第四話 バッハとニュートン
小さなバー。名前は《N+2》。
バッハの《ゴルトベルク変奏曲》が流れている。
オッサン「バッハって、俺の中ではものすごく昔なんだよ」
マスター「実際、昔だろ」
オッサン「そうなんだけどさ。ニュートンとほとんど同じ時代なんだよな」
マスター「そうなのか」
オッサン「調べてくれる?」
おねーさん「バッハが1685年生まれ……《プリンキピア》が1687年にゃ」
オッサン「二年しか違わないじゃん」
マスター「活躍した時代となると、ニュートンの方が早いな」
オッサン「まあ、ほぼ同じ時代だろ。でも、俺の頭の中では全然同じ時代じゃないんだよ」
おねーさん「オッサンの中では、バッハとニュートンが別々の時間軸にいるにゃ?」
オッサン「そう。バッハは昔の音楽。ニュートンは昔の科学。でも、その二つの昔がつながってない」
マスター「別々に習ったからじゃないか」
オッサン「学校か」
マスター「たぶんな」
オッサン「音楽史はバロック、古典派、ロマン派って時間で並んでる。でも理科はそうじゃなかったな」
おねーさん「理科で十七世紀、十八世紀、十九世紀とは習わないにゃ」
オッサン「中一、中二、中三っていう時間はあった。でも、十七世紀、十八世紀、十九世紀っていう時間はなかった」
マスター「そうだな」
オッサン「じゃあ、俺の科学の時間軸って、中一、中二、中三、高一、高二、高三なのか」
マスター「ずいぶん短い科学史だな」
オッサン「六年で人類史を駆け抜けたんだよ」
***
オッサン「待てよ。本当に駆け抜けてるんじゃないか?」
マスター「何を」
オッサン「科学技術史を」
おねーさん「学校の理科がにゃ?」
オッサン「そう。人類が何百年もかけて発見したものを、学校では何年かで追いかけてる」
マスター「小学校からか?」
オッサン「小学校から――」
マスター「算数はどう扱うんだ?」
オッサン「人類が抽象概念を持つに至るのっていつ頃の話?」
マスター「知らん」
おねーさん「抽象概念を持っていなかったことと、持っていたかどうかを私たちが知れないことは別にゃ」
オッサン「そうか。記録がないところは比較できないか」
マスター「無理に並べる必要もない」
オッサン「じゃあ、中学からにしよう。中学って今は何やってる?」
マスター「自分が習っただろ」
オッサン「俺が中学生だったの何年前だと思ってんだよ。今のを見よう」
おねーさん「スマホで調べるにゃ」
オッサン「お願い」
おねーさん「エネルギー、粒子、生命、地球というまとまりがあるにゃ」
オッサン「そういう切り方なのか」
おねーさん「力と運動、物質と化学変化、電流と磁界、遺伝……」
オッサン「待って。それ、科学技術史に重ねられないか?」
マスター「また始まった」
オッサン「力と運動ならニュートンあたり。近代化学があって、電気と磁気があって、メンデルが出てくる」
おねーさん「DNAも出てくるにゃ」
オッサン「二十世紀まで来た」
マスター「かなり雑だぞ」
オッサン「いいんだよ。遠くから見るんだから。ニュートンあたりから始まって、十八世紀、十九世紀を通って、二十世紀まで来る」
おねーさん「大づかみには前へ進んでるにゃ」
オッサン「だろ。中学三年間で科学技術史を早送りしてるんじゃないか?」
マスター「仮説としてはな」
オッサン「学校理科って、人類が発見した順番を圧縮して追体験してるんじゃないか」
マスター「そこまで言うか」
オッサン「高校まで見れば分かる」
***
おねーさん「高校も調べるにゃ」
オッサン「中学の続きなら、もっと新しい科学まで行くはずだ」
マスター「先に決めるな」
おねーさん「物理は……力と運動」
オッサン「ああ、確かに」
マスター「戻ったな」
オッサン「ニュートンじゃん」
おねーさん「さっき通過したにゃ」
オッサン「思い出そう。中学の理科でニュートンって名前は出てた?」
マスター「教科書に名前くらい載ってただろ」
オッサン「そうじゃなくてさ、ニュートンの〇〇法則とか」
おねーさん「そういうのが出てくるのは高校からみたいにゃ」
マスター「ほとんど憶えていないが、中学では数式を余り扱っていなかっただろ」
オッサン「高校では、何が違う?」
マスター「扱うものが増えているだろ。扱う数式と言っても良いぞ」
オッサン「おねーさん、その先は?」
おねーさん「波、電気と磁気、原子」
マスター「随分とバラバラだな」
おねーさん「科学技術史の時間とは違うにゃ」
オッサン「化学は?」
おねーさん「物質の構成――」
オッサン「また中学でやった内容に戻ってる」
おねーさん「でも同じ内容ではないにゃ」
オッサン「そりゃそうだよな。戻って、前より細かくやって、また先へ行く」
マスター「そうなるな」
オッサン「科学技術史を圧縮してるだけじゃないな」
