第五話 カント出禁
小さなバー。名前は《N+2》。
北海道から戻ってきたオッサンが、カウンターで土産話をしている。話は夏休みの過ごし方になった。
オッサン「そういや夏休みに、カントを出禁にしたことがあるんだよ」
マスター「哲学者を出禁にするな」
おねーさん「何をしたにゃ、カントさん」
オッサン「何もしてない。俺が疲れたんだよ」
マスター「勝手だな」
オッサン「北海道にいるんだぞ。空は青い。雲は白い。風は涼しい。それでいいじゃないか」
マスター「いいじゃねえか」
オッサン「いちいち『この青は物自体の属性なのか』とか、『空間は純粋直観の形式で』とか考えない」
マスター「もう考えてるぞ」
オッサン「だから、そういうのを全部いったん括弧に入れる」
マスター「括弧?」
オッサン「アポケーだ」
マスター「何だそれ」
おねーさん「フッサールにゃ」
マスター「カントを追い出したら別の哲学者が来たぞ」
オッサン「違う。フッサールを呼んだんじゃない。俺はフッサールを使ってカントを追い出したんだ」
マスター「余計悪いわ」
オッサン「アポケー。判断停止。世界が本当はどうなってるかとか、それが本当に存在するのかとか、そういう判断をいったん括弧に入れる」
マスター「考えないってことか」
オッサン「そこが違う」
おねーさん「違うにゃ」
マスター「二人で言うな」
オッサン「思考停止じゃない。むしろ逆だ。普段なら『空がある』『雲がある』で済ませているところを、それが俺にどう現れているかの方を見る」
おねーさん「自然的態度をいったん停止するにゃ」
マスター「自然的態度?」
オッサン「普段は世界がそこにあることなんか疑わないだろ。コップがある。酒がある。ネコがいる」
おねーさん「最後だけ強く肯定していいにゃ」
マスター「そこだけ自然的態度を貫くな」
オッサン「でもアポケーでは、『本当にあるのか』『客観的にはどうなのか』をいったん脇に置く」
マスター「で?」
オッサン「現れているものを、現れているものとして見る」
マスター「面倒くせえな」
おねーさん「そこが現象学にゃ」
オッサン「だから夏休みは、青空を見て『青いねえ』で終わる」
マスター「それでいい」
オッサン「雲を見て『きれいだねえ』」
マスター「それでいい」
オッサン「山を見て『山だねえ』」
マスター「お前、急に馬鹿になってないか」
おねーさん「アポケーの使い方が雑にゃ」
オッサン「やっぱり?」
おねーさん「それは単に哲学を休んでるだけにゃ」
オッサン「夏休みなんだからいいだろ」
おねーさん「アポケーしたなら、そこからが仕事にゃ」
マスター「休ませてやれよ」
おねーさん「『青い』という経験が、どう現れているのかを見るにゃ。『空』という名前を付ける前に何が与えられているのか。何を当然のこととして持ち込んでいるのか」
オッサン「やっぱり面倒くさいな、フッサール」
マスター「お前が呼んだんだろ」
オッサン「でも、それなら写真を撮ってる時に近いな」
マスター「また写真か」
オッサン「たとえば小さな花を見つけるだろ。最初から『何科の何属だ』って見てるわけじゃない。まず、何かが引っかかる」
おねーさん「まだ名前になる前にゃ」
オッサン「そう。緑の中に、ほんの少し形の違うものがある。数ミリしかない。そこでしゃがんで見る」
マスター「お前の場合、そこから機材が大げさになるんだよ」
オッサン「今は機材の話じゃない」
マスター「珍しいな」
オッサン「名前を知った瞬間に、逆に見なくなることもあるんだよ。『ああ、これは○○ね』って」
おねーさん「概念で回収して終わるにゃ」
オッサン「だから一度、それを括弧に入れる。名前も、珍しさも、写真として映えるかどうかも。まず、どう見えているかを見る」
マスター「それなら意味は分かる」
オッサン「形がある。光が当たってる。こっちは沈んでる。背景との境界がある。小さい。でも、そこにいる」
おねーさん「現れに戻るにゃ」
オッサン「写真って、案外アポケーと相性いいんじゃないか?」
マスター「撮影前にいちいちフッサールを呼ぶな」
オッサン「呼ばなくてもやってるんだよ」
マスター「それが一番面倒だな」
***
しばらくして、オッサンがグラスを置いた。
オッサン「でもな」
マスター「まだあるのか」
オッサン「現れを見るって、誰が見てるんだ?」
マスター「お前だろ」
オッサン「そう。俺が見てる」
マスター「終わり」
