第九話 悪の組織は規律正しい

小さなバー。名前は《N+2》。

オッサン「勧善懲悪ものの悪の組織って、妙に規律正しいよな」

マスター「組織だからな」

オッサン「上司の命令は守る。役割分担はする。組織内のルールにも従う。遅刻して作戦会議に来る怪人とか、あんまりいない」

おねーさん「規律を守ることと、正義であることは別にゃ」

オッサン「それは分かってる。何を正しいとするかなんて、歴史上何度も変わってる」

マスター「正しいとされていたものが、後から否定された例はいくらでもある」

おねーさん「逆もあるにゃ。昔は認められなかったものが、今では認められているにゃ」

オッサン「だからって、今の基準をそのまま過去に持っていって裁けばいいって話でもない」

マスター「現在主義の問題になる」

おねーさん「過去の事実そのものを現在の都合で書き換える歴史修正主義とも、分けないといけないにゃ」

オッサン「そこは三人とも知ってる。今日はその話じゃない」

マスター「じゃあ何だ」

オッサン「時間軸を引いてみたいんだよ」

マスター「何に」

オッサン「正しさに」

***

オッサン「まず、今で切る」

マスター「時間をか」

オッサン「そう。過去にどうだったかも、未来にどうなるかも、いったん置いておく。今この瞬間、何が正しいとされているのか」

おねーさん「現在の断面を見るにゃ」

オッサン「スナップショットだな」

マスター「そうなる」

オッサン「これなら撮れる。ただし撮影日時入りだ。いつでもどこでも正しいなんて言ってない」

おねーさん「正しさにもタイムスタンプが付くにゃ」

オッサン「今の社会、今の知識、今の規範。それを使って、今の断面で判断する」

マスター「基準時点を固定するわけだ」

オッサン「で、そのスナップショットを一枚だけじゃなく、昔から何枚も並べる。百年前、五十年前、今。そうすると、それぞれ違うってだけじゃなくて、どう動いてきたかが見える」

マスター「トレンドだな」

オッサン「そう。もちろん一直線とは限らない。戻ることもある。止まることもある。でも一枚だけじゃ、動いていることすら分からない」

オッサン「で、トレンドが見えたら、その中に動かないものがないか探したくなる」

マスター「不動点か」

オッサン「そう。人類の倫理学って、そういうことを何度もやってきたんじゃないか?」

おねーさん「はいにゃ。時代や社会が変わっても通用する、普遍的な道徳原理を求める試みは何度もあるにゃ」

オッサン「自然法とか」

おねーさん「そうにゃ」

オッサン「カントとか」

マスター「出禁じゃなかったのか」

オッサン「今日は名前だけだからいいんだよ」

おねーさん「人権も歴史の中で成立してきた概念だけど、理念としては時代や場所を越えて人間に認めようとするにゃ」

オッサン「つまり、正しいとされるものは動く。でも、その向こうに時代が変わっても変わらない正しさがあるんじゃないかと考える」

オッサン「で、それ、見つかったの?」

おねーさん「その話を始めるにゃ?」

オッサン「いや、やめとく」

マスター「賢明だ」

オッサン「そもそも、本当にあるかどうかも分からないしな」

***

オッサン「でも、これ、科学も同じじゃないか?」

マスター「何が」

オッサン「科学だって不動点を探してるだろ」

マスター「どういう意味でだ」

オッサン「普遍の真理だよ」

マスター「ほう」

オッサン「時代が変わっても、場所が変わっても、観測する人間が変わっても、自然そのものは同じように振る舞う。そういうものがあると思って探してるんじゃないのか」

マスター「自然法則の普遍性は求めているな」

オッサン「だったら構造は似てる。倫理学は、変化する規範の向こうに普遍的な正しさを求める。自然科学は、変化する理論の向こうに普遍の真理を求める。どっちも不動点を探してる」

