番外編 おねーさんの研究ノート「ネコの存在について」

◎月◎日。

今日、興味深い問題提起があったので記録しておくにゃ。

問いを出したのは、いつものオッサン。

「ネコの存在に関する確率密度関数って、どうなるんだろうな」

マスターは「知らん」と言ってお酒を出していた。

たぶん、また始まったと思っているにゃ。

私もそう思った。

でも、この問いは案外悪くない。

「ネコはどこにいるのか」

位置が分からないとき、私たちはネコがいそうな場所を予想する。

塀の上。

植え込み。

車の下。

室外機の横。

餌をくれる人の家の近く。

つまりネコを発見する前から、私たちの中には「ネコがいそうな空間」がある。

オッサンは、それを時刻 t、位置 x の確率密度 p(x,t) で表そうとした。

マスターはすぐに、気温、天候、餌、人間、他個体、縄張りと変数を増やし始めた。

この人は、曖昧なものを見るとモデルにしたくなるにゃ。

私は別のことが気になった。

まだネコを見ていないのに、どうして私たちは、

「ここにはネコがいそうだ」

と思えるのだろう。

過去に見たから。

習性を知っているから。

餌皿があるから。

あるいは「ネコならこういう場所にいる」という像を持っているから。

p(x,t) はネコの分布であると同時に、私たちがネコについて何を知っているかの表現でもある。

そこで少し意地悪をした。

「でも、ネコを見つけた瞬間、存在位置は一点に収束するにゃ?」

オッサンが食いついた。

「観測による収束か」

さらに不確定性原理まで持ち出したので、マスターが即座に止めた。

ネコは量子ではない。

観測前からどこかにいる。

私たちが知らないだけ。

オッサンは、

「じゃあ収束するのはネコじゃなくて、俺の認識か」

と言った。

マスターにとっては、状態推定が更新された。

たぶんそれで終わる。

私には、そこからが気になった。

ネコは変わっていない。

変わったのは、ネコについて私たちが持っている世界の記述である。

世界そのものと、

世界について私たちが知っていることは、

同じではない。

昔から哲学が何度も踏んできた場所に近い。

黙っていた。

どうせオッサンが勝手にそこへ行くにゃ。

次にオッサンは、飼い猫ならどうなる、と言い出した。

マスターは、

「制御系だ」

と言った。

出たにゃ。

餌を出す。

扉を開ける。

寝床を作る。

暖房をつける。

名前を呼ぶ。

人間からネコへの入力がある。

だから観測だけでなく制御の問題になる。

マスターは、何かが曖昧になると入力と出力を決める。

境界条件を決める。

系を閉じる。

とてもマスターらしい。

私は聞いた。

「でも制御できてないにゃ」

マスターが黙った。

少しして、

「正しい」

と言った。

今日、一番面白かったところ。

オッサンとマスターは、非線形だ、外乱だ、内部状態が観測できない、と話していた。

私は別のことを考えていた。

ネコの内部状態は分からない。

お腹が空いている。

眠い。

遊びたい。

不機嫌。

甘えたい。

一人でいたい。

ネコは説明しない。

だから人間は見る。

鳴き方。

しっぽ。

耳。

時間。

昨日までの行動。

そして、

「たぶん、こうだ」

と考える。

マスターにとっては状態推定なのだろう。

私には、解釈に見える。

しかも、その解釈に応じて人間自身が行動を変える。

そのあと、オッサンが餌を制御入力にしてネコを膝へ載せようとしていた。

「目標値、膝上」

「難しい」

「現在値、窓際」

「やめろ」

「誤差が大きい」

「やめろ」

「制御入力、ちゅーる」

「商品名を出すな」

笑ってしまった。

でも、この馬鹿みたいなやり取りで一つ気づいた。

人間が餌でネコを動かす。

人間が制御器。

ネコが制御対象。

そう見える。

人間から見れば。

では、ネコから見たら。

ネコが鳴く。

人間が餌を出す。

ネコがドアの前に座る。

人間が開ける。

ネコが膝を見る。

人間が姿勢を変える。

私は言った。

「人間の方が制御対象かもしれないにゃ」

マスターは否定しなかった。

同じ関係なのに、どちらを主体として記述するかで図が反転する。

