀末のウィーン」
おねーさん「ずいぶん具体的にゃ」
マスター「ホテルがそういうコンセプトなんだろ」
オッサン「そう。だから俺の妄想じゃない」
マスター「なら問題ないだろ」
オッサン「問題があるとは言ってない。落ち着かないって言ってるんだ」
おねーさん「嫌いなのかにゃ?」
オッサン「それも違うんだよ。嫌いなら泊まらない。実際、良いホテルだ。安かったし」
マスター「結局そこか」
オッサン「でも、なんというか……心が寒い」
マスター「暖房の問題ならフロントに言え」
オッサン「比喩だよ」
おねーさん「マスターに比喩を投げても返ってこないにゃ」
マスター「室温なら測れる」
オッサン「そういうところだぞ」
少し間が空いた。
オッサン「前にマーラーの《復活》の話しただろ」
おねーさん「したにゃ」
マスター「それが何だ」
オッサン「十九世紀末のウィーンだよ」
マスター「ホテルと曲が同じ時代だから落ち着かないのか」
オッサン「そんな単純じゃない。でも、なんか同じ匂いがするんだよ」
おねーさん「匂い?」
オッサン「行き着くところまで行った感じ」
マスター「何が」
オッサン「文化が」
マスター「でかくしたな」
オッサン「だってさ。あの時代のウィーンって、貧しくて何もなかった時代じゃないだろ」
おねーさん「むしろ逆にゃ。帝都として文化が成熟して、音楽も美術も建築も学問も高度に発達していたにゃ」
オッサン「そう。それなのに、なんか明るくない」
マスター「お前の印象だろ」
オッサン「だから、その印象がどこから来るのか考えてるんだよ」
おねーさん「マーラーがいて、クリムトがいて、シュニッツラーがいて、フロイトがいたにゃ」
オッサン「そうそう」
マスター「同じ街に有名人がいただけじゃないのか」
おねーさん「もちろん、それだけで一つの時代精神が証明できるわけじゃないにゃ」
オッサン「そこは大事だな」
おねーさん「でも、同じ時期に、それまで当然だと思われていたものを内側から疑う動きがいろいろな領域に現れたのは面白いにゃ」
マスター「例えば」
おねーさん「人間は自分の心を自分で分かっているのか。美しいものは本当に調和していなければならないのか。音楽は気持ちよく終わらなければならないのか。社会の表面にある秩序の下には何があるのか」
オッサン「そういうのを全部ほじくり返し始めた」
マスター「進歩じゃないのか」
オッサン「進歩だよ」
マスター「ならいいだろ」
オッサン「そこなんだよ」
おねーさん「何にゃ?」
オッサン「知れば知るほど楽になるとは限らないんだな」
マスター「当たり前だ」
オッサン「お前が言うと全部そこで終わるな」
マスター「知らない方が幸せなことくらいある」
オッサン「そういう個別の話じゃない。文化全体が、自分自身を分析し始めたらどうなるんだって話」
おねーさん「自己意識の問題にゃ?」
オッサン「たぶん」
マスター「人間が自分を考えるのは昔からだろ」
おねーさん「そうにゃ。でも、自分について考えることと、自分が当然だと思っていた土台そのものを疑うことは少し違うにゃ」
オッサン「床板を剥がし始める感じか」
マスター「剥がすな。ホテルの話に戻ってきたぞ」
オッサン「いや、割とそんな感じなんだよ。床があるから普通に歩ける。でも『この床、本当に大丈夫か?』って考え始める」
おねーさん「一枚剥がすにゃ」
オッサン「下に梁がある」
マスター「普通だ」
オッサン「じゃあ梁は何に載ってる?」
マスター「基礎」
オッサン「基礎は?」
マスター「地盤」
オッサン「地盤は?」
マスター「地殻」
オッサン「地殻は?」
マスター「お前はどこまで掘る気だ」
おねーさん「ホテルからマントルまで行ったにゃ」
オッサン「でも精神分析って、ちょっとそういうところない?」
おねーさん「自分で自分に説明していた理由の下に、別の理由があるかもしれない、と考えるにゃ」
オッサン「俺はこういう人間です」
おねーさん「本当に?」
オッサン「俺はこれが好きです」
おねーさん「本当に?」
オッサン「俺は自分で決めました」
おねーさん「本当に?」
オッサン「……嫌になってくるだろ」
マスター「やめればいい」
おねーさん「精神分析は嫌がらせではないにゃ」
オッサン「でもさ、何を言っても『それはあなたがそう思っているだけで、本当の理由は別にあります』って言われる世界になったら、逃げ場がなくない?」
マスター「それは分析する側が万能だと思い始めたら、だろ」
オッサン「お」
マスター「測れないものを測ったつもりになるのと同じだ。モデルを作るのはいい。モデルが対象そのものだと思ったらおかしくなる」
おねーさん「そこは大事にゃ。精神分析に限らず、人間を説明する理論が、人間そのものを全部説明できると思った瞬間に、理論の方が人間より大きくなるにゃ」
