番外 オッサンの論考 『ネコはなぜ可愛いのか―形態的選好から関係的評価へ』

 ネコはなぜ可愛いのか。この問いに対する代表的な説明の一つに、ベビースキーマがある。大きな眼、丸みを帯びた頭部、小さな鼻など、幼児に特徴的な形態が人間の養育反応や肯定的感情を誘発するという説明である。この説明には十分な妥当性がある。少なくとも、未知のネコを一瞥して「可愛い」と判断する現象の一部は、形態的特徴への選好によって説明できるだろう。

 しかし、この説明には明確な限界がある。飼育者にとって、自らが長期間生活を共にしてきた一個体の可愛さは、必ずしも形態的評価と一致しない。より典型的な幼児的形態を持つ別個体が存在したとしても、それによって自らの飼育個体に対する評価が置換されるとは考えにくい。「ネコ一般を可愛いと感じること」と「特定のネコを可愛いと感じること」は、同一の現象ではない。前者が主として形態に対する評価であるとしても、後者には個体との関係履歴が含まれている。したがって、ネコの可愛さを論じるためには、形態だけでなく、行動と関係を評価変数に加える必要がある。

 ネコの行動には、人間が主体性を帰属しやすいという特徴がある。移動する、静止する、観察する、接近する、離脱する。これらは動物一般に見られる行動であり、それ自体に特殊性はない。しかしネコの場合、それぞれの行動が人間から見て比較的独立した選択として認識されやすい。ネコが人間のもとへ接近した場合、人間は単に物体間の距離が縮小したとは認識しない。「ネコが来た」と認識する。さらに、その接近が常に生じるわけではないことによって、「来た」という出来事には選択の意味が付与される。来なくてもよかった個体が来た。そこには単なる接触以上の情報がある。

 一方、ネコの行動は完全に予測不能でもない。耳、尾、姿勢、視線、発声などから、人間はネコの状態をある程度推測できる。長期間接触する個体であれば、その個体固有の行動傾向も学習できる。しかし予測は完全にはならない。理解可能ではあるが、完全には予測できない。この中間性が、ネコを継続的な観察対象にする一因と考えられる。完全に予測可能な対象は新しい情報をほとんど生まない。逆に、完全に予測不能な対象は意味のある関係を形成しにくい。ネコはその中間に位置する。

 ただし、自律性や予測不能性だけではネコ固有の可愛さを説明できない。イヌも人間との間に高度な社会的関係を形成する。鳥類にも強い自律性があり、人間との個体間関係を形成する種が存在する。ウサギや小型齧歯類も愛玩対象となり、ウマのような大型動物にも個体識別を伴う長期的な人間との関係が成立する。したがって、「自律的だから可愛い」「関係を形成するから可愛い」「小さいから可愛い」という単独の説明はいずれも十分ではない。

 ここで複数の条件を追加することは容易である。ネコは小型であり、捕食者であり、比較的長時間休息し、立体空間を利用する。単独生活が可能である一方、条件によっては同種個体や人間との社会的関係も形成する。一定の場所で排泄する習性は室内飼育との親和性が高く、繁殖力も高い。人間の生活圏にも適応できる。しかし、これらをすべて条件として列挙し、「以上の条件を満たすからネコは可愛い」と結論することはできない。それは説明ではなく、ネコの特徴の再記述である。ネコの特徴を論理積で結合すればネコが得られる。当然である。

 むしろ、「ネコはなぜ可愛いのか」という問いそのものを分解すべきだろう。この問いには、少なくとも二つの異なる問題が混在している。第一は「なぜ人間はネコを可愛いと評価しうるのか」であり、第二は「なぜネコは人間社会において、これほど広範に『可愛い動物』として位置づけられるに至ったのか」である。前者は知覚および個体間関係の問題であり、後者は生態、家畜化、共生および文化の問題である。

 両者は独立ではない。ネコが人間の生活圏に存在しなければ、人間とネコとの長期的関係は形成されない。一方、人間がネコに対して肯定的評価を形成できなければ、単なる害獣捕食者から伴侶動物への移行は生じにくい。したがって、「可愛いから共生した」という一方向の因果だけを仮定する必要はない。逆方向、すなわち「共生したから可愛くなった」という経路も成立しうる。

 農耕と穀物貯蔵によって人間の生活圏に齧歯類が集まり、それを利用する小型捕食者が接近する。この段階では、「可愛い」という評価は共生成立の必要条件ではない。重要なのは、ネコが人間の生活圏から利益を得ることと、人間がネコの存在を許容できることの両立である。その状態が持続すれば、人間はネコを単なる種としてではなく個体として認識する機会を得る。いつもいる個体、昨日もいた個体、今日は見えない個体、再び現れた個体。個体識別が成立すれば、そこに関係履歴が発生する。関係履歴が蓄積されれば、形態だけでは説明できない評価が形成されうる。