人間から書けば、人間がネコを動かしている。

ネコから書けば、ネコが人間を動かしている。

重要なのは、どちらか一方だけを動かす側に固定すると、関係の半分が消えることだ。

人間はネコを観察する。

ネコも人間を観察する。

双方が相手を学習し、自分の行動を変える。

マスターは、

「相互作用系だ」

と言った。

オッサンは、

「相互フィードバック系か」

と言った。

私は、

「関係の中で双方の状態が決まっていく、とも言えるにゃ」

と言った。

マスターが嫌な顔をした。

たぶんマスターなら、人間も状態変数に入れれば済む。

それで系は閉じる。

でも私は、そこで別の問いが残ると思う。

そのモデルは、

誰の側から書かれているのか。

オッサンが言った。

「じゃあ飼い主って何なんだ?」

これは今日、一番いい問いだったかもしれない。

観測者。

制御者。

環境。

仲間。

資源供給者。

被制御対象。

たぶん全部で、

どれか一つではない。

ネコにとって人間は環境の一部である。

でも石や壁とは違う。

反応する。

学習する。

ネコを見て、自分の振る舞いを変える。

逆に人間の生活もネコによって変わる。

朝起きる時間。

扉を開ける回数。

家具の配置。

旅行の日程。

マスターなら、全部まとめて相互作用する一つの系として記述するのだと思う。

私は少し違う。

一つの系になったというより、

それまで別々だった二つの生活に、

互いが入り込んだのだと思う。

だから飼うということは、

一方が一方を完全に制御することではなく、

相手がいることを前提に自分の生活まで組み替えることなのかもしれない。

オッサンが、

「社会も同じじゃないか?」

と言った。

マスターが、

「広げるな」

と言った。

「会社も?」

「広げるな」

「夫婦も?」

「知らん」

たぶんマスターも分かっている。

広げられるにゃ。

人間同士でも、一方だけが見る側で、一方だけが見られる側ということは少ない。

見ることで見られる。

働きかけることで働きかけられる。

相手を知ろうとすることで、自分も変わる。

ここまで来ると、最初の「ネコの存在確率密度関数」から遠くへ来たように見える。

でも、本当にそうだろうか。

最初から問題は、

ネコがどこにいるか、

だけではなかったのかもしれない。

ネコが「いる」とは、

私たちにとってどういうことなのか。

見つける前からネコはいる。

見つけると、私たちの世界の記述が変わる。

飼い始めると、もっと変わる。

餌皿が置かれる。

寝床ができる。

扉を閉める前に確認する。

帰宅すると探す。

いなければ気になる。

見つければ安心する。

そのネコがいることによって、

人間の行動の確率分布まで変わる。

マスターなら、そこまで含めて系を拡張するのだろう。

私は、

それでもまだ何かが抜けている気がする。

そのネコがいることと、

そのネコが「いる」と誰かが思って暮らしていることは、

同じではない。

二人とも帰ったあと、カウンターを片付けながら考えた。

もし明日、いつもいるネコがいなかったら。

塀もある。

植え込みもある。

室外機もある。

物理的な空間は変わらない。

でも、

「あのネコがいない」

ということは分かる。

存在していないものが、

その場所の見え方を変える。

マスターなら、

過去の観測から形成された期待との差だ、

と言うかもしれない。

たぶん、それで説明はできる。

でも説明できることと、

それで言い尽くせることは、

同じではないにゃ。

存在は、

「そこに何があるか」

だけではなく、

「そこに誰がいると思っていたか」

によっても経験されるのかもしれない。

今日のところは、ここまで。

なお、マスターは帰宅途中でネコを見つけて呼んだらしい。

耳だけこちらを向けて、来なかったそうだ。

本人は、

「入力には反応した。出力が期待と違った。制御不能」

と言っていた。

やっぱりマスターは、最後まで制御系として見ているにゃ。

たぶん違う。

ネコの方には、

動く理由がなかっただけにゃ。

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