第八話 前よりは分かってきた
小さなバー。名前は《N+2》。
珍しく、おねーさんが切り出した。
おねーさん「オッサン、店が閉まるまでいること多いけど、帰りは大丈夫なのかにゃ?」
オッサン「大丈夫。今は近いから」
おねーさん「どのくらいにゃ?」
オッサン「本当にすぐだよ。昔に比べたら、随分と楽になった」
マスター「昔は遠かったな」
オッサン「通勤に片道一時間半かかってた」
おねーさん「長いにゃ」
オッサン「往復三時間。ずっと本読んでた」
おねーさん「いっぱい読めるにゃ」
オッサン「それが問題なんだよ。本代がかかってしょうがない」
マスター「そこか」
オッサン「だから考えた。英語の本を読めばいい」
おねーさん「なんでにゃ?」
オッサン「読むのに時間がかかる。同じ一冊で長くもつ」
マスター「読書速度を落として節約したのか」
オッサン「そう」
おねーさん「変な最適化にゃ」
オッサン「でも英語の本を一冊読み切ると疲れるんだよ」
マスター「当たり前だ」
オッサン「それで日本語に戻る」
オッサン「でも短い本って、新しい本を読むたびに登場人物とか世界とか覚え直すだろ」
おねーさん「設定を読み込むにゃ」
オッサン「あれが面倒になってきた」
マスター「読書が面倒になってるぞ」
オッサン「だからシリーズものに走った」
おねーさん「一度覚えた世界を使い回せるにゃ」
オッサン「そう。で、そのうち長いものを読むようになった」
おねーさん「一番長かったのは何にゃ?」
オッサン「『千夜一夜物語』」
マスター「通勤で読むものか?」
オッサン「読んだよ。でもあれさ、物語の語り部が、さらに他の物語を語り始めるんだ。そういう入れ子構造が酷いときには合計5層になって、訳がわからなくなった。で、途中で何冊か他の本を読んだ」
おねーさん「まあ、そういう読書法もあるにゃ。ほかは?」
オッサン「ギボンの『ローマ帝国衰亡史』」
マスター「急に重くなったな」
おねーさん「なんでローマにゃ?」
オッサン「塩野七生を読んでたんだよ。それでローマには興味があった」
おねーさん「それでギボンまで行ったにゃ?」
オッサン「それだけじゃない」
マスター「何だ」
オッサン「分からなかったんだよ」
おねーさん「何がにゃ?」
オッサン「なんでローマ帝国が滅びたのか」
おねーさん「それで『ローマ帝国衰亡史』に行ったにゃ」
オッサン「そう」
***
おねーさん「あれ、五賢帝の時代から始まるにゃ」
オッサン「逆に塩野七生は、五賢帝時代で読むのやめたけどな」
おねーさん「なんでにゃ?」
オッサン「面白くなくなった」
マスター「そこまで読んだのに?」
オッサン「彼女、ヒーローを書かせると面白いんだよ。カエサルとか」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「でも『海の都の物語』とか、ほかの本も読んでて気づいた」
マスター「何に」
オッサン「国を語るときも、最高に面白いんだよ」
おねーさん「国そのものがヒーローになるにゃ?」
オッサン「そう。ヴェネツィアならヴェネツィアが主人公、ローマならローマが主人公。」
マスター「五賢帝時代以降は、そうじゃなくなったと」
おねーさん「ヒーローには、何かを成し遂げていく時間が必要で、物語にしやすいにゃ。だけど、大きくなった国を維持する時間は、同じようには語れないにゃ」
オッサン「たぶん、それだな」
オッサン「それにそもそも、そっちは物語を読みたかったんじゃない。なんでローマが滅びたのか知りたかった」
マスター「面倒な読者だな」
オッサン「で、ギボンは逆なんだよ。『衰亡史』だから、一番うまくいってるところから始まる」
おねーさん「ギボンはまず、帝国が安定していた時代を置くにゃ。そこから何が変わっていったのかを見るにゃ」
オッサン「でも長いんだよ。西ローマが滅びるまででも三百年くらいある」
おねーさん「しかもギボンはそこで終わらないにゃ」
オッサン「東ローマまで行く」
マスター「どこまで」
おねーさん「一四五三年。コンスタンティノープル陥落までにゃ」
オッサン「衰亡するのに千年以上かかってる」
マスター「丈夫だな」
オッサン「そうなんだよ。読んでるうちに、なんで滅びたんだっていうより、なんでこんなに長くもったんだって思えてくる」
おねーさん「ギボンもそこを問題にしてるにゃ」
オッサン「そうだった」
マスター「で、ギボンは何て言ってる」
おねーさん「ギボンは一つの原因だけで話を進めてないにゃ」
オッサン「そう。そこが困るんだよ」
おねーさん「軍事や政治の変化も出てくる。帝国の分裂も、外からの圧力も、キリスト教の影響も論じるにゃ」
オッサン「あと、帝国が大きくなりすぎたこと自体」
おねーさん「巨大さそのものの中に、衰退の原因があるという見方にゃ」
オッサン「そう。それを読んでも、分かったような分からないような感じだった」
マスター「答えは書いてあるじゃないか」
オッサン「書いてあるんだよ」
おねーさん「それで分かったにゃ?」
オッサン「分からなかった」
マスター「全部読んだんだろ」
オッサン「読んだ」
おねーさん「内容も覚えてるにゃ」
オッサン「覚えてる」
マスター「じゃあ何が分からない」
オッサン「それが分からなかったんだよ」
***
マスター「分からないことが分からないのか」
オッサン「そう。書いてあることは分かるんだよ。軍事も、政治も、財政も、異民族も」
おねーさん「キリスト教もにゃ」
オッサン「それも。文章としては読める。説明も分かる」
マスター「じゃあ分かってるだろ」
オッサン「俺もそう思ったんだけどな」
おねーさん「でも、ローマが滅びるところまでつながらなかったにゃ?」
オッサン「そう。それぞれは分かる。でも、全部合わせて『だからローマ帝国が滅びた』って言われると、急に分からなくなる」
