番外編 マスターの営業日誌(店舗内限定閲覧可能ブログ)ネコの存在確率密度関数
◎月◎日。
天候、晴れ。
客入り、普通。
売上、普通。
特記事項なし。
と言いたいところだが、常連のオッサンがまた妙なことを言い始めた。
「ネコの存在に関する確率密度関数って、どうなるんだろうな」
知らん。
酒を出した。
放っておけば別の話になると思った。
ならなかった。
オッサンによれば、街を歩いていると、ときどきネコがいる。
しかし、どこにいるかは分からない。
昨日、塀の上にいたからといって、今日もいるとは限らない。
植え込み。車の下。室外機の横。そもそもその辺りにいないかもしれない。
だから、ある時刻 t において、ネコが位置 x に存在する確率密度 p(x,t) を考えればいいのではないか。
そこまではいい。
腹立たしいが、いい。
ネコの行動圏を空間として、時刻による位置分布を推定する。
「朝と夜でも違うよな」
違う。
「雨の日も」
違う。
「餌をやる人が来る時間でも変わる」
変わる。
「じゃあ p(x,t) だけじゃ足りないな」
足りない。
気温、降水、時間帯、餌資源、人間活動、他個体、縄張り。
何を説明変数にするかは、何を知りたいかで決まる。
ここで俺は余計な説明をした。
今思えば黙っていればよかった。
おねーさんが言った。
「でも、ネコを見つけた瞬間、存在位置は一点に収束するにゃ?」
オッサンが言った。
「観測による収束か」
嫌な予感がした。
「不確定性原理も考えないとダメか?」
違う。
そこじゃない。
量子力学を持ってくるな。
ネコは波動関数ではない。
少なくとも普通のネコは違う。
観測前に位置が決まっていないのではない。こっちが知らないだけだ。
確率分布は、観測者側の情報が不完全だから使っている。
そう説明した。
オッサンは少し考えた。
「じゃあ、見つけた瞬間に収束するのは、ネコじゃなくて俺の認識か」
その通りだ。
状態推定が更新される。
妙に話が通じるのが腹立たしい。
問題はここからだった。
「でも飼い猫は違うよな」
何が違う。
「家にいる確率が圧倒的に高い。餌の時間なら台所。名前を呼べば来ることもある」
来ないこともある。
「すると、野良から飼い猫になったところで、存在確率密度関数の性質が不連続に変わる?」
違う。
そこじゃない。
制御系だ。
言ってから、しまったと思った。
飼育下では、人間がネコの環境へ介入する。
扉を閉める。餌を出す。寝床を用意する。室温を変える。名前を呼ぶ。
人間からネコへの入力がある。
野良ネコなら、基本的には位置を観測して分布を推定する問題だ。
飼い猫では、人間が入力を与えて状態を変えようとする。
観測だけではない。
介入がある。
ここまで説明したところで、おねーさんが言った。
「でも制御できてないにゃ」
黙れ。
正しい。
名前を呼んでも来ない。
来てほしくないときに来る。
キーボードに乗る。
新聞に乗る。
寝ようとすると走る。
起きる時間になると寝る。
制御対象としてはかなり質が悪い。
オッサンが言った。
「非線形?」
それだけでもない。
「外乱が大きい?」
それもある。
「内部状態が観測できない?」
かなりある。
腹が減っているのか。眠いのか。遊びたいのか。機嫌が悪いのか。
内部状態の推定が難しい。
しかも同じ入力に同じ応答を返す保証がない。
名前を呼ぶ。
昨日は来た。今日は耳だけ動かす。明日は完全に無視する。
それでも人間は入力を繰り返す。
制御器としての人間側にも学習能力がない可能性がある。
「でも餌ならかなり制御できるだろ」
確かに強い入力になる。
袋の音。缶を開ける音。食器の音。
「じゃあフィードバック制御できるじゃん」
待て。
何を制御量にする。
「ネコを膝の上に載せる」
難しい。
「目標値、膝上」
難しいと言っている。
「現在値、窓際」
やめろ。
「誤差が大きい」
やめろ。
「制御入力、ちゅーる」
商品名を出すな。
おねーさんが笑っていた。
腹が立つ。
ただし、ここで問題が出た。
人間が餌を使ってネコを動かすなら、人間が制御器でネコが制御対象に見える。
しかし、
ネコが鳴く。人間が餌を出す。
ネコがドアの前に座る。人間がドアを開ける。
ネコが膝を見る。人間が姿勢を変える。
ネコがキーボードに来る。人間が作業を中断する。
入出力を逆に取れば、ネコが人間を制御しているようにも見える。
オッサンが言った。
「あれ?」
俺も思った。
あれ?
