第十三話 駄女神の啓示

小さなバー。名前は《N+2》。

オッサンは、読んでいた本を閉じ、カウンターに置いた。

オッサン「なあ、アクシズ教って知ってる?」

マスター「知らん」

おねーさん「知らないにゃ」

オッサン「アクアっていう駄女神様を崇拝している宗教なんだけどさ、その教義が感動的なんだよ」

マスター「ダメなんだか、女神様なんだか、よく分からんが」

オッサン「その点の妥当性について語ろうと思えばいくらでもできるが、今は置いておこう」

おねーさん「で、どんな教義にゃ」

    •  アクシズ教徒はやればできる。できる子たちなのだから、うまく行かなくてもそれはあなたのせいじゃない。上手くいかないのは世間が悪い。
    •  自分を抑えて真面目に生きても頑張らないまま生きても明日は何が起こるか分からない。なら、分からない明日の事よりも確かな今を楽に行きなさい。
    •  汝、何かの事で悩むなら、今を楽しく生きなさい。楽な方へ流されなさい。水のように流されなさい。自分を抑えず、本能のおもむくままに進みなさい。
    •  嫌な事からは逃げればいい。逃げるのは負けじゃない。逃げるが勝ちという言葉があるのだから。
    •  迷った末に出した答えはどちらを選んでも後悔するもの。どうせ後悔するのなら、今が楽ちんな方を選びなさい。
    •  悪人に人権があるのならニートにだって人権はある。汝、ニートである事を恥じるなかれ。働かなくても生きていけるならそれに越した事はないのだから。
    •  汝、我慢をする事なかれ。飲みたい気分の時に飲み、食べたい気分の時に食べるがよい。明日もそれが食べられるとは限らないのだから。
    •  汝、老後を恐れるなかれ。未来のあなたが笑っているか、それは神ですら分からない。なら、今だけでも笑いなさい。
    •  エリスの胸はパッド入り。

