第十二話 世界はなんて美しいんだ
小さなバー。名前は《N+2》。
オッサンが、いつものようにスマホで写真を見ている。幸せそうだ。
オッサン「昔の旅の写真を見返してたんだけどさ」
マスター「ん」
オッサン「世界って、なんて美しいんだろうな」
マスター「……今日はまた、ずいぶん大きなところから来たな」
おねーさん「最初から哲学っぽいにゃ」
オッサン「いや、哲学の話をしたいわけじゃない。ほんとにそう思っただけ。山も川も海も、森も花も。昔あちこち行って撮った写真を見てたら、世界って綺麗なんだなあって」
マスター「その写真、全部残ってるのか」
オッサン「いや」
マスター「下手なのは?」
オッサン「消した」
マスター「つまらん場所は?」
オッサン「そもそも撮ってない」
マスター「撮ったけど気に入らなかったやつは?」
オッサン「残してない」
マスター「じゃあ当たり前だ」
オッサン「何が」
マスター「お前が三十年かけて美しいところだけ選んで、美しく撮れたものだけ残したんだろ。それを並べて『世界は美しい』って、サンプルに偏りがありすぎる」
オッサン「……」
おねーさん「身も蓋もないにゃ」
オッサン「でも、そう言われると確かにそうだな」
マスター「世界の無作為標本じゃない」
オッサン「無作為どころじゃない。選別しまくってる」
おねーさん「何段階もあるにゃ。まず旅先を選ぶ。現地でどこへ行くかを選ぶ。何を見るかを選ぶ。何にカメラを向けるかを選ぶ。どこをフレームに入れるかを選ぶ。撮った写真から残すものを選ぶ。そして何十年後に、また見返す写真を選ぶにゃ」
オッサン「選択の多段濾過だな」
マスター「最後に残った上澄みだけ見て『世界は美しい』」
オッサン「言い方が悪い」
マスター「事実だ」
オッサン「でもさ。それなら、俺が見ている世界そのものが最初からそうじゃないか?」
おねーさん「というと?」
オッサン「目に入ってるもの全部を認識してるわけじゃないだろ。見えていても見てないものが山ほどある」
マスター「あるな」
オッサン「街を歩いてても、看板全部読んでるわけじゃない。通行人の顔全部覚えてるわけじゃない。音も匂いも全部拾ってない」
おねーさん「注意の選択だにゃ」
オッサン「その中からさらに一部しか記憶に残らない」
マスター「全部残ったら困る」
オッサン「つまり写真を撮る前から、俺たちは世界を捨てながら見てるのか」
おねーさん「そう考えられるにゃ。認識は情報を取り込むことだけじゃない。大量の情報を捨てることでもあるにゃ」
オッサン「捨象か」
マスター「お前、写真でそれを露骨にやってるだろ」
オッサン「背景か」
マスター「背景だけじゃない」
オッサン「ああ……光もだな」
マスター「最近のお前の花写真なんか典型だ。日陰を作る。光を当てる。余計な反射を切る。背景を落とす。邪魔なものを画角から外す」
オッサン「そう考えると、俺、世界は美しいとか言っておきながら、撮るとき世界を消してるな」
おねーさん「世界を撮るために世界を捨ててるにゃ」
オッサン「妙な話だな」
マスター「妙でもない。何かを見せるってのは、他の何かを見せないことだ」
オッサン「Field Studioなんて、考えてみたら光を足す装置じゃないしな」
マスター「そう。光を選ぶ装置だ」
オッサン「そうだ。自然光を遮って、必要な方向から必要な光だけ入れる。背景も暗くする。情報を増やしてるつもりだったけど、実際にはかなり捨ててる」
おねーさん「でも、捨てた結果、花はよく見えるようになるにゃ」
オッサン「そこなんだよ。情報を減らしたのに、情報が増えたように感じる」
マスター「物理的な情報量と、認識に使える情報量を一緒にするな」
オッサン「ああ、前にも似たような話したな」
おねーさん「情報が多ければ認識精度が上がるとは限らない、という話にゃ」
オッサン「ステレオグラムでもそんな話になったな。奥行き情報を増やしたのに、かえって変に見えることがある」
マスター「必要な情報と邪魔な情報は別だ」
オッサン「モノクロの線画の方が形が分かりやすいことだってある」
おねーさん「世界を忠実に複製することと、世界の何かを正確に認識させることは同じじゃないにゃ」
