ファンタジー編 第六話 現代科学知識無双
マスター「現代科学知識無双?」
おねーさん「何にゃ、それ」
オッサン「異世界に現代人が行って、現代の科学知識を使って文明を発展させるやつ」
マスター「ああ」
オッサン「俺たち、何もしなかった」
マスター「剣と魔法は習ったぞ」
オッサン「逆なんだよ。向こうの技術を俺たちが習ってどうする」
おねーさん「楽しかったにゃ」
オッサン「楽しかったけどさ。せっかく現代日本から行ったんだから、何か教えられただろ」
マスター「例えば?」
オッサン「まず化学だな」
マスター「お前の専門に近いな」
オッサン「そう。石鹸くらいなら作れる」
おねーさん「作れるにゃ?」
オッサン「油脂とアルカリだからな」
マスター「アルカリは」
オッサン「木灰から取れる」
マスター「純度は」
オッサン「……そこなんだよ」
おねーさん「そこ?」
オッサン「現代人って、化学物質を知ってるんだよ。でも、知ってるものがそのまま手元にあるわけじゃない」
マスター「ああ」
オッサン「鉱石に目的の物質が入ってることを知っていれば、抽出まではできるかもしれない。でも、その先が難しい」
マスター「精製か」
オッサン「そう。抽出はできても、精製できないぞ」
おねーさん「方法は知らないにゃ?」
オッサン「知ってるものもある。再結晶とか蒸留とか、物によっては電解精製とか」
マスター「電気が要るな」
オッサン「あ」
マスター「化学だけでは済まなくなった」
オッサン「いや、電気なら何とかなるだろ。簡単な電池なら作れる」
おねーさん「作れるにゃ?」
オッサン「異なる金属と電解液があればいい。原理は分かってる」
マスター「電圧は」
オッサン「一セルならそんなに出ない」
マスター「電流は」
オッサン「大きくは取れない」
おねーさん「足りないにゃ?」
オッサン「実験ならともかく、工業的に使うには厳しいな。大量に並べれば理論上はできるけど」
マスター「大量の金属と電解液が要る」
オッサン「そうなんだよな」
少し考えた。
オッサン「じゃあ発電機だ。磁石とコイルがあればいい」
マスター「磁石は」
オッサン「永久磁石を作る」
マスター「材料は」
オッサン「そこは冶金だな」
マスター「着磁は」
オッサン「……あ」
おねーさん「何にゃ?」
オッサン「強い磁石を作るには、強い磁場をかけないといけない」
マスター「電磁石だな」
オッサン「電磁石には電気が要る」
おねーさん「その電気は?」
オッサン「発電機で作ろうとしてる」
三人は黙った。
オッサン「発電機を作るための磁石を作るために、発電機が要るのか」
マスター「最初から今の性能だったわけじゃない」
オッサン「ああ。弱い磁石と弱い電源から始めて、少しずつ上げてきたのか」
マスター「冶金も一緒にな」
オッサン「発電が冶金を良くして、冶金が磁石を良くして、電気でそれを着磁して、その磁石でまた発電を良くする」
おねーさん「一周する度に少しずつ良くなるにゃ」
マスター「そこが重要だ」
オッサン「発電が冶金を良くして、冶金が磁石を良くして、磁石が発電を良くする」
マスター「一回で完成するわけじゃない」
オッサン「何世代も回してきたのか」
マスター「ああ」
おねーさん「知識だけ持って途中から入っても、前の世代はないにゃ」
オッサン「なるほどな」
少し沈黙した。
オッサン「まだコイル作ってないけど」
マスター「銅線からだな」
オッサン「やめよう」
***
オッサン「じゃあさ、仮に材料が全部揃ったとする」
マスター「ずいぶん譲ったな」
オッサン「そこをやってたら先に進まないから。銅線も磁石も鉄も、必要な材料はある」
おねーさん「あることにするにゃ」
オッサン「そう。だったらモーターは作れるだろ」
マスター「どの程度のものを」
オッサン「ちゃんと発電/動力として使えるやつ」
マスター「じゃあ加工精度が要る」
オッサン「……」
マスター「軸、軸受、鉄心。必要な寸法で加工できるか」
オッサン「できないな」
おねーさん「材料があっても駄目だったにゃ」
オッサン「工作機械か」
マスター「ああ」
オッサン「旋盤とか?」
マスター「旋盤、ボール盤、フライス盤。測定器も要る」
おねーさん「その工作機械はどうやって作るにゃ?」
オッサン「工作機械で作る」
マスター「ああ」
オッサン「……またか」
おねーさん「またにゃ?」
オッサン「発電機と同じだ」
マスター「そうだな」
オッサン「精密なものを作るには、精密な工作機械が要る。でも、その精密な工作機械を作るにも工作機械が要る」