おねーさん「最後のは、何にゃ」

オッサン「その点の妥当性について語ろうと思えばいくらでもできるが、今は置いておこう。それで、この教義、どう思う」

マスター「ダメ人間製造機だな」

おねーさん「これを全部そのまま実行したら、かなりダメダメにゃ」

オッサン「俺もそう思う」

マスター「珍しく全員一致したな」

オッサン「でもな」

マスター「始まった」

オッサン「本当にそんな人間、社会で生きていけるか?」

おねーさん「そのままなら、安定した社会生活は難しそうにゃ」

オッサン「だろ。そこを前提に考えるんだよ」

マスター「何を」

オッサン「アクシズ教の信者は、この教義を聞きながら、それでも社会生活を成立させてる」

おねーさん「つまり、教義だけを切り出して評価するのがおかしいということかにゃ」

オッサン「そう」

***

オッサン「じゃあ、条件を変えてみよう」

マスター「何の条件だ」

オッサン「この教義を聞いているのが、毎日ちゃんと働いて、家賃も税金も払って、仕事でもそれなりに責任を果たしてる奴だとする」

マスター「ずいぶんまともになったな」

オッサン「しかも、もっと頑張らなきゃいけない、失敗したら自分のせいだって思ってる」

おねーさん「頑張ってる人にゃ」

オッサン「そういう奴に、『お前はやればできる。うまくいかなかったことを、全部自分のせいにしなくていい。世の中の方が悪いことだってある』」

おねーさん「それなら慰めになるにゃ」

オッサン「『真面目に頑張っても、明日何が起きるかは分からない。未来のために今を全部我慢しなくてもいい』」

マスター「今を生きろ、になるな」

オッサン「『悩んで、考えて、それでも答えが出ないなら、楽な方へ行ってもいい。自分を抑え続けなくてもいい』」

おねーさん「自分を苦しめる方が正しいとは限らないにゃ」

オッサン「『嫌なことからは逃げてもいい。逃げるのは負けじゃない』」

マスター「逃げないように頑張って、追い詰められた奴に言うなら、意味が違うな」

オッサン「『どっちを選んでも後悔するなら、少しくらい自分が楽になれる方を選んでもいい』」

おねーさん「選ばなかった方の人生まで背負わなくていいにゃ」

オッサン「『働いていない時期があったって、それで人間としての価値がなくなるわけじゃない』」

マスター「仕事と人間の価値を同じにするな、か。蓄えや不労所得があるなら、リフレッシュ期間があったって良い」

オッサン「『ずっと我慢してきたんだから、飲みたいときくらい飲め。食いたいものくらい食え』」

マスター「毎日じゃなければな」

オッサン「『老後のために今を全部使い切るな。未来の自分が笑ってるかなんて、神様にだって分からない。だったら今のお前も少しくらい笑え』」

おねーさん「全部じゃなければにゃ。この通りすれば、それは、かなり優しいにゃ」

オッサン「『エリスの胸はパッド入り』」

おねーさん「それは誰も勇気づけてないにゃ」

オッサン「いや、勇気づけられる人、いや、駄女神様は確かにいるんだよ。まあ、その点の妥当性について語ろうと思えばいくらでもできるが、今は置いておこう」

マスター「置いとけ」

オッサン「で、ほら」

マスター「何が、ほら、だ」

オッサン「ほとんど同じことを言ってるのに、ダメ人間製造機じゃなくなった」

おねーさん「教義を変えたんじゃなくて、教義が作用する相手を変えたにゃ」

オッサン「そうなんだよ。いや、正確には相手を変えたんじゃない。最初からアクシズ教徒が社会生活を成立させているという条件を、俺たちが無視してた」

マスター「教義だけ読んで、信徒を見てなかったわけか」

オッサン「そう」

少し考えて、オッサンが言った。

オッサン「これ、自己啓発本と同じだよな。」

マスター「どこが」

オッサン「自己啓発本にもあるだろ。『他人と比較するな』とか、『嫌なことはやめろ』とか、『自分らしく生きろ』とか」

マスター「あるな」

オッサン「それだけ読んだら、アクシズ教と大して変わらない」

おねーさん「でも、それを文字どおり無制限に実行する人ばかりではないにゃ」

オッサン「そもそも自己啓発本を買う人って、本屋に行くかネットで注文して、金を払って、本を読んで、自分を何とかしようと思ってる人だろ」

マスター「少なくとも本を読む程度には能動的だな」

オッサン「そういう人に『頑張りすぎなくていい』と言うのと、本当に何もしない人に同じことを言うのは、意味が違う」

おねーさん「同じ文章でも、受け手の初期状態が違えば作用も違うにゃ」

オッサン「出版社は、そういう読者に本を売る」

マスター「まあな」

オッサン「教会は、そういう信徒に教義を説く」

マスター「出版社と特定の教会を同列にするな」

オッサン「構造の話だよ。出版社と読者。教会と信徒。教えだけ取り出して正しいか間違ってるかを見るんじゃなくて、誰に向けて言ってるかまで含めて見ないといけない」

おねーさん「社会生活がすでに成立している人に、『少しくらい逃げてもいい』『少しくらい我慢しなくてもいい』『未来ばかり心配しなくてもいい』と言っているなら、意味が変わってくるにゃ」

オッサン「そうなんだよ」

マスター「さっきまでダメダメって言ってた教義が、急にまともに見えてきたな」

オッサン「信徒の条件を入れただけなんだけどな」

***

オッサン「じゃあ、宗教の機能って自己啓発本と同じなのか?」

マスター「飛躍したな」

おねーさん「似ているところはあっても、同じではないと思うにゃ」

オッサン「そうだよな。でも、何が違う?」

おねーさん「自己啓発は、基本的には今の自分から何か別の状態へ移るためのものにゃ」

マスター「仕事ができるようになるとか、金を稼ぐとか、人間関係を改善するとかな」

オッサン「目的オリエントだな」

おねーさん「はいにゃ。目的があって、そのために考え方や行動を変えるにゃ」

オッサン「宗教だって、幸せになるとか、救われるとかあるだろ」

おねーさん「あるにゃ。でも、それだけじゃないにゃ」

マスター「何も困ってない日にも宗教はある」

オッサン「なるほど」

マスター「朝起きる。飯を食う。仕事をする。人と付き合う。死者を弔う。祝い事をする。何をしていいか、何をするべきじゃないか」

おねーさん「何かを達成するためだけじゃなくて、日常の判断そのものに入ってくるにゃ」

オッサン「規範か」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「だとすると、宗教の実力って、目的を達成させることじゃないのかもしれないな」