オッサン「すると、情報を捨てることは必ずしも世界から遠ざかることじゃない」
マスター「当たり前だ。モデルってのはそういうもんだ」
オッサン「出たな、システム屋」
マスター「変数を全部入れたモデルなんかモデルじゃない。何を見るか決める。境界を決める。無視するものを決める。そうしないと何も扱えない」
オッサン「統計も同じだな。個々人の事情を全部残したら集団としての傾向が見えない」
おねーさん「言葉も同じにゃ」
オッサン「言葉?」
おねーさん「目の前にいるネコは一匹ずつ全部違うにゃ。毛色も体格も性格も顔も違う。でも、その違いの大部分を捨てるから全部『ネコ』と呼べるにゃ」
オッサン「なるほど」
マスター「お前の好きな確率密度関数にする前に、まずネコという分類が要る」
オッサン「ネコの存在確率密度関数は正しい議論だっただろ」
マスター「そこは今どうでもいい」
おねーさん「捨象しなければ概念そのものが作れないにゃ」
***
オッサン「でも捨象しすぎたら、今度は何も見えなくなるぞ」
マスター「そうだ」
オッサン「山もそうだな」
マスター「何が」
オッサン「そういや前にも話したと思うけど、うちの祖父がさ。旅に飽きた頃に言ってたんだよ」
おねーさん「覚えてるにゃ」
オッサン「『結局、陸と水だからな』って」
マスター「正しい」
オッサン「お前、前もそんな反応だった気がする」
マスター「正しいものは何度聞いても正しい」
おねーさん「ものすごく強い捨象だにゃ」
オッサン「子供の頃は、ずいぶん身も蓋もないこと言うなと思ってたんだよ。せっかく旅行に行っても、山も渓谷も断崖も、滝も川も湖も海も、結局は『陸と水』って」
マスター「旅行を重ねた結果だろ」
オッサン「そうなんだろうな。最初は一つ一つ違って見える。でも経験が増えると、既に知ってるカテゴリーに放り込めるようになる」
おねーさん「新しい風景を見ても、『陸』『水』という既知の概念に圧縮できるにゃ」
オッサン「世界の圧縮率が上がるのか」
マスター「経験ってのは、そういう面もある」
オッサン「便利だけど、つまらんな」
マスター「効率はいい」
オッサン「でも、旅に飽きるぞ」
おねーさん「認識の効率が上がることと、世界が豊かに見えることは同じじゃないにゃ」
オッサン「経験を積むほど、世界が単純になることがあるのか」
マスター「何でも『知ってる』で済ませるようになればな」
オッサン「スルーするようになる」
おねーさん「そうにゃ」
オッサン「山。知ってる。川。知ってる。海。知ってる」
マスター「その方が脳は楽だ」
オッサン「でもさ」
マスター「ん」
オッサン「俺も、ある意味ではかなりスルーするようになってるぞ」
おねーさん「観光地に行っても記念写真には興味ないにゃ」
オッサン「有名な景色を見て『おおー』っていうのも減った。人が並んで写真撮ってる場所も、だいたい素通りする」
マスター「お前の家族、そういうの嫌いだもんな」
オッサン「そう。観光地で人物入れてニコパチとか、ほぼやらない」
おねーさん「では、お祖父さんと同じ方向に進んでるにゃ?」
オッサン「そこが違うんだよ」
マスター「何が」
オッサン「俺、最近五ミリの花撮って喜んでる」
マスター「知ってる」
オッサン「世界遺産みたいな景色の横で、地面にしゃがんで五ミリの花撮ってる」
おねーさん「スルーした先で、別のものを見つけてるにゃ」
オッサン「そうなんだよ」
マスター「なるほどな」
オッサン「祖父は、差異を捨てて『陸と水』に収束した。俺も大きな差異には慣れてきた。でもその代わり、昔なら見もしなかった小さな差異を拾ってる」
おねーさん「面白いにゃ。熟練には、世界を圧縮する働きだけじゃなくて、別の解像度で世界を開き直す働きもあるにゃ」
オッサン「最初は山全体を見る」
マスター「うん」
オッサン「そのうち山なんか珍しくなくなる」
マスター「うん」
オッサン「すると足元の五ミリの花が見えてくる」
おねーさん「スルーの先にあるもの、だにゃ」
オッサン「それだ」
マスター「ただし普通の人は、山をスルーしたらスマホ見るけどな」
