第十七話 音楽は途中からでも聴けるのか
小さなバー。名前は《N+2》。
店内には、静かに音楽が流れている。オッサンはしばらく聴いていたが、何か思い出したらしい。
オッサン「最初から最後まで、一度も寝ずに聴けたためしがない曲ってあるよな」
マスター「ない」
おねーさん「いきなり個人的な話を一般化したにゃ」
オッサン「《トリスタンとイゾルデ》」
おねーさん「ワーグナーにゃか」
オッサン「好きなんだぞ。ちゃんと聴きたいと思って聴き始める。でも、最初から最後まで、一度も寝なかったためしがない」
マスター「長いからな」
オッサン「長い。でも、退屈だから寝るわけじゃないんだよ。むしろ好きなんだ」
おねーさん「好き嫌いと、注意を持続できるかどうかは別にゃ」
オッサン「そうなんだよ。好き嫌いと、集中と、理解と、感動って、たぶん別々の軸なんだよ」
マスター「疲れてるかどうかも入れろ」
オッサン「それを入れると話が終わる」
おねーさん「でも音楽の場合、眠るというのは少し面白い問題にゃ」
オッサン「なんで?」
おねーさん「音楽は典型的な時間芸術だからにゃ」
マスター「時間芸術?」
おねーさん「時間の進行なしには作品が成立しない芸術にゃ。絵なら、私が目を閉じても絵の方が勝手に先へ進むことはないにゃ」
マスター「音楽は進む」
おねーさん「そうにゃ。聴き手が目を閉じようが、寝ようが、音楽は先へ進むにゃ」
オッサン「それで気がつくと緩徐楽章が終わってる」
マスター「あれって、オペラだろ。緩徐楽章ってあるのか?」
オッサン「いや、それは別の曲の話」
おねーさん「もう話の途中で寝てるにゃ」
オッサン「寝てない」
マスター「なら起きろ」
オッサン「起きてるよ。でさ、録音なら戻せるだろ」
おねーさん「そこにゃ」
***
オッサン「寝てたところまで戻せばいい」
マスター「なら問題ないだろ」
オッサン「録音ならな」
おねーさん「ライブでは戻せないにゃ」
オッサン「そう。聴き逃した音はもう一度鳴らない」
マスター「演奏する側も同じだ。間違えても戻れない」
オッサン「そこで止めて、三十秒前からお願いします、とはならないからな」
おねーさん「演奏者も聴衆も、同じ方向へ進む時間に拘束されているにゃ」
マスター「録音なら止められる。戻せる。飛ばせる」
オッサン「もう一度最初から聴くこともできる」
おねーさん「つまり録音された音楽の時間は、聴き手が操作できるにゃ」
オッサン「ライブの時間は操作できない」
マスター「途中で帰ることはできるぞ」
オッサン「それは音楽を操作したんじゃなくて、自分が脱落しただけだろ」
マスター「そうだな」
***
おねーさん「でも、もっと面白いのは、本当に止めるかどうかじゃないと思うにゃ」
オッサン「というと?」
おねーさん「録音だって、最初から最後まで一度も止めずに聴けるにゃ」
オッサン「もちろん」
おねーさん「それでもライブとは違うにゃ。録音には、いつでも止められるという可能性が残っているにゃ」
マスター「使わなくても?」
おねーさん「使わなくてもにゃ」
オッサン「停止ボタンがそこにあること自体が違う?」
おねーさん「そうにゃ」
マスター「非常停止装置みたいなものか。使わなくても、あるのとないのでは違う」
オッサン「システム屋はすぐ非常停止させたがるな」
マスター「止められないシステムは嫌だ」
おねーさん「録音なら、音楽の時間からいつでも離脱できるにゃ。ライブでは、原則として最後までその時間に付き合うことになるにゃ」
オッサン「自由度は録音の方が高い」
マスター「便利だな」
オッサン「なのに、ライブの方が強烈な経験になることがある」
おねーさん「自由に離脱できないこと自体が、経験の質を変えている可能性があるにゃ」
マスター「不自由に価値がある?」
おねーさん「不自由そのものが価値とは限らないにゃ。でも、ある種の経験は、自由に分割できないからこそ成立するのかもしれないにゃ」
***
オッサン「そうなると、拘束時間の長い曲で考えてみると良よさそうだ。それで思い出したけどさ、マーラーの交響曲第2番、《復活》って、最後が反則みたいに凄いだろ」
おねーさん「独唱と合唱が入ってくるにゃ」
オッサン「そう。あそこだけでも成立しそうなくらい強烈なんだよ。巨大なオーケストラがあって、合唱が入って、最後は全部持っていく」
マスター「それならベートーヴェンの第九でもいいだろ」
オッサン「いや。似てるけど、今回の話には《復活》の方がいい」
マスター「何が違う」
オッサン「第九の終楽章って、最初にそれまでの楽章を振り返るだろ」
おねーさん「第一、第二、第三楽章の主題が次々に回想されるにゃ」