おねーさんが言った。
「人間の方が制御対象かもしれないにゃ」
否定できない。
「じゃあ飼育って、どっちがどっちを制御してるんだ?」
知らん。
少なくとも単方向ではない。
相互作用系だ。
双方が相手を観測し、双方が行動を修正する。
長期的には学習も入る。
ネコは、この人間には鳴けば通じると学ぶ。
人間は、この鳴き方なら餌だと学ぶ。
どちらがどちらを条件付けしているのか分からない。
というより、一方だけを系として切り出す方に無理がある。
「相互フィードバック系か」
そうだ。
「安定するの?」
場合による。
「発振しない?」
夜中に走り回ることはある。
「それ発振?」
違う。
たぶん違う。
おねーさんが言った。
「でも、面白いにゃ」
何が。
「最初は『ネコがどこにいるか』という話だったにゃ」
そうだ。
「観測者が外からネコを見る問題だったにゃ」
そうだ。
「でも飼い猫になったら、人間が系の中に入ったにゃ」
そこで気づいた。
そういうことだ。
野良ネコなら、人間を観測者として外側に置ける。
少なくとも近似的には。
しかし飼い猫では、人間が餌を出し、扉を開け、温度を変え、名前を呼ぶ。
人間を外へ追い出すと、必要な変数まで外へ出る。
なら、人間も系に含めるしかない。
問題は、どこに系の境界を引くかだ。
オッサンが言った。
「じゃあ野良から飼い猫になったとき、不連続に変わるっていう俺の直感、そんなに間違ってなかった?」
違う。
そこは認めない。
数学的な不連続性があるとは限らない。
飼育化によって境界条件と相互作用の構造が変わる。
それだけだ。
「でも、観測問題から制御問題になる」
完全には違わない。
「さらに相互制御問題になる」
まあ、そうだ。
「人間も系に含めないと閉じない」
そうだ。
満足そうな顔をした。
腹が立つ。
しばらくして、おねーさんが言った。
「そうすると、飼い主って何にゃ?」
知らん。
「制御器でもない。観測者でもない。完全な外部環境でもないにゃ」
そうだな。
「ネコにとっての環境の一部で、同時にネコから影響を受ける主体でもあるにゃ」
そうなる。
俺なら人間も状態変数に入れる。
それで済む。
オッサンが言った。
「主体と客体をきれいに分けられないのか」
話を大きくするな。
「最初は俺たちがネコを観察してた。次にネコを制御してると思った。よく考えたらネコも俺たちを制御してた」
その言い方は雑だが、構造としてはそうなる。
「社会も?」
広げるな。
「会社も?」
広げるな。
「夫婦も?」
知らん。
おねーさんが笑っていた。
閉店時間になった。
オッサンは最後に、
「結局、ネコの存在確率密度関数を考えてただけなのに、主体と客体の話になったな」
と言った。
お前がしたんだ。
酒代を払って帰った。
閉店後、少し考えた。
最初の問いは馬鹿げている。
「ネコはどこにいるのか」
そんなもの、探せばいい。
だが、位置が分からなければ分布として扱える。
観測すれば推定が変わる。
介入すれば対象が変わる。
相手もこちらを観測して行動を変えるなら、こちらも変数になる。
結局、問題はネコの位置ではなく、どこまでを一つの系として扱うかになる。
これはネコに限った話ではない。
だから困る。
営業日誌に書く内容ではない。
まあ、店の中でしか読めないからいいか。
本日の売上。
忘れた。
帰宅途中、路地でネコを一匹見た。
塀の上にいた。
呼んでみた。
耳だけこちらへ向けた。
もう一度呼んだ。
動かなかった。
入力には反応した。
出力が期待と違った。
制御不能。
以上。
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