第十七話 先悔でもやっぱり先に立たない
# 第十七話 先悔でもやっぱり先に立たない
小さなバー。名前は《N+2》。
オッサン「昨日さ、結局ずっと家にいたんだよ」
マスター「台風だったろ」
オッサン「そう。でも、俺の予想では大したことないと思ってた」
おねーさん「実際はどうだったにゃ」
オッサン「大したことなかった」
マスター「じゃあ出かければよかったな」
オッサン「それなんだよ」
マスター「何がだ」
オッサン「朝から天気図とか予報とか見ててさ。これなら大丈夫じゃないかと思ってたんだよ」
おねーさん「どこか行く予定だったにゃ?」
オッサン「予定ってほどじゃない。買い物でも行こうかなとか、映画でも見ようかなとか」
マスター「弱いな」
オッサン「弱いんだよ。別にどうしても行きたいわけじゃない」
おねーさん「ひょっとして、生成AIにも聞いたにゃ?」
オッサン「聞いた。そしたら、ちゃんとお利口さんな答えを返してきた。台風の進路は変わる可能性があります、安全を優先してください、最新の気象情報を確認してください」
マスター「正しいな」
オッサン「正しいんだよ」
おねーさん「それで出なかったにゃ?」
オッサン「うん」
マスター「AIのせいにするなよ」
オッサン「してないって。そもそも俺、家の中が好きなんだよ」
マスター「知ってる」
オッサン「酒飲めるし」
マスター「昼からか」
オッサン「眠くなったら、すぐ寝られるし」
おねーさん「オッサンらしいにゃ」
オッサン「だから、別に昨日一日が不満だったわけじゃないんだよ。むしろ快適だった」
マスター「じゃあいいだろ」
オッサン「そうなんだけどさ」
マスター「また始まった」
***
オッサン「俺、普段は写真撮るだろ」
おねーさん「撮るにゃ」
オッサン「あれ、写真を撮りたいから外に出るんだよ」
マスター「外に出たいから写真を撮るんじゃない」
オッサン「そう。写真は本当に撮りたい。でも、家の中も本当に好きなんだ」
おねーさん「両方ほんとにゃ」
オッサン「だから写真を撮る日は、写真を撮りたい方が勝つ。それで外に出る」
マスター「昨日は写真じゃなかった」
オッサン「さすがに台風接近中に写真なんか撮らないよ。買い物とか映画とか、その程度」
マスター「それなら家の中が勝つな」
オッサン「そう。最初は、動機が弱かったせいだと思ったんだよ」
おねーさん「外出する動機にゃ?」
オッサン「そう。でも、ちょっと違う気がしてきた」
マスター「何がだ」
オッサン「正当化したんじゃないかと思って」
マスター「何を」
オッサン「家にいることを」
マスター「台風なんだから、別に正当化しなくてもいいだろ」
オッサン「そこなんだよ。俺自身は、大したことないと思ってたんだ」
おねーさん「でも『台風だから出ない』は成立するにゃ」
オッサン「そう。『今日は家にいたいから出ない』でもいいはずなのに、『台風だから出ない』を採用した」
マスター「どっちも本当なんじゃないか」
オッサン「そう。理由がないんじゃない。理由がいくつもある。その中のどれを決定理由にするかがarbitraryなんだよ」
マスター「Arbitrary、恣意的か」
おねーさん「日本語にすると、ちょっと意味がずれるにゃ」
オッサン「inherentと同じだな」
マスター「また日本語にしにくい英語か」
オッサン「そう。勝手に決めたって意味じゃない。理由はちゃんとある」
おねーさん「でも、その理由のどれを採用するかまでは、理由の中に書いてないにゃ」
オッサン「そう、それ。それが言いたかった。外出してもいい。家にいてもいい。台風は来てる。でも大したことなさそうだとも思ってる。AIは安全側を勧めてる。全部本当。その中から『台風だから出ない』を選んだ」
マスター「選んだ理由はある。でも、その理由を選ぶ理由までは決まってない」
オッサン「そう。そこに俺がいる」
マスター「家にいたかった」
オッサン「たぶんな」
***
オッサン「でさ、誰にも説明する必要なんかないんだよ」
マスター「当たり前だ」
オッサン「俺が映画を見に行こうが、家で酒飲んで寝てようが、誰も困らない。だったら『今日は家がいい』で終わっていいはずなんだよ」
マスター「終われよ」
オッサン「でも終わらなかった」
マスター「面倒くさい奴だな」
オッサン「なんで、自分一人の選択まで合理化したくなるんだろう」
おねーさん「後悔したくないからじゃないかにゃ」
オッサン「……それだ」
マスター「何がだ」
オッサン「もし『今日は家にいたい』だけで決めて、あとから台風なんて全然大したことなかったと分かったら、『映画くらい行けばよかった』って思うかもしれない」
おねーさん「後悔にゃ」
オッサン「でも『台風だからやめた』なら、その時点では妥当だったって言える」
マスター「まだ起きてもいない後悔を、先に軽くしてるわけか」
おねーさん「後悔したときの逃げ道を、選ぶ前に作ってるにゃ」
オッサン「酸っぱい葡萄みたいだな」
おねーさん「でも、葡萄を酸っぱいことにはしてないにゃ」
オッサン「そうか。映画がつまらないとも、買い物に価値がないとも思ってない」
マスター「価値を下げる代わりに、行かない理由を強くした」
オッサン「未来版というより、事前版の酸っぱい葡萄か」
おねーさん「まだ葡萄を取りに行ってないにゃ」
オッサン「しかも、嘘の理由を作ったわけじゃないんだよ。台風は本当に来てる」