オッサン「そこは地面を、這い蹲りながら見るんだよ」
マスター「膝悪くするぞ」
オッサン「もう膝パッド使ってる」
おねーさん「認識論が急に装備論になったにゃ」
オッサン「でもこれ、結構大事な話じゃないか。何かをスルーするって、必ずしも無関心になることじゃない。大きなものをスルーしたから、小さいものに注意を割ける」
マスター「有限なんだよ。注意も時間も処理能力も」
オッサン「だから捨てる必要がある」
おねーさん「そして何を捨てるかによって、何が見えるかが変わるにゃ」
オッサン「そう考えると、昔の俺と今の俺で、同じ場所に立っても見える世界が違うな」
マスター「違うだろうな」
オッサン「昔なら風景を撮る。今なら地面の花を撮るかもしれない」
おねーさん「世界が変わったわけではないにゃ」
オッサン「俺の選別器が変わった」
マスター「そういうことだ」
***
オッサン「……待てよ」
マスター「また何か気づいたか」
オッサン「じゃあ昔の写真を見返して『世界は美しい』って思ったけど」
おねーさん「最初に戻ったにゃ」
オッサン「あの写真に写ってるのって、本当に世界なのか?」
マスター「何を言い出した」
オッサン「だって、撮るものを俺が選んでる。構図も俺が決めてる。残す写真も俺が選んでる。しかも自分の好みのものばっかりだ」
おねーさん「そうにゃ」
オッサン「だったら三十年分の写真を並べたとき、記録されてるのは世界だけじゃない」
マスター「お前だな」
オッサン「そうなるよな」
おねーさん「何に立ち止まったか。何を美しいと思ったか。何を無視したか。何を残したかったか。その選択の履歴が全部残ってるにゃ」
オッサン「山を撮ったつもりで、自分を撮ってたのか」
マスター「顔は写ってないけどな」
オッサン「写真家の自画像って、本人を撮らなくても成立するのか」
おねーさん「むしろ長期間の写真群なら、かなり強い自画像になるかもしれないにゃ」
オッサン「好みが丸裸だもんな」
マスター「お前の場合は特にな」
オッサン「何だよ」
マスター「同じような小さい花ばっかり撮ってる」
オッサン「可愛いんだから仕方ない」
おねーさん「でも、それも重要にゃ。世界には巨大なものも派手なものも無数にある。その中から『ちっぽけなもの』を繰り返し拾うなら、それは対象の記録であると同時に、撮る人の価値判断の記録でもあるにゃ」
オッサン「世界のどこに価値を感じるか、か」
マスター「写真は選択の痕跡だからな」
オッサン「すると写真って、被写体の記録と撮影者の記録が重なってるんだ」
おねーさん「しかも撮影者自身は写っていないのに、撮影者の方が強く残ることさえあるにゃ」
オッサン「面白いな」
マスター「今さらか」
オッサン「じゃあ記憶も同じだろ」
おねーさん「そうなるにゃ」
オッサン「人生を振り返って覚えてることって、人生そのものじゃない。何に注意して、何を覚えて、何を忘れたかの結果だ」
マスター「そりゃそうだ」
オッサン「しかも記憶って後から変わるだろ」
おねーさん「思い出すこと自体が再構成になるにゃ」
オッサン「すると『俺の人生はこうだった』っていうのも、写真アルバムみたいなもんか」
マスター「かなり編集済みだろうな」
オッサン「嫌なことを忘れて、美化してるかもしれない」
マスター「逆に嫌なことばっかり覚えてる奴もいる」
おねーさん「どちらにしても、無編集の人生を後から見ることはできないにゃ」
オッサン「じゃあ『世界は美しかった』も『人生は良かった』も、客観的事実じゃない」
おねーさん「少なくとも単純な事実命題ではないにゃ」
オッサン「じゃあ錯覚か?」
おねーさん「そこは違うにゃ」
オッサン「なんで」
おねーさん「選択されていることと、偽物であることは同じではないからにゃ」
マスター「お前の花写真と同じだ」
オッサン「背景を落とした写真か」
マスター「背景を暗くしたから、その花が偽物になるのか?」
オッサン「ならない」
マスター「光を制御したら?」
オッサン「それもならない」
マスター「周りの草をフレームから外したら?」
オッサン「花そのものは本物だ」
マスター「なら、選んだこと自体が嘘なんじゃない」