マスター「違ったな」
オッサン「でも、完全に関係ないわけでもない。後へ行けば新しい科学も入ってくる」
おねーさん「最初の仮説が全部間違ってたわけでもないにゃ」
オッサン「年代順じゃない。でも、でたらめでもない」
マスター「当たり前だ」
オッサン「じゃあ何の順番なんだ?」
***
マスター「お前が教える側になってみろ」
オッサン「何を」
マスター「中学生にニュートン力学を教えろ」
オッサン「そのままやったら微積分が要るな」
マスター「まだ習ってない」
オッサン「じゃあ先に微積分を――」
マスター「その前に関数。その前は?」
オッサン「……文字式、方程式」
マスター「中学生が待ってるぞ」
オッサン「無理だな。微積分なしで教える」
マスター「切ったな」
オッサン「……切った」
おねーさん「全部を一度には渡せないにゃ」
オッサン「その時点で使えるものだけで成立するところまで切るのか」
おねーさん「その時点で使えるというのは、その年齢で扱える抽象度のレベルとも言えそうにゃ」
オッサン「生物は?」
おねーさん「調べるにゃ」
オッサン「お願い」
おねーさん「中学では、メンデルの実験から遺伝の規則性を扱って、そのあとDNAまで出てくるにゃ」
オッサン「メンデルの時代には、遺伝の規則性は見えても、それを担ってるものが何なのかまでは分からなかった」
おねーさん「その後に染色体やDNAがつながったにゃ」
オッサン「今は最初から一つの話として教えられる」
オッサン「だから、一つの流れとして教えるのか」
マスター「そうだな。同じことはウェゲナーにも言える」
オッサン「プレート・テクトニクスの?」
マスター「ウェゲナーには大陸が動くという証拠はあった。でも、どうやって動くのかを十分説明できなかった」
オッサン「今の教科書なら?」
おねーさん「プレート・テクトニクスとして一つにつながってるにゃ」
オッサン「後から答えを知ってるから、最初からつなげられるのか」
オッサン「ニュートンでは切った。遺伝や大陸移動ではつないだ」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「科学技術史をそのまま短くしてるんじゃない。一回ばらしてるんだ」
おねーさん「それから、学べるように組み直してるにゃ」
オッサン「発見された順番じゃない」
マスター「教えられる順番だ」
おねーさん「プレート・テクトニクスを扱っている単元では――」
オッサン「ちょっと待って」
おねーさん「何にゃ?」
オッサン「今、単元て言った?」
おねーさん「単元?言ったにゃ」
オッサン「それだ」
マスター「なんだ、単元がどうかしたか?」
オッサン「そうじゃなくて、単元って、内容を区切ったものだと思ってたんだよ」
おねーさん「違うにゃ?」
オッサン「区切ってるだけじゃない。これ、組み直した結果なんだ」
***
オッサン「何百年分もの科学技術史を一回ばらして、今分かってる関係で集め直す」
マスター「それから?」
オッサン「学べる大きさに切る。前提になる知識を考えて順番を決める。必要なら歴史的につながってたものを切る。逆に、歴史的に離れてたものをつなぐ」
おねーさん「発見された順番を、学べる順番に変えてるにゃ」
オッサン「単元ってものを考えた奴、すごくないか?」
マスター「今さらか」
オッサン「散々それで勉強してきたんだけどな、単元そのものの意義なんて考えたことなかった」
マスター「普通は中身を勉強するからな」
オッサン「そう。中身ばっかり見てた」
おねーさん「入れ物を見てなかったにゃ」
オッサン「入れ物だと思ってたんだよ。でも、これ編集してるんだ」
マスター「教えるためにな」
オッサン「人類が何百年もかけて手に入れた知識を、中学生や高校生が何年かで理解できる形に作り直す」
おねーさん「大学でも続くにゃ」
オッサン「そうなんだよ。」
マスター「今さら気づいたか」
オッサン「今さら気づいた。すげーな」
マスター「散々使っといてな」
少し間が空いた。
オッサン「でも、つまんねー」
マスター「どっちだよ」
***
おねーさん「何がつまらないにゃ?」
オッサン「分からん」
マスター「分からんのか」
オッサン「すごいのは分かる。合理的だし、こうするしかないとも思う。でも、なんかつまんない」
マスター「教育だからな」
オッサン「そこなんだよ」
おねーさん「組み直したときに、何かなくなったにゃ?」
オッサン「なくなった?」
おねーさん「科学技術史にあって、単元にはないものにゃ」
オッサン「失敗とか」
マスター「全部教えてたら時間が足りん」
オッサン「行き止まりとか」
マスター「今さら通る必要もない」
オッサン「今から見ればな」