マスター「最初から今の精度があったわけじゃない」
オッサン「低い精度の道具で、それより少し精度の高い道具を作る」
マスター「それで次を作る」
おねーさん「また一周する度に少しずつ良くなるにゃ」
オッサン「同じ構造じゃん」
マスター「ああ」
オッサン「発電と磁石と冶金。工作機械と加工精度」
マスター「どちらも、次の世代を作るために前の世代が要る」
オッサン「知識があれば、途中を飛ばせると思ってた」
マスター「飛ばせるところはある」
オッサン「でも、前の世代そのものは知識じゃない」
マスター「ああ」
おねーさん「もう作られている物にゃ」
オッサン「設備だったり、材料だったり、工具だったりする」
マスター「それを使って、次の世代を作ってきた」
オッサン「完成形を知ってても、完成形から始められるわけじゃないのか」
マスター「そういうことだ」
少し沈黙した。
オッサン「化学物質を精製しようとしただけなのに、ずいぶん遠くまで来たな」
おねーさん「まだ精製できてないにゃ」
オッサン「そうだった」
***
オッサンはしばらく考えていた。
オッサン「現代科学知識って、もっと強いと思ってた」
おねーさん「役に立たないにゃ?」
オッサン「いや、役には立つ。病気が微生物で起きることを知ってる。手洗いも煮沸も知ってる」
マスター「それだけでも大きい」
オッサン「そうなんだよ。でも、ペニシリンだって、青カビから作れることを知ってるだけじゃダメだよな」
マスター「菌株の選別、培養、抽出、精製が要る」
おねーさん「無菌操作も、濃度の測定も必要にゃ」
オッサン「どれもできないな」
マスター「ああ」
オッサン「知識があれば、どこを目指せばいいかは分かる。失敗した道もある程度は避けられる」
おねーさん「途中を短くすることはできるにゃ」
オッサン「でも、途中がなくなるわけじゃない」
マスター「ああ」
オッサン「答えを知ってることと、答えを作れることは違うんだな」
少し沈黙した。
オッサンはスマホを持ち上げた。
オッサン「結局、これだってそうだよな」
マスター「ああ」
オッサン「半導体も知ってる。CPUも知ってる。液晶も知ってる。リチウムイオン電池も知ってる」
おねーさん「でも作れないにゃ」
オッサン「一個もな」
マスター「材料、装置、加工、制御。全部分業だ」
オッサン「しかも、その設備自体が、それより前の設備を使って作られてる」
マスター「ああ」
おねーさん「その前にも、また前があるにゃ」
オッサン「……文明って、社会が持ってるだけじゃないんだな」
マスター「歴史も持ってる」
オッサン「今ある機械の中に、前の世代の機械が入ってるわけじゃないけど」
マスター「それがなければ、今の機械は作れなかった」
おねーさん「今あるものに、そこまで来た積み重ねが残ってるにゃ」
オッサンは、手の中のスマホを見た。
オッサン「俺、これの使い方は知ってるんだけどな」
マスター「ああ」
オッサン「作り方は知らない」
おねーさん「知ってても作れないものもいっぱいあるにゃ」
オッサン「現代人一人を異世界に送っても、現代文明までは持っていけないか」
マスター「そういうことだ」
***
オッサン「じゃあ、異世界に現代人を一人送り込んで、現代科学知識で文明を発展させろって、かなり無茶だな」
マスター「文明を丸ごと持っていけないからな」
おねーさん「知ってることが役に立たないわけじゃないにゃ」
オッサン「そうだな」
少し沈黙した。
オッサン「でもさ」
マスター「なんだ」
オッサン「それでも俺たち三人なら――」
床が、淡く光り始めた。
三人は止まった。
オッサン「……」
マスター「……」
おねーさん「……」
光が少し強くなった。
オッサン「いや、待て」
オッサンは慌てて立ち上がった。
オッサン「無理だな。三人でも無理」
光が、わずかに揺らいだ。
オッサン「絶対無理。現代文明なんか作れない」
光が弱くなった。
オッサン「工作機械も作れない。精製もできない。電気も足りない」
さらに光が弱くなった。
オッサン「俺たちじゃ無理!」
光が消えた。
沈黙した。
オッサンは、ゆっくり椅子に座った。
オッサン「……危なかった」
マスター「ああ」
おねーさんは、オッサンを見ていた。
オッサン「何?」
おねーさん「余計なこと言うなにゃ」
オッサン「ごめん」
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