おねーさん「ただし、選ばなかったものが存在しなかったことにはならないにゃ」
オッサン「ああ」
おねーさん「そこを忘れると危ないにゃ。写真でも、科学でも、統計でも、歴史でも同じ。強いモデルほど、何を捨てたかが見えなくなるにゃ」
オッサン「背景を真っ黒にしておいて、『この花は闇の中に生えていました』って言ったら嘘だもんな」
マスター「そういうことだ」
オッサン「でも『この花を見てほしかったから背景を落としました』なら嘘じゃない」
おねーさん「選択には視点がある。でも視点があることと虚偽であることは別にゃ」
***
オッサン「そうすると……世界が美しいかどうかって、世界だけの属性じゃないのかもしれないな」
マスター「ほう」
オッサン「世界の側に何かがある。陸がある。水がある。五ミリの花が咲いてる。でも、それを見つけて、立ち止まって、美しいと思って、残すのは俺だ」
おねーさん「美しさを、対象だけに属する性質ではなく、対象と見る側との関係として考えるわけだにゃ」
オッサン「俺がいなければ、俺にとって美しい世界はない。でも世界がなければ、当然俺は何も美しいと思えない」
マスター「どっちかだけじゃ成立しない」
オッサン「関係なんだな」
おねーさん「そう考えると、最初の問いへの答えも少し変わるにゃ」
オッサン「『世界は本当に美しいのか』」
マスター「で、どうなんだ」
オッサン「客観的に世界全体が美しい、とは言えない」
マスター「当たり前だ」
オッサン「醜いものも、退屈なものも、嫌なものも山ほどある。それを俺は撮らなかっただけかもしれない」
おねーさん「そうにゃ」
オッサン「でも俺が三十年かけて世界の中から見つけてきたものは、確かに美しかった」
マスター「選別した結果だぞ」
オッサン「知ってる」
マスター「偏ってるぞ」
オッサン「知ってる」
おねーさん「それでも?」
オッサン「それでもだよ」
オッサン「むしろ、今はその方がいいと思う」
マスター「何が」
オッサン「世界全体が美しい必要なんかないんだよ」
おねーさん「ほう、にゃ」
オッサン「世界が全部美しかったら、選ぶ必要がない。立ち止まる必要もない。写真を撮る必要もない」
マスター「なるほどな」
オッサン「陸と水しかない世界の中で、それでも陸の中に山・岩・渓谷を見つける。そいつらをスルーするようになったら、その足元に五ミリの花を見つける」
おねーさん「捨象して、また差異化するにゃ」
オッサン「そう。世界を圧縮して、また開く。その繰り返しなのかもしれない」
マスター「面倒な見方してるな」
オッサン「お前だってナチュラリストだろ」
マスター「だから分かるんだよ。同じ林なんか一つもない」
オッサン「ほら」
マスター「でも林は林だ」
オッサン「そこなんだよな」
おねーさん「同じであり、違う。カテゴリーがあるから差異が見える。差異があるからカテゴリーにも意味があるにゃ」
オッサン「祖父の『結局、陸と水』は正しかったんだ」
マスター「最初からそう言ってる」
オッサン「でも、その先があった」
おねーさん「スルーの先に、もう一度世界があるにゃ」
オッサン「うん」
マスター「で、昔の写真を見て、結局どう思った」
オッサン「世界は美しかったよ」
マスター「世界そのものじゃないぞ」
オッサン「分かってる。俺が見た世界だ」
おねーさん「写真に残した世界にゃ」
オッサン「俺が見て、立ち止まって、撮って、残そうと思った世界」
マスター「つまりお前の記録でもある」
オッサン「そうだな。世界を撮ってたつもりで、自分が何を見てきたかを撮ってた」
おねーさん「三十年分の自画像だにゃ」
オッサン「本人、一枚も写ってないけどな」
マスター「その方がお前らしいだろ」
オッサン「……明日も何か撮るかな」
マスター「勝手にしろ」
オッサン「五ミリくらいのやつを」
マスター「下ばっかり見て歩くな。転ぶぞ」
オッサン「膝パッドあるから大丈夫」
マスター「膝の話じゃない」
おねーさん「世界は陸と水と、その足元の五ミリの花でできているにゃ」
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