マスター「正しい理由の中から、自分に都合のいいものを選んだ」
オッサン「だから強いんだな」
***
オッサン「待てよ。俺、前に後悔の話したよな」
マスター「選ばなかった方は反実仮想だから、答え合わせできないって話か」
オッサン「そう。今回は逆じゃないか?」
マスター「何が」
オッサン「昨日の朝の時点では、まだ何も選んでないんだぞ。それなのに俺は、夕方になって『映画に行けばよかった』って後悔してる自分を先に想定してる」
おねーさん「未来の自分を先に作ってるにゃ」
オッサン「しかも、そいつが後悔しないように、今の俺が理由を用意してる」
マスター「存在しない未来のお前のために、現在のお前が正当化してるわけだ」
オッサン「後悔って、後にも立たないくせに、先には立つのか?」
おねーさん「立ってないにゃ」
オッサン「え?」
おねーさん「先にいるのも、今のオッサンにゃ」
マスター「未来の後悔を予測してるだけだ」
オッサン「そうか。未来の俺が後悔してるんじゃない。今の俺が、『未来の俺は後悔するだろう』って考えてるのか」
おねーさん「まだ起きていない後悔も、今のオッサンが作ったものにゃ」
オッサン「前は、過去の選択から分岐した、今ここにいない自分を作った。今回は、まだ来てない未来の自分を先に作ってる」
マスター「どっちにしても、お前が今作ってる」
オッサン「後悔って、前にも後ろにも忙しいな」
***
マスター「それで、正当化するのは悪いのか?」
オッサン「そこなんだよな」
おねーさん「昨日は楽しかったにゃ?」
オッサン「楽しかったよ。酒飲んで、眠くなって寝た」
マスター「なら、結果として問題はない」
オッサン「それに、後悔を小さくする効用もある」
マスター「小さくしすぎれば、反省もしなくなるけどな」
オッサン「ずっと前にやった増幅器の話と同じか」
マスター「似てるな。後悔がなければ反省への入力が弱い。強すぎれば、反省がまた後悔を増やす」
オッサン「正帰還で発振する」
マスター「だからゼロにするんじゃない。発振させない」
オッサン「前に『反省はするけど、後悔はしない』って言ったけど、そういうことか」
マスター「確認終了。二度も同じ回路のことを説明させるな」
***
オッサン「でも、なんか悔しいな」
マスター「何がだ」
オッサン「結局、家にいたかったのは俺だろ」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「なのに『台風だから』『AIも安全側だったから』って、自分で決めたことを他のせいにしてる」
マスター「他責にしたのが悔しいのか」
オッサン「たぶんな。前にお前、『最後は自分の意思だ』って言っただろ」
マスター「言ったな」
オッサン「正解は分からない。それでも選ぶしかない。そこまで言ったのに、いざ自分が選ぶと、台風に決めてもらったみたいにしてる」
おねーさん「でも、オッサンが決めたにゃ」
オッサン「そう。俺が決めたなら、俺が決めたでいいじゃん」
マスター「じゃあ次からそうしろ」
オッサン「……でも待てよ」
マスター「何だ」
オッサン「arbitraryに決めること自体は、悪いのか?」
マスター「知らん」
オッサン「だって、理由は全部本当なんだぞ。家にいたい。台風は来てる。大したことなさそうだとも思ってる。AIは安全側を勧めてる」
おねーさん「どれか一つが、必ず決定理由になるわけじゃないにゃ」
オッサン「そう。だったら最後は、どれかを選ぶしかない」
マスター「前の話に戻ったな」
オッサン「最後は自分の意思だ」
マスター「そう言った」
オッサン「でも、それってarbitraryじゃん」
マスター「だから、それの何が悪い」
オッサン「……」
おねーさん「arbitraryに選んだことと、選んだあとで必然だったことにするのは、別じゃないかにゃ」
オッサン「……あ」
マスター「選ぶところと、その後の説明か」
オッサン「俺は『家にいたいから家にいた』でもよかったんだ」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「でも『台風だから出なかった』にすると、最初からそれしかなかったみたいになる」
マスター「選択肢はあったのにな」
オッサン「そうなんだよ。俺、arbitraryに選んだことが嫌だったんじゃない」
マスター「何が嫌だった」
オッサン「自分で選んだのに、あとから必然だったみたいにしたことが悔しかったんだ」
マスター「それで台風に少し引き受けてもらった」
オッサン「生成AIにも」
おねーさん「どっちも頼まれてないにゃ」
オッサン「そうなんだよな」
***
おねーさん「それで、昨日出かけなかったことは後悔してるにゃ?」
オッサン「してない」
マスター「じゃあいいだろ」
オッサン「よし、今度から、家にいたいときは、俺が家にいたいから家にいる」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「酒飲んで寝たいから、家にいる」
マスター「それは堂々と言わなくていい」
オッサン「俺が決めるんだ。それが意志の力だ」
マスター「で、その適用範囲は?」
オッサン「もちろん、これからの俺の人生すべての判断で」
おねーさん「それを家の外に出る方にも使うのかにゃ?」
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