オッサン「ところが、『俺はいまこう見ている』って観察した瞬間に、その『見ている俺』も観察対象になるだろ」
マスター「……」
おねーさん「来たにゃ」
オッサン「花を見ている俺がいる。その俺を、『ああ、俺は今、花をこう見ているんだな』と見ている俺がいる」
マスター「同じお前だろ」
オッサン「同じなのか?」
マスター「知らねえよ」
オッサン「経験している私と、その経験を反省的に見ている私は、本当に同じレベルにいるのか?」
おねーさん「現象学的還元を進めると、そこが問題になるにゃ」
マスター「また知らない言葉が増えたぞ」
オッサン「普段の俺は、花を見てる。でもアポケーして、その経験そのものを見ると、今度は『見るという経験』が対象になる」
おねーさん「それが現象学的還元にゃ。世界を当然そこにあるものとして扱うのをいったん止めて、意識にどう現れているのか、その成り立つ側へ視線を戻すにゃ」
マスター「さっきの括弧を、もっと先までやるのか」
オッサン「そう。すると、その経験が誰にとっての経験なのかが残る」
おねーさん「消せない観察者が出てくるにゃ」
マスター「お前だろ」
オッサン「だから、その『お前』って何だよ」
マスター「面倒くせえな!」
オッサン「でも、これって変なんだよ」
おねーさん「何がにゃ?」
オッサン「何でも括弧に入れられると思ったんだ。世界についての判断も、対象についての知識も、自分の先入観も」
おねーさん「そうにゃ」
オッサン「でも最後まで括弧に入らないものがある」
マスター「何だ」
オッサン「括弧に入れてる奴だよ」
マスター「……ああ」
おねーさん「超越論的な主観性の方へ行くにゃ」
マスター「今度は何だ、それ」
おねーさん「世界の中にいる一人の人間としての『私』じゃなくて、そもそも世界が経験として現れる、その経験を成立させる側の主観性を問題にするにゃ」
オッサン「世界について何を疑っても、保留しても、『いま経験が成立している』ことと、その経験が何らかの仕方で統一されていることは残る」
***
マスター「待て」
オッサン「何だ」
マスター「それ、さっき追い出した奴じゃないのか」
オッサン「……」
おねーさん「気づいたにゃ」
マスター「俺でも分かったぞ」
オッサン「カントじゃん」
マスター「帰ってきたじゃねえか」
おねーさん「カントさんなら、経験が一つの経験として成立するには、『我思う』が表象に伴いうる必要がある、と考えるにゃ」
オッサン「超越論的統覚」
マスター「また何だ、それ」
オッサン「今見てるもの、聞いてるもの、考えてるものが、全部ばらばらじゃなくて、『俺が経験している一つの経験』としてまとまってるだろ」
マスター「まあな」
おねーさん「そのさまざまな表象を一つの自己意識のもとに統一できることを、カントさんは重視したにゃ」
オッサン「それが超越論的統覚」
マスター「お前、出禁にした割に詳しいな」
オッサン「だから出禁にしたんだよ。出てくるから」
おねーさん「フッサールはそこからさらに、意識に現れるものと、それを経験する超越論的主観性を徹底して記述しようとするにゃ」
オッサン「出発点は違う。でも、世界をそのまま掴めると思わずに、認識が成立する側へ遡っていくと、妙に近いところを通る」
マスター「で、結局どうなった」
オッサン「カントを出禁にするためにフッサールを使ったら、フッサールの奥にカントがいた」
マスター「最初から出禁にするなよ」
おねーさん「哲学史は裏口が多いにゃ」
***
店の外で、雨が降り始めた。
オッサンは窓の向こうを見た。
オッサン「雨だな」
マスター「ああ」
オッサン「街灯のところだけ、雨粒が見える」
おねーさん「きれいにゃ」
オッサン「きれいだな」
マスター「それで終われ」
オッサン「……」
マスター「考えるな」
オッサン「いや、今アポケーしてる」
マスター「やめろ」
オッサン「『雨が降っている』という判断はいったん括弧に入れて――」
マスター「雨は降ってる」
オッサン「俺に現れている光の筋として――」
マスター「濡れるぞ」
オッサン「その経験をしている俺を――」
マスター「傘持って帰れ」
オッサン「しかし、この経験の統一を可能にしている――」
マスター「カントも連れて帰れ」
おねーさん「フッサールも忘れるなにゃ」
オッサン「二人とも出禁か」
マスター「お前ごと出禁だ」
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