オッサン「精神分析の典型に押し込まれる感じが嫌なのかもしれないな」
マスター「ホテルに泊まっただけだろ」
オッサン「分かってるよ」
***
おねーさん「でも、最初の『落ち着かない』に少し戻ってきたにゃ」
オッサン「どういうこと?」
おねーさん「十九世紀末のウィーンを見て、オッサンが感じているのは、単なる暗さじゃないのかもしれないにゃ」
マスター「また始まった」
おねーさん「貧しいから暗い。戦争だから暗い。疫病だから暗い。それなら分かりやすいにゃ」
オッサン「でも違う」
おねーさん「文化は豊か。技術も学問も進む。芸術も高度になる。人間は以前より多くのことを知る。それでも、安心するとは限らないにゃ」
オッサン「むしろ、自分が何者か分からなくなっていく」
おねーさん「それまで人間を支えていた説明まで、分析の対象になるからにゃ」
マスター「宗教とかか」
おねーさん「宗教も、道徳も、社会的役割も、自我もにゃ」
オッサン「マーラーの《復活》が妙なのもそこなんだよな」
マスター「何が」
オッサン「復活っていうくらいだから宗教的なんだけど、単純に『神様が救ってくれます』じゃないんだよ」
おねーさん「さっき、歌詞を読んだにゃ。自分自身で獲得する救済の色が強いにゃ」
オッサン「古い宗教の言葉を使ってるのに、救われ方がもう近代人なんだよ」
マスター「自力で何とかするのか」
オッサン「ものすごく乱暴に言えば」
おねーさん「マスター向け要約としては、そのくらいにしておくにゃ」
マスター「助かる」
オッサン「でも、それって大変だよな」
マスター「何が」
オッサン「昔なら、世界の意味は世界の外に置けた」
おねーさん「神や宗教的秩序にゃ」
オッサン「それを疑った。人間は自由になった」
マスター「いいじゃないか」
オッサン「代わりに、自分で意味を作れって言われた」
マスター「面倒だな」
オッサン「だろ?」
おねーさん「自由と負担が同時に来るにゃ」
オッサン「しかも、自分で意味を作っても、今度はフロイトが来て『それ、本当にあなたが自分で決めたんですか』って言う」
マスター「嫌な時代だな」
オッサン「だんだん分かってきただろ」
マスター「ホテルには泊まりたくなくなってきた」
オッサン「ホテルは悪くない」
おねーさん「安かったにゃ」
オッサン「そこ大事」
マスター「何の話だったんだ」
オッサン「落ち着かないって話」
マスター「結局、内装が好みじゃなかっただけじゃないのか」
オッサン「それでもいいんだよ」
おねーさん「いいのかにゃ?」
オッサン「だって、俺がホテルに入った瞬間に『十九世紀末ウィーンの文化的閉塞を感じるぞ』なんて考えたわけじゃない」
マスター「考えてたら病気だ」
オッサン「先に『なんか落ち着かない』があったんだよ」
おねーさん「理由は後から考えたにゃ」
オッサン「そう」
マスター「だったら本当に内装の色が嫌いだった可能性も残るぞ」
オッサン「残る」
おねーさん「照明かもしれないにゃ」
オッサン「それも残る」
マスター「単に疲れてた」
オッサン「十分ある」
おねーさん「全部台無しにゃ」
オッサン「いや、そこがいいんだよ」
マスター「何が」
オッサン「感覚から始めた文化論なんて、そのくらいでいいんじゃないか」
おねーさん「断定しない?」
オッサン「俺が十九世紀末ウィーンを正しく感じ取った、なんて言い始めたら胡散臭いだろ」
マスター「かなりな」
オッサン「でも、ホテルで感じた妙な寒さと、マーラーを聴いた時に感じるものと、フロイトを読んだ時の息苦しさが、俺の中ではどこかで繋がった」
おねーさん「それを確かめるために考えたにゃ」
オッサン「そういうこと」
マスター「で、結論は」
オッサン「成熟したら、満たされるとは限らない」
マスター「当たり前だ」
オッサン「またそれか」
おねーさん「でも、少し違うにゃ。未熟だから先へ進むとは限らない。十分に成熟したからこそ、自分自身を問い始めることもあるにゃ」
オッサン「行き着くところまで行ったから、その先が見えなくなる」
マスター「行き止まりか」
オッサン「そう。あのホテルで感じたの、それかもしれない」
おねーさん「世紀末にゃ」
オッサン「世界が終わるわけじゃない。でも、一つの世界の説明が終わりかけてる」
マスター「次の説明はまだない」
オッサン「だから寒い」
しばらく三人とも黙った。
マスター「で、そのホテル、今はいくらなんだ」
オッサン「知らん」
おねーさん「調べればいいにゃ」
オッサン「高くなってたら、別の意味で心が寒くなるな」
マスター「それは哲学じゃない」
おねーさん「経済にゃ」
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