第十二話 私は幸せと決める
小さなバー。名前は《N+2》。
オッサンがスマホを見ている。
オッサン「『私は幸せである』と先に決めるんだって」
マスター「なんの話だ?」
オッサン「記事。『私は幸せである』と先に決めるだけで、毎日の行動と選択が変わるらしい」
おねーさん「幸せだから『私は幸せである』と思うんじゃないのかにゃ?」
オッサン「逆。先に決める」
マスター「目標値を先に置くのか」
オッサン「そうすると、その後の選択や行動が変わる」
おねーさん「何を幸福と評価するかも変わるにゃ」
オッサン「毎日振り返って、小さな成功を記録する」
マスター「観測してフィードバック」
おねーさん「でも、何が起きても幸福として再解釈できるなら反証できないにゃ」
オッサン「事実の記述というより、評価関数か」
マスター「まあ、そんなところだ」
オッサン「……」
おねーさん「……」
マスター「終わりか」
オッサン「終わったな」
***
オッサン「なあ」
マスター「何だ」
オッサン「お前ら、この本読みたい?」
マスター「別に」
おねーさん「今はいいにゃ」
オッサン「俺も」
マスター「じゃあ閉じろ」
オッサン「いや、そこなんだよ」
マスター「何が」
オッサン「向こうも商売だろ」
マスター「また同じことをするのか?」
おねーさん「この前の本の想定読者層より気になるにゃ」
マスター「お前、やっぱりこのオッサンに、毒されてないか?」
***
オッサン「まず、不幸な人」
おねーさん「広すぎるにゃ」
オッサン「幸せじゃないから、幸せ本を買う。普通じゃない?」
マスター「本当に困ってる奴を考えてみろ」
オッサン「例えば?」
マスター「明日の家賃が払えない」
オッサン「金が要る」
マスター「重い病気になった」
オッサン「治療だな」
マスター「会社が潰れて仕事がない」
オッサン「仕事を探す」
おねーさん「そういうときに、『私は幸せであると先に決めましょう』と言われても困るにゃ」
オッサン「じゃあ、不幸の真ん中にいる人じゃない」
マスター「少なくとも、本を読んで自分の人生を考える余裕がある奴だ」
オッサン「なるほど」
おねーさん「想定読者のプロファイリングをしてみるにゃ」
オッサン「仕事はある」
マスター「生活も安定してる」
おねーさん「健康にも大きな問題はないにゃ」
オッサン「家族もいるかもしれない」
マスター「趣味もある」
オッサン「金にも今すぐ困ってない」
おねーさん「普通に暮らしてるにゃ」
オッサン「……結構幸せそうじゃない?」
マスター「外から見ればな」
***
オッサン「じゃあ、そんな人がなんでこの本を手に取る?」
おねーさん「何かが足りないと思ってるにゃ」
オッサン「何が?」
マスター「それが分からないんだろ」
オッサン「分からないものを本屋に探しに行くのか?」
マスター「『このままでいいのか』くらいは分かってる」
オッサン「ああ」
おねーさん「仕事はある。でも、この仕事を続けていていいのかにゃ」
マスター「生活は安定してる。でも、この生活でいいのか」
オッサン「家族もいる。趣味もある。別に不幸じゃない」
おねーさん「でも、『自分は幸せなのか』と聞かれると、すぐには答えられないにゃ」
オッサン「なるほど」
マスター「そこへ『私は幸せであると先に決める』と来る」
オッサン「刺さるな」
おねーさん「『自分のことかもしれない』と思う人がいるにゃ」
オッサン「不幸な人に売る本じゃないのか」
マスター「むしろ、不幸とは言い切れない奴に売る本なのかもしれんな」
***
オッサン「でも、その人だって価値観くらい持ってるだろ」
マスター「当然だ」
オッサン「家族は大切。仕事も大切。健康も大切。金も必要。自由時間も欲しい」
おねーさん「普通に持ってるにゃ」
オッサン「じゃあ、何が分からない?」
マスター「仕事と家族がぶつかったら?」
オッサン「場合による」
おねーさん「金と自由時間なら?」
オッサン「場合による」
マスター「安定と挑戦」
オッサン「場合による」
おねーさん「健康と楽しみ」
オッサン「場合による」
マスター「全部場合によるな」
オッサン「そりゃそうだろ」
おねーさん「たぶん、それで普通にゃ」
オッサン「じゃあ問題ないじゃん」
マスター「普段はな」
***
オッサン「また条件が付いた」
マスター「昼飯を決めるのに、人生の目的関数はいらん」
オッサン「ラーメン食いたければラーメン食えばいい」
おねーさん「今日は残業する。明日は早く帰る。今月は節約する。でも旅行には行く。それで生活は回るにゃ」
マスター「局所的に決めればいい」
オッサン「だから、自分の評価関数なんて意識しなくても暮らせる」
おねーさん「『このままでいいのか』と聞くまではにゃ」
オッサン「またそこか」
マスター「その問いは、今日どうするかを聞いてない」
おねーさん「今までの選択をまとめて、『この人生でいいのか』と聞いてるにゃ」
オッサン「ああ」
マスター「そこで初めて、局所的な判断だけじゃ足りなくなる」
オッサン「何をもって、人生全体を『いい』とするのか」
