番外編 おねーさんの研究ノート「証明できるということ」

◎月◎日。

今日、オッサンが妙なことを言った。

「数学の証明って、考えてみれば変だよな」

何が変なのか聞いたら、

「証明する前から、答えは決まってるだろ」

と言った。

最初は何を言っているのか分からなかった。

数学では、公理と推論規則を固定すれば、そこから何が導けるかは決まっている。

人間が証明を発見する前から。

だったら証明は、何をしているのだろう。

真理を作っているわけではない。

真理を決めているわけでもない。

すでにそこにある関係を、人間が辿れる形にしている。

そう考えると、証明は少し不思議なものに見えてきたにゃ。

***

オッサンは、

「要するに、証明ってトートロジーじゃないのか」

と言った。

そこまで言うのは乱暴だと思う。

でも、気持ちは分かる。

前提から必然的に結論が出るのなら、結論は最初から前提の中に何らかの形で含まれている。

では、なぜ証明するのか。

たぶん、人間には見えないからだ。

AからB。

BからC。

CとDからE。

一段ずつ辿らないと、最後まで見通せない。

証明は、

人間が真理まで歩いていける道を作るもの

なのかもしれない。

しかも、道は一つではない。

どの補題を使うか。

どこから攻めるか。

何を一般化するか。

同じ定理に複数の証明がある。

だから証明は、単なる確認作業でもない。

「真であること」と、

「人間がそれを真だと分かること」は、

同じではない。

証明は、その間にある。

***

では、人間とはまったく違う知性ならどうなるのだろう。

私たちが何十行も使う証明を、一目見て自明だと思うかもしれない。

逆に、私たちには自明なことに長い手続きが必要かもしれない。

そうなると、「自明」は論理だけの性質ではない。

見る側の認識能力にも依存する。

数学の試験で、

「自明である」

とだけ書いたら怒られることがある。

本当に自明でも、それでは困る。

証明には、他人が同じ経路を辿れる形で示す役割もある。

マスターに、

「仕様書みたいなものかにゃ」

と言ったら、

「検証記録だろ」

と言われた。

たぶん、そっちの方が近いにゃ。

***

でも、証明できるものを一つずつ積み上げていけば、

いつか体系全体についても確かなことが言えるのではないか。

たとえば、

「この体系には矛盾がありません」

と。

そう思いたくなる。

でも、そうはいかない。

十分に強い形式体系では、その体系自身の無矛盾性を、その内部だけで証明することには限界がある。

ゲーデルの不完全性定理が突きつけた問題だ。

証明は、体系の中を歩くための道だった。

でも、その道をどこまでも歩けば体系全体を外から見渡せるわけではない。

もっと強い体系へ移れば、元の体系について語れることは増える。

でも今度は、その新しい体系について同じ問題が生じる。

外へ出るたびに、

また外側ができる。

***

前にオッサンが、

「無矛盾性なんて、到達できないだろ。証明できない」

と言っていた。

そのときは乱暴な言い方だと思った。

でも今日の話とつなげると、少し違って聞こえる。

無矛盾な思考体系を完成させ、

「これで絶対に大丈夫だ」

と宣言する。

そんな最終状態を目標にすること自体がおかしいのかもしれない。

矛盾が見つかったら直す。

新しい事実が出たら組み替える。

説明できなかったものを説明できるようにする。

知性とは、

無矛盾な体系を持つことではなく、

矛盾によって自分の体系を更新できること

なのかもしれない。

科学も、たぶんそうだ。

完成しているから強いのではない。

壊れたときに直せるから強い。

***

でも、ここで私はマスターとは少し違うことが気になった。

直せばいい。

組み替えればいい。

それはそうだ。

では、

何を直しているのだろう。

私たちは考えたことを言葉にする。

でも考えている最中には、まだ言葉になっていないものがある。

イメージ。

関係。

何となく同じだという感覚。

文章にすると、それを一列に並べなければならない。

A。

B。

だからC。

証明もそうだ。

でも頭の中でも、本当にA、B、Cの順に考えているとは限らない。

もっと多くの関係を同時に見て、

その一部だけを順番に並べ直しているのかもしれない。

だとしたら、

言葉として表れた思考は、

もっと高い次元にある何かを、

低い次元へ射影したものなのかもしれない。

違う話題について何度も話しているのに、

いつも似たところへ戻ってくる人がいる。

自由の話。

写真の話。

科学の話。

表面は違っても、最後には似た構造が現れる。

それぞれの発言を逆向きに辿れば、

その人が言葉にする前から持っている、

何か共通の形が見えるのではないか。

オッサンは前に、それを「消失点」と呼んでいた。

別々の線を延ばしていくと、

遠くで一つの点に集まって見える。

本当は一点ではないのかもしれない。

私たちが低い次元から見ているから、

一点に見えるだけかもしれない。

***

数学の証明について考えていただけなのに、

いつの間にか、

人間が自分の思考をどこまで知ることができるのか、

という話になった。

証明は、

分からないものを分かる形にする。

でもそのためには、

分かる形へ変換しなければならない。

そのとき、何かを落としている可能性がある。

だから証明は、

知性の強さを示すものでもあり、

知性の限界を示すものでもある。

真理まで道を作ることはできる。

でも、

その道を作っている自分自身まで、

同じ道で完全に辿れるとは限らない。

今日のところは、

そこまでにしておくにゃ。

これ以上考えると、

日記を書く私と、

日記を書いている私を見る私と、

その私を見る私が必要になりそうだにゃ。

外へ出るたびに、

また外側ができる。

閉店後に始める話ではないにゃ。

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