 したがって、「形態的選好→接近→飼育」という経路だけでなく、「共存→接触→個体識別→関係形成→愛着」という経路も考える必要がある。「可愛い」は、共生の原因であると同時に、共生の結果でもありうる。

 この観点から見ると、ネコの生物学的特徴の意味も変わる。小型であること、活動様式、排泄行動、社会性の柔軟性、繁殖特性などは、それぞれ独立に可愛さを生み出す原因ではない。それらはむしろ、人間とネコとの長期的接触を成立させる条件として機能する。ここで注目すべきなのは、人間とネコとの関係における拘束の比較的弱い相互性である。ネコは人間から資源を得るが、人間との継続的な相互作用を常時必要とはしない。人間はネコとの社会的関係を形成できるが、その関係は必ずしも継続的な指示と応答によって維持されない。一匹でもいられる。一緒にもいられる。関係が存在しているにもかかわらず、個体の自律性が消失しない。

 ここから、「可愛い」という評価について一つの仮説を提示できる。ネコの可愛さは、対象の形態的特徴だけによって成立するのではなく、人間が比較的小さな身体の中に、自らとは独立した主体を認識することによって増幅されるのではないか。ネコは人間よりはるかに小さく、物理的には人間の生活空間の中に容易に収まる。しかし、その行動は人間の意図に完全には従属しない。接近するかどうか、接触を続けるかどうか、離れるかどうかを人間は完全には制御できない。そして、制御できないまま関係が成立する。

 ここには、身体的な小ささと主体としての独立性との非対称がある。言い換えれば、ネコは「小さいくせに、他者性が大きい」。しかも、この他者性は関係形成によって消滅しない。むしろ、他者であるにもかかわらず関係が成立することによって、その個体への評価が強化される。

 ベビースキーマは、「なぜ未知のネコを見ても可愛いと感じうるのか」を説明する。しかし、「なぜ特定の一匹が特別に可愛いのか」を説明するためには、それだけでは足りない。そこには時間があり、接触があり、個体識別があり、自分ではない主体との関係履歴がある。したがって、ネコの可愛さは単なる形態的属性ではない。その少なくとも一部は、「他者性を失わない対象との関係が成立していることに対する評価」として理解できるのではないだろうか。

 もちろん、これによってネコが可愛い理由を完全に説明したことにはならない。しかし、「可愛い」という語を対象の形態だけに帰属させるよりは、ネコと人間との関係をいくらか正確に記述しているように思われる。

***

オッサン「……どう?」

おねーさん「前半と後半で、問いが変わってるにゃ」

オッサン「やっぱり?」

おねーさん「最初は『なぜ可愛いか』なのに、途中から『なぜ人間と共生できたか』になってるにゃ」

オッサン「そこは自覚してる。だから二つに分けた」

おねーさん「でも、完全には分かれてないにゃ」

オッサン「そこが難しいんだよ。共生したから関係ができたとも言えるし、肯定的に評価できたから共生が続いたとも言える」

おねーさん「循環してるにゃ」

オッサン「そう。だから原因と結果を一方向に置けない」

おねーさん「それは面白いにゃ」

オッサン「だろ?」

おねーさん「でも、『小さいくせに』は失礼にゃ」

オッサン「そこ?」

おねーさん「そこにゃ」

オッサン「『身体的な小ささに比して、主体としての独立性が大きい』なら?」

おねーさん「つまらないにゃ」

オッサン「だろ。だから『小さいくせに』なんだよ」

おねーさん「じゃあ、そのままでいいにゃ」

オッサン「いいのかよ」

おねーさん「批評文なんだから、少しくらい書き手の地の部分が出てもいいにゃ」

オッサン「なるほど」

おねーさん「あと、『特定の一匹が特別に可愛い』のところ」

オッサン「うん」

おねーさん「そこが一番大事なんじゃないかにゃ」

オッサン「俺もそう思う」

おねーさん「なら、そこをもう少し書いた方がいいにゃ。一般的なネコの可愛さと、知っているネコの可愛さは、たぶん同じ『可愛い』でも違うにゃ」

オッサン「なるほどな。一般から個体への移行をもう少し――」

オッサン「なあ、おねーさん…」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「前々から言おうと思ってたんだけどさ」

おねーさん「何にゃ」

オッサン「……お前さん、こういうの読むの上手いよな」

おねーさん「元哲学科に何を言ってるにゃ」

オッサン「そうでした」

おねーさん「博士課程まで行ったにゃ」

オッサン「そうでした」

おねーさん「忘れるなにゃ」

オッサン「忘れてないよ」

おねーさん「ならいいにゃ」

オッサンは原稿に、「一般的な可愛さ/個体への可愛さの差異について検討」と書き込んだ。

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