オッサン「で、そのたびに低弦が、違う、これじゃない、みたいに拒絶する。それから声が入って、『O Freunde, nicht diese Töne!』――友よ、こんな響きではない、ってなる」
マスター「それまでを否定して、新しいものを始めるのか」
おねーさん「少なくとも、そういう身振りが終楽章の冒頭には明示的にあるにゃ。それまでの三楽章を単純に積み上げて、その頂点として歓喜の歌が出てくるわけではないにゃ」
オッサン「そう。第九はむしろ、そこまでの時間を一度振り返って、『これではない』とやる」
マスター「過去を切る?」
おねーさん「完全に切るわけではないにゃ。回想している以上、過去は必要にゃ。でも、その過去との関係が《復活》とは違うにゃ」
オッサン「今回考えたいのは、そっちじゃないんだよ。長い時間を通ってきたことそのものが、最後の経験を作るって話だ」
マスター「だから《復活》か」
オッサン「そう。《復活》の最後だけ取り出しても、音は凄い。でも第一楽章からずっと通って、ようやくあそこへ到達するのとは全然違う」
おねーさん「第九では過去を回想し、そこから別の方向を選ぶという構造が表面に出ている。《復活》では、今回の議論にとっては、長い時間を通過した末の到達という側面を取り出しやすいにゃ」
マスター「なら最後だけ聴けばどうなる」
オッサン「そこなんだよ。実際、最後のところだけ録音で聴くことはできる。そこだけ聴いたって凄い。たぶん初めて聴く人でも凄いと思う」
おねーさん「でも、それでは足りないにゃ」
オッサン「全然違う」
マスター「何が消える?」
オッサン「そこが良く分からないんだ。実際、考えてみたことがある。あの凄いところを活かすには、何処から聞き始めるべきか」
おねーさん「どうなったにゃ」
オッサン「後ろから順番に候補ポイントを探したら、第一楽章の最初に到達した」
おねーさん「それなら、やっぱり到達にゃ」
オッサン「それだ」
マスター「到達ねぇ」
オッサン「あの最後だけ取り出したら、音は残る。でも、到達は消える」
おねーさん「それは音の属性ではないにゃ。聴き手の時間の属性にゃ」
オッサン「そうなんだよ」
***
マスター「同じ演奏の録音なら、最後に鳴ってる音そのものは同じだ」
オッサン「同じだな」
マスター「なのに、最初から聴いた方が違って聞こえる」
おねーさん「なら、今鳴っている音だけでは説明できないにゃ」
オッサン「そこまでに何を聴いたか」
マスター「記憶か」
おねーさん「記憶だけでもないにゃ。第一楽章の細部を全部覚えていなくても、そこを通ったこと自体は消えないにゃ」
オッサン「緊張した時間も、ぼんやりした時間も、待っていた時間もある」
マスター「疲労もな」
オッサン「それも含めていいよ」
マスター「いいのか」
オッサン「だって実際、長大な曲を聴くって身体的な経験でもあるだろ」
おねーさん「集中が緩む時間もある。緊張する時間もある。期待する時間もある。少し退屈する時間だってあるかもしれないにゃ」
オッサン「それを全部通って最後へ行く」
マスター「終楽章だけ再生したら、その履歴がない」
おねーさん「履歴、という言葉はかなり近いにゃ」
オッサン「今鳴ってる音だけを聴いてるわけじゃないんだな」
おねーさん「過去の音はもう鳴っていない。でも、完全に消えてもいないにゃ」
マスター「どういうことだ」
おねーさん「物理的な音としては消えているにゃ。でも、その音を聴いたことで、今の聴き手の状態は変わっているにゃ」
オッサン「だから同じ音でも、いきなり聴くのと、一時間以上かけてそこへ到達して聴くのでは違う」
おねーさん「そうにゃ。現在の音には、それまでの時間が折り畳まれている、と言ってもいいにゃ」
***
オッサン「ベルクソンだな」
おねーさん「持続にゃ」
マスター「誰だ」
オッサン「フランスの哲学者」
マスター「また出たな」
おねーさん「今回はかなり正面から関係するにゃ。ベルクソンは、時計で測れる時間と、私たちが経験する時間を同じものとして考えなかったにゃ」
マスター「一時間は一時間だろ」
おねーさん「時計ではにゃ」
オッサン「会議の一時間と、酒飲んでる一時間は違う」
マスター「お前の場合、後者が短いんだろ」
オッサン「ものすごく短い」
おねーさん「時計の時間は、同じ長さの単位に分けて並べられるにゃ。一分、一分、一分、と。でも経験される時間は、そういう均質なものではないにゃ」
マスター「体感時間の話か?」
おねーさん「それだけでもないにゃ。今この瞬間が、その前の瞬間と切り離されていないということにゃ」
オッサン「過去を引きずったまま現在になる」