おねーさん「当時の人には、どれが行き止まりか分からないにゃ」
オッサン「……それだ」
マスター「何が」
オッサン「科学技術史を作った人たちは、次に何が分かるか知らなかった」
おねーさん「まだ起きてないにゃ」
オッサン「ニュートンは、その先の教科書を持ってない。ファラデーもメンデルも、次の単元を知らない」
マスター「当たり前だ」
オッサン「でも学校は、全部起きた後から始まる」
おねーさん「だから単元が作れるにゃ」
オッサン「何が後で必要になるか分かってる。何と何がつながるか分かってる。どこで切ればいいかも分かってる」
マスター「それが教育だろ」
オッサン「そう。だから、すげーんだよ」
マスター「まだ言うか」
オッサン「でも、その代わり、次に何が起きるか分からない時間がなくなってる」
おねーさん「知らなかった人たちの時間を、知っている人が組み直したにゃ」
オッサン「それって、ネタバレじゃん」
マスター「は?」
***
オッサン「中学のとき、球の体積の公式を覚えさせられたよな?」
マスター「急に何だ」
オッサン「『身の上に心配ある参上』。理由なんか分からない。そういう公式だから覚えろって」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「でも後で積分を習っただろ。それで球を積分してみたんだよ」
マスター「自分で?」
オッサン「うん。そしたら出たんだよ。あの公式が」
おねーさん「同じ答えに、自分で着いたにゃ」
オッサン「あれは感動した」
マスター「公式は中学から知ってただろ」
オッサン「答えはな」
おねーさん「でも、なぜそうなるかは知らなかったにゃ」
オッサン「違う。たぶん、それだけじゃない」
マスター「何が」
オッサン「自分で出せると思ってなかったんだよ」
おねーさん「答えを知ったんじゃなくて、答えまで行けたことに驚いたにゃ」
オッサン「そう。それが面白かった」
マスター「なら中学で積分から教えるか?」
オッサン「無理だよ。だから、さっきから言ってるだろ。よくできてるんだよ」
マスター「でも?」
オッサン「つまんねー」
おねーさん「知るためには効率がいいけど、見つけるところは減るにゃ」
オッサン「そうか。知の冒険を先に潰しちゃうんだ。ワクワクする前に答えを教えちゃう」
マスター「せめて、追体験させろ、ということか」
オッサン「追体験って言うなら、学生実験なんて、まさにそれだろ」
おねーさん「先に講義で理屈を習って、それから実験するんだから、何が起きるか知ってるにゃ」
オッサン「何も知らないところから法則を発見するわけじゃないんだけどな」
マスター「毎年ニュートンを発見させてたら卒業できん」
オッサン「このネタバレ、全部いっぺんじゃないのもやらしいな。その時点、年齢で分かるところまで切って、そこまで教える」
おねーさん「分かってから次の単元に進むにゃ」
オッサン「単元って、ネタバレの単位でもあるんだな」
マスター「嫌な言い方だな」
オッサン「自然科学教育って、小さなネタバレの連続なんだ」
おねーさん「何百年分を、少しずつにゃ」
マスター「嫌なら、何も知らないところから自分でやれ」
オッサン「何百年かかるんだよ」
マスター「だからよくできてるんだろ」
オッサン「……そうなんだよ」
おねーさん「すごいにゃ?」
オッサン「すげーよ」
マスター「つまらない?」
オッサン「つまんねー」
マスター「面倒くせえ」
***
少し間が空いた。
オッサン「でも、それなら俺がバッハとニュートンの時代を交差させられなかったのも、少し分かるな」
おねーさん「単元の中で時代がシャッフルされて、見失うにゃ」
オッサン「ニュートン力学と微積分だって、別々に、しかも違う学年に習った」
マスター「そうだな」
オッサン「学校は、教えるために切る」
マスター「そういうことはある」
オッサン「で、後からつなぎ直すのは?」
マスター「お前が教える立場なら、どうする」
オッサン「自分でやれ、っていう。高校に入った後に、中学の先生に教わりにいったりはしない」
少し間が空いた。
オッサン「ニュートン力学、微積分で勉強し直してみようかな」
おねーさん「今さらにゃ?」
オッサン「今だからだよ。昔は別々の科目だった。今なら同じものとして見られる」
おねーさん「習い直すんじゃなくて、つなぎ直すにゃ」
オッサン「そう。それならちょっと面白そうだ」
マスター「教科書は?」
オッサン「大学一年くらいからかな」
マスター「微積分は覚えてるのか」
オッサン「……」
おねーさん「どこまで戻るにゃ?」
オッサン「高校」
マスター「カリキュラムはよくできてるな」
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