マスター「ただし、自然の側に普遍的なものがあることと、人間がそれを正しく記述できていることは別だぞ」

オッサン「もちろん。今の理論が普遍の真理そのものだって保証はない」

マスター「新しい観測結果が出れば、理論は修正される」

オッサン「極端に言えば、普遍の真理なんて本当に存在するのか、それ自体よく分からない」

おねーさん「それでも探してるにゃ」

オッサン「あると夢想してるんだな」

マスター「夢想は言い過ぎだがな」

オッサン「でも、本当にあると証明してから探し始めたわけじゃないだろ」

マスター「それはそうだ」

オッサン「なかったら?」

マスター「今のところ困らないだろ」

オッサン「案外困らないな。あっても、なくても、やることは同じだ」

マスター「観測して、説明して、予測して、合わなければ直す。それはできる」

オッサン「つまり、不動点が本当にあるかどうかは分からなくても、今の俺たちから何が見えてるかは分かる」

マスター「おおよそはな」

おねーさん「それ、昔からある考え方にゃ」

オッサン「また哲学者が先にやってた?」

おねーさん「はいにゃ。『地平』という概念があるにゃ。フッサールの現象学でも使われるし、後にはガダマーが解釈学で重要な概念として使ってるにゃ」

マスター「地平?」

おねーさん「今いる場所から何が見えるか。その見え方には、立っている場所が関わっているにゃ。立つ場所が変われば、地平も変わるにゃ」

オッサン「ああ。真理が動いたんじゃなくて、こっちが動いたから見えるものが変わったのか」

マスター「自然そのものが変わったと考える必要はない」

オッサン「研究が進めば、それまで見えなかったものが見える。でも、そこまで行ったら終わりじゃない。その先がまた見える」

おねーさん「人類が進めば、認識の地平も動くにゃ」

オッサン「で、その時点で地平の内側にあるものが、その時点の知識体系になる」

おねーさん「完全に同じ意味ではないけど、今回の比喩としては使えるにゃ」

オッサン「哲学用語を勝手に使って怒られるところだった」

マスター「今さらだろ」

***

オッサン「そう考えると、学校で習うことの見え方が変わるな」

マスター「どう変わる」

オッサン「教科書に普遍の真理が書いてあるわけじゃない」

マスター「全部書いてあったら研究は終わりだ」

オッサン「その時点で、人類がどこまで来ているか。その時点の知識体系のスナップショットが、教科書に反映されてるんだ」

おねーさん「教育用に選んで、整理して、教えられる形にしてあるにゃ」

オッサン「そう。教科書そのものがスナップショットなんじゃない。その時点のスナップショットの反映だ」

オッサン「俺が高校生だったときには、そのときの知識体系が反映された教科書を渡された。今の高校生には、今の知識体系が反映された教科書が渡される」

マスター「研究が進んでるからな」

オッサン「アポトーシスとか」

マスター「あるな」

オッサン「エピジェネティクスとか」

マスター「ある」

オッサン「ゲノム編集とか」

マスター「あるな」

オッサン「俺、高校で習ってないぞ」

マスター「時代が違う」

オッサン「昔の先生が間違ってたわけじゃない。その時点のスナップショットには、それが反映されてなかった」

マスター「そういうことだ」

オッサン「社会の方も同じだ。LGBTQなんて、俺が学校にいた頃に今みたいな形で習った覚えはない」

おねーさん「社会を記述する言葉も、制度も、教育内容も変わっていくにゃ」

オッサン「AIなんて、俺の高校時代には学校で習う対象ですらなかった」

マスター「今は『情報Ⅰ』が必履修だ」

オッサン「ずるくない?」

マスター「何がだ」

オッサン「今の高校生」

おねーさん「なぜにゃ」

オッサン「新しい地平が反映された教科書で習えるじゃん」

マスター「今の高校生なんだから当たり前だ」

***

オッサン「でも、学校はちゃんと追いかけてるんだな」

マスター「教科書は改訂されるからな」

オッサン「じゃあ、卒業したら?」

マスター「学校からは渡されない」

オッサン「だよな。卒業した後も、人類は歩き続ける。地平も動く。でも、俺の中にある知識は勝手には改訂されない」

少し間があいた。

オッサン「卒業って、自動更新が切れることでもあるんだな」

マスター「変な言い方だが、そうなる」

オッサン「学校は更新されてるのに」

マスター「お前が学校にいないだけだ」

オッサン「俺が卒業した場所に立ち止まってたら、昔の地平を世界の果てだと思うことになるのか」

おねーさん「何もしなければ、そうなるにゃ」

オッサン「それはまずいな」

マスター「でも、お前、知ってんじゃん」

オッサン「何を」

マスター「アポトーシスも、エピジェネティクスも、ゲノム編集も。今、自分で並べただろ」

おねーさん「LGBTQもAIもにゃ」

オッサン「そりゃ知ってるよ」

マスター「学校じゃ習ってないんだろ」

オッサン「本読んだり、論文読んだり、ニュース見たりしてるからな。分からなきゃ調べるし」

おねーさん「ずっと自分で更新してたにゃ」

オッサン「更新しようと思ってたわけじゃない。面白いから読んでただけだよ。知らないことがあったら知りたいじゃん」

マスター「まあな」

オッサン「でも、誰も教えてくれないのは不親切だな」

マスター「卒業したんだろ」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「でも最近、リスキリングとか言うじゃん。あれとは違うのか?」

おねーさん「少し違うにゃ。リスキリングは、仕事や社会の変化に対応するために、新しい技能や知識を身につけるという目的が強いにゃ」

オッサン「俺は別に仕事のために調べてるわけじゃないぞ。面白いからだ」

マスター「さっき言ったな」

オッサン「じゃあ何て呼ぶべきなんだ?」

マスター「知らん」

オッサン「そこは教えてくれないの?」

マスター「卒業したんだろ」

オッサン「またそこに戻るのかよ」

おねーさん「はいにゃ」

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