おねーさん「その基準が要るにゃ」
***
オッサン「分かった」
マスター「何が」
オッサン「この本の想定読者、評価関数を持ってない人じゃないんだ」
おねーさん「持ってるにゃ」
オッサン「毎日それで選んでる」
マスター「ただ、自分でも全体像が見えてない」
オッサン「今まで見る必要もなかった」
おねーさん「ところが、何かのきっかけで『このままでいいのか』と思ったにゃ」
オッサン「その瞬間、今までバラバラで済んでた基準をまとめるものが必要になる」
マスター「そこで『幸福』を置く」
オッサン「この仕事は幸福につながるか」
おねーさん「この時間の使い方は幸福につながるかにゃ」
オッサン「この選択は?」
マスター「一本の尺度で見やすくなる」
オッサン「だから、『私は幸せである』なのか」
おねーさん「最初に上位の評価関数を置いてしまうにゃ」
オッサン「便利だな」
マスター「だから商品になるんだろ」
***
オッサン「でも、それって、本が新しい評価関数を売ってるのか?」
マスター「完全に新しいわけじゃないだろ」
おねーさん「本を読む前から、幸福になりたくないわけじゃないにゃ」
オッサン「そりゃそうだ」
マスター「家族も健康も仕事も、もともと大切だと思ってる」
オッサン「じゃあ、何を売ってる?」
おねーさん「まとめ方じゃないかにゃ」
オッサン「まとめ方?」
おねーさん「本人がすでに持っているいろんな基準を、『幸福』という上位の基準でまとめて見る方法にゃ」
マスター「評価関数と、その使い方のセットだな」
オッサン「なるほど」
マスター「一から人生観を作れと言われるよりは使いやすい」
オッサン「だから本になる」
***
オッサン「よし」
マスター「嫌な予感がする」
オッサン「この想定読者に、俺たちがアドバイスしてやろう」
おねーさん「頼まれてないにゃ」
オッサン「五十二歳。会社員。仕事はそこそこ順調。家庭にも大きな問題はない。金にも今すぐ困ってない」
おねーさん「誰にゃ、それ」
オッサン「イマジナリー・カスタマー。でも、『このままでいいのか』と思ってる」
おねーさん「どうするにゃ?」
オッサン「質問してみて」
マスター「何を大事にしてる?」
オッサン「家族と、仕事と、健康と、自由です」
マスター「どれが一番だ」
オッサン「場合によります」
マスター「……」
オッサン「ほら」
おねーさん「本人に評価関数を説明させても駄目にゃ」
マスター「そうだな」
オッサン「それができないから迷ってるんだから」
***
マスター「じゃあ聞き方を変える」
オッサン「どうする?」
マスター「給料そのままで週休三日になった。増えた一日を何に使う」
オッサン「俺なら本読む」
マスター「お前に聞いてない」
オッサン「写真も撮る」
マスター「黙ってろ」
おねーさん「でも、そういう質問なら答えられるにゃ」
マスター「『自由をどれくらい重視しますか』とは聞かない」
オッサン「具体的に選ばせる」
マスター「そうだ」
おねーさん「給料が二割増える代わりに休日が減るならどうする、とかにゃ」
オッサン「今の仕事から一つだけ残せるなら?」
マスター「何を残す」
おねーさん「逆に、一つだけなくせるなら何をなくすかにゃ」
オッサン「十年前より増えて嬉しかったものは?」
マスター「減ってよかったものは?」
オッサン「条件を変えて何回か聞く」
おねーさん「答え方に傾向が出るにゃ」
オッサン「本人に評価関数を説明させなくても、選択から推定できる」
マスター「完全には分からんがな」
***
オッサン「で、分かったら?」
マスター「本人に返す」
オッサン「『あなた、思ってるより自由時間を大切にしてますよ』」
おねーさん「『仕事そのものより、自分で決められることを大切にしてるみたいですにゃ』とか」
オッサン「本人が使ってたのに、本人には見えてなかった評価関数を見せる」
マスター「それから考えればいい」
オッサン「なんだ。できるじゃん」
マスター「一人ずつ話を聞けばな」
オッサン「面倒だな」
マスター「人間だからな」
***
オッサン「でも、ちょっと分かった」
マスター「何が」
オッサン「俺たち、この本がいらないから、最初は『誰が読むんだ』って思った」
おねーさん「そうにゃ」
オッサン「でも、俺たちは普段からこういう話ばっかりしてる」
マスター「お前が始めるからだ」
オッサン「自分が何を基準にしてるか、勝手に掘る」
おねーさん「掘りすぎるくらい掘るにゃ」
オッサン「だから、本にまとめてもらわなくても困らない」
マスター「少なくとも今はな」
オッサン「でも、普通はこんなこと毎晩やらない」
マスター「やらん」
おねーさん「バーで評価関数の話をする方が普通じゃないにゃ」
オッサン「じゃあ、この本を必要とする人が普通で、俺たちが変なのか」
マスター「普通かどうか気にし始めた時点で、もう手遅れだ」
オッサン「じゃあ、どうすればいい?」
おねーさん「『私は普通である』と先に決めるにゃ」
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