おねーさん「引きずるというより、過去を含みながら現在が変わっていくにゃ。それがベルクソンのいう持続に近いにゃ」
マスター「さっきの《復活》か」
オッサン「そう。最後の音を聴いてる俺は、最初の音を聴く前の俺とは違う」
マスター「一時間以上歳を取ってる」
オッサン「物理的に正しいけど、今そこじゃない」
おねーさん「でも完全に外れてもいないにゃ。不可逆であることは重要にゃ」
***
マスター「ただし録音でも、最初から最後まで聴けば同じことは起きるだろ」
オッサン「ああ」
おねーさん「そうにゃ。ここはライブだけの特徴ではないにゃ」
マスター「なら、分けろ」
おねーさん「音楽が過去を蓄積しながら経験されることと、その時間を聴き手が操作できるかどうかは、別の問題にゃ」
オッサン「なるほど」
おねーさん「録音でも、最初から《復活》を通して聴けば、時間は蓄積されるにゃ」
マスター「ただし途中で止められる」
おねーさん「そうにゃ。ライブでは、その時間の流れを演奏者と聴衆が共有し、基本的には操作できないにゃ」
オッサン「二つの話があったわけだ」
マスター「一緒にするな」
オッサン「はい」
おねーさん「一つは、音楽が時間の蓄積によって経験されること。もう一つは、その時間に対して聴き手がどれだけ権限を持っているかにゃ」
マスター「録音は権限が大きい。ライブは小さい」
オッサン「録音だと、作品の時間を自分の生活に合わせられる。途中で止めて飯を食ってもいい」
おねーさん「ライブでは逆に、自分の生活時間を作品の時間に合わせることになるにゃ」
オッサン「開演したら、向こうの時間に乗るしかない」
マスター「だから遅刻するな」
オッサン「してないよ」
***
オッサン「すると、長い曲の長さって、単なる情報量じゃないんだな」
マスター「どういう意味だ」
オッサン「80分の曲を40分に圧縮して、全部の音符を倍速で鳴らしたら、情報は一応全部入ってるだろ」
マスター「聴けたものじゃないがな」
おねーさん「同じ作品を経験したことにはならないにゃ」
オッサン「つまり、80分かかること自体が作品の一部なんだ」
マスター「時間も材料か」
オッサン「そう考えた方がいい気がする」
おねーさん「音楽は音を時間という容器に入れているのではなく、音によって時間そのものを組織している、と考えられるにゃ」
オッサン「それだよ」
マスター「最初に時間芸術って言ってた話か」
オッサン「ああ。俺、時間芸術って、今までずいぶん軽く考えてたな」
おねーさん「どういうふうににゃ?」
オッサン「音が時間順に並んでるから時間芸術、くらいに」
マスター「違った?」
オッサン「もっと深い。音楽を聴くって、音を順番に受け取るだけじゃないんだな」
おねーさん「時間を経験することでもあるにゃ」
オッサン「しかも、その時間の通り方まで作品に作られてる」
おねーさん「現在の音を聴きながら、消えた過去を保持し、まだ鳴っていない未来を待つにゃ」
マスター「面倒なことを無意識にやってるんだな」
オッサン「だから音楽になるんだろ」
***
オッサン「そう考えると、《復活》の最後だけ聴くのって、山頂の写真を見るようなものかもしれないな」
マスター「また写真か」
オッサン「山頂の景色は見える。でも、登山をしたことにはならない」
おねーさん「途中の時間が経験から抜けているにゃ」
マスター「ロープウェイなら?」
オッサン「お前はすぐ喩えに余計な変数を入れるな」
マスター「実在するだろ」
おねーさん「でも、悪くないにゃ。山頂そのものだけが目的ならロープウェイでもいい。でも登る過程まで含めて登山なら、同じ経験ではないにゃ」
オッサン「音楽もそういうことなんだろうな。結末だけが作品じゃない」
マスター「当たり前だ」
オッサン「今日のお前、それ多いな」
マスター「当たり前のことを大発見みたいに言うからだ」
オッサン「でも、当たり前の意味を説明するのは難しいんだよ」
マスター「で、お前は録音だと途中で寝る」
オッサン「……最初の話に戻すなよ」
マスター「時間を経験してないぞ」
オッサン「だから戻すんだよ」
おねーさん「そして、もう一度その時間を通るにゃ」
オッサン「そういうこと」
マスター「また寝たら?」
オッサン「また戻す」
マスター「また寝たら?」
オッサン「また戻す」
おねーさん「可逆的にゃ」
マスター「いつ終わるんだ」
オッサン「いつかは終わるだろ」
マスター「こっちは今、終わる。閉店だ」
オッサン「え、もう?」
マスター「戻せないぞ」
おねーさん「不可逆にゃ」
オッサン「店で実証するなよ」
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