マスター「原因が多いからか」
オッサン「たぶん。でも、それだけじゃない」
おねーさん「何が足りなかったにゃ?」
オッサン「そのときは分からなかった」
マスター「今は?」
オッサン「前より分かってきた」
おねーさん「ギボンを読み直したにゃ?」
オッサン「読んでない」
マスター「別の本を読んだ?」
オッサン「いや」
おねーさん「じゃあ、何が変わったにゃ?」
オッサン「歳」
マスター「役に立つこともあるんだな」
オッサン「失礼だな」
おねーさん「歳そのものにゃ?」
オッサン「いや。たぶん、その間に見たものだな」
マスター「何を見た」
オッサン「会社とか、組織とか」
マスター「ローマ帝国と会社を一緒にするなよ」
オッサン「しないよ。でも、若い頃って、会社は成長するものだと思ってたんだよ」
おねーさん「売上とか規模がにゃ?」
オッサン「それもあるけど、自分が感じる方。新しい仕事が増える。できなかったことができるようになる。責任も増える。給料も上がる」
マスター「ずっとは続かないな」
オッサン「そう。あるところから、成長してる感じがなくなる」
おねーさん「会社が成長しなくなるにゃ?」
オッサン「会社もあるけど、自分の方も。昨日より今日、今年より来年の方が前に進んでるっていう感じが、だんだん弱くなる」
マスター「歳を取っただけじゃないのか」
オッサン「それもあるんだよ」
おねーさん「認めたにゃ」
オッサン「若い頃って、自分も拡大してるんだよ。知らないことを覚える。できなかったことができる。仕事も増える。責任も増える」
マスター「さっき会社について言ってたことと同じだな」
オッサン「そう。でも歳を取ると、毎年できることが増えていくわけじゃない。前よりできるようになることもあるけど、前よりできなくなることも出てくる」
おねーさん「成長だけではなくなるにゃ」
オッサン「うん。でも、生きてる限り自分を維持しなきゃならない」
マスター「会社より切実だな」
オッサン「そうなんだよ。成長してないからって、何もしなくていいわけじゃない」
少し間が空いた。
オッサン「それで、維持するっていうのが前より分かるようになったのかもしれない」
おねーさん「会社を見たことと、自分が歳を取ったことの両方にゃ?」
オッサン「たぶん」
マスター「で、仕事は?」
オッサン「なくならないんだよ。組織はそのままある。人もいる。設備もある。顧客もいる。維持しなきゃならない」
マスター「成長しなくても維持費はかかる」
オッサン「そう。若い頃は、維持するっていうのがよく分かってなかったんだと思う」
おねーさん「増えることと、保つことは違うにゃ」
オッサン「増えてる間は、昨日より大きくなったことが成果に見える。でも大きくなったあとって、その大きさを保つだけでも仕事なんだよ」
マスター「しかも、大きいほどな」
オッサン「そこで、ローマを思い出した」
***
オッサン「ギボンを読んだとき、『帝国が大きくなりすぎた』って説明も読んでるんだよ」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「意味も分かってた。でも、俺の頭の中では、大きな帝国って強い帝国だった」
マスター「普通はそう思うな」
オッサン「領土が増える。人口が増える。富が増える。軍隊も強くなる」
おねーさん「拡大している間はにゃ」
オッサン「そう。問題は、その先だったんだ」
マスター「これ以上増えなくなったあとか」
オッサン「うん。成長しなくなったからって、帝国が小さくなるわけじゃない。大きいままなんだよ」
おねーさん「維持するものは残るにゃ」
オッサン「国境も、軍隊も、道路も、都市も、行政もある。それをずっと支えなきゃならない」
マスター「ただし、それだけでローマの衰亡を説明するなよ」
オッサン「分かってる。俺がローマの原因を発見したって話じゃない」
おねーさん「昔読んだ説明の意味が、別の経験から見えるようになったにゃ」
オッサン「そう。昔は『巨大な帝国を維持するのは難しい』って文章を理解した」
マスター「今は?」
オッサン「維持するって、こういうことか、って分かる」
おねーさん「同じ一文に、経験がつながったにゃ」
オッサン「たぶん、それなんだよ」
***
オッサン「じゃあ、俺がギボンを読んだあと、ローマ帝国について何も勉強してなかった間にも」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「ローマ帝国を理解するための材料は増えてた?」
マスター「ローマの知識が増えたわけじゃないぞ」
オッサン「でも、昔の知識を見る場所が変わった」
おねーさん「そうにゃ」
オッサン「同じことをもう一度勉強するのが、学び直すってことじゃないのか」
おねーさん「同じものを、違うところからつなぎ直すこともあるにゃ」
オッサン「じゃあ、一つのことを理解するのに、そのことだけ勉強してればいいわけじゃない」
マスター「そうなるな」
オッサン「何十年もあとになって、全然別の経験がつながるかもしれない」
マスター「つながらないかもしれない」
オッサン「何がつながるか、先には分からない」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「困ったな」
マスター「何が」
オッサン「忘れていいものが分からない」
マスター「お前は勝手に忘れるだろ」
オッサン「そうだった」
おねーさん「入口だけ残しておくにゃ」
オッサン「それ、前にも言われた気がする」
マスター「残ってないな」
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