マスター「何だと思う」

オッサン「普通の日を、普通に生きるための規範を供給すること」

おねーさん「それなら、毎日使えるにゃ」

***

オッサン「でも、だったら教義は詳しい方がいいんじゃないか?」

マスター「何でだ」

オッサン「規範なんだろ。あらゆる場合について、何が正しくて何が間違ってるか書いてあった方が便利じゃないか」

おねーさん「便利すぎるにゃ」

オッサン「便利すぎる?」

おねーさん「何を食べるか、何を着るか、誰と付き合うか、何を考えるかまで全部決まっていたら、自分で判断するところがなくなるにゃ」

マスター「しかも現実は、教義に書かれた場合分けだけでは済まない」

オッサン「そうすると解釈が必要になる」

マスター「誰の解釈が正しいかでもめる」

おねーさん「正しい教義を厳密に守ろうとするほど、守らない人が気になってくることもあるにゃ」

オッサン「原理主義か」

マスター「規範が人間を助けるはずだったのに、人間が規範に合わせるために苦しみ始める」

オッサン「しかも、自分だけで済まなくなる」

おねーさん「他の人にも同じ規範を要求し始めれば、争いになるにゃ」

オッサン「じゃあ、教義って、ある程度適当な方がいいのか?」

マスター「言い方が雑だな」

オッサン「でも、そういうことだろ。何も決めないんじゃ規範にならない。でも、全部決めたら息苦しい」

おねーさん「方向は示す。でも、すべての行動を決めないくらいがいいのかもしれないにゃ」

***

オッサン「そういうことなら、日本人か」

マスター「急にでかくしたな」

オッサン「神道の教義って言える?」

マスター「言えんな」

オッサン「おねーさんは?」

おねーさん「体系的な教義を説明しろと言われたら困るにゃ」

オッサン「俺も言えない」

マスター「三人とも知らないだけじゃないのか」

おねーさん「ちょっと調べてみるにゃ」

おねーさんがスマホを取り出した。

おねーさん「……面白いにゃ」

オッサン「何が?」

おねーさん「文化庁の資料だと、神社神道は祭祀を中心とする民族宗教で、開祖や体系的な教義を持たない、と整理されてるにゃ」

オッサン「ないの?」

おねーさん「神社本庁には『敬神生活の綱領』という信仰の指針はあるにゃ。でも、アクシズ教みたいに、まず教義があって、それを信じるという形とは違うにゃ」

マスター「神社があって、祭りがあって、参る方が先か」

おねーさん「神社本庁も、神道を日本人の暮らしの中から生まれた信仰だと説明してるにゃ」

オッサン「なるほど。教義を知らないんじゃなくて、そもそも俺が探してたような教義がないのか」

マスター「知らなかったことに変わりはないけどな」

オッサン「でもさ」

マスター「何だ」

オッサン「『お天道さまに顔向けできないだろ』って言われたら、意味は分かるだろ」

マスター「分かる」

おねーさん「分かるにゃ」

オッサン「お天道さまが何者なのか、厳密に定義できる?」

マスター「できんな」

オッサン「何条に違反したら顔向けできなくなる?」

マスター「そもそも条番をつける教義がない」

オッサン「罰は?」

マスター「知らん」

オッサン「なのに機能する」

おねーさん「規則を全部言葉にしなくても、『それをして恥ずかしくないか』で判断できるにゃ」

オッサン「そうなんだよ。ものすごく粗い。でも、日常の規範としては使える」

マスター「細かい規則がなくても、方向は分かるわけか」

オッサン「だとすると、宗教の強さって、教義をどれだけ緻密に作ったかじゃないんだな」

おねーさん「人が生きるときに、その規範が働くかどうかにゃ」

***

オッサン「昔、坊さんが書いてたんだよ。どの宗教のどの宗派だったのかすら覚えてないんだけど、『困ったときの神頼み』って、実はものすごく純粋な信仰なんじゃないかって」

マスター「都合がいいだけにも見えるけどな」

オッサン「俺も最初そう思った。でも考えてみろよ。普段は神様なんか意識してない。教義も知らない。毎日祈ってるわけでもない」

おねーさん「それでも、本当に自分ではどうにもならなくなったときに、手を合わせるにゃ」

オッサン「そう。自分ではどうにもならないって認めた瞬間に、初めて自分以外の何かに頼る」

マスター「信仰を知識じゃなくて行為として見るわけか」

オッサン「教義をどれだけ知ってるかでもない。毎日どれだけ熱心に儀式をやってるかでもない。どうにもならないときに、それでも手を合わせる相手がいる」

おねーさん「それなら、『困ったときだけ』だから不純とは限らないにゃ」

オッサン「むしろ、余計なものが全部なくなってる」

マスター「願いだけ残る」

オッサン「うん」

***

オッサン「そう考えると、最初にアクシズ教をダメダメだって言ったのも、教義だけ読んで判定してたからなんだな」

おねーさん「教義の文章と、宗教として実際にどう働くかは、同じではないにゃ」

マスター「立派なことが書いてあれば、立派な宗教になるわけでもない」

オッサン「逆に、ろくでもないことが書いてあっても、それだけで宗教として駄目とも限らない」

マスター「アクシズ教を擁護するところまで来たか」

おねーさん「それで、この宗教ってどこで興ったのかにゃ?」

オッサン「このすば」

マスター「このすば?」

オッサン「『この素晴らしい世界に祝福を』。元々はラノベなんだけどさ、アニメにもなってて、シリーズ3作、映画にも…」

マスター「おい」

おねーさん「おいにゃ」

オッサン「…でさ、俺としてはダクネスが好みなんだけど…」

マスター「もういい」

オッサン「俺としては、さっきのおねーさんの質問に対して、語ろうと思えばいくらでも…」

おねーさん「もういいにゃ」

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