第七話 宵の明星
小さなバー。名前は《N+2》。
店を開けて間もない時間。窓の外には、まだ夕方の明るさが残っている。
オッサン「今日、宵の明星がえらく明るかったぞ」
マスター「金星だ」
オッサン「それくらい知ってる」
おねーさん「今の返しだと知らない人みたいだったにゃ」
オッサン「いや、そうじゃなくてさ。宵の明星って、見えてない時間にも空にはあるんだよな」
マスター「当然だ」
オッサン「あるけど、見えない」
おねーさん「隠されてるにゃ」
マスター「いや、何かに隠されたわけじゃない。見えないだけだ」
オッサン「でも、『見えない』と『隠されてる』って、言葉としては近いよな。そこで急に思い出した。オカルトって、もともとそういう意味じゃなかったっけ?」
おねーさん「ラテン語の occultusに遡るにゃ。隠された、見えない、秘密の、といった意味にゃ」
オッサン「やっぱり」
マスター「何がやっぱりなんだ」
オッサン「天文学にもあるだろ。オカルテーション」
マスター「掩蔽だな。手前の天体が後ろの天体を隠す」
オッサン「天文学者、普通にオカルトやってんじゃん」
マスター「Occultation だ。勝手に縮めるな」
おねーさん「でも語源的な親戚ではあるにゃ」
マスターがグラスを置いた。
オッサン「変だよな。もともとは見えないとか隠れてるってだけなのに、今じゃ幽霊とかUFOとか超能力とかだ」
おねーさん「隠された知識、秘密の知識という意味が強くなって、秘教的なものとも結びついたにゃ。それが今の意味につながっているにゃ」
オッサン「俺、オカルトもの結構好きだぞ」
マスター「知ってる」
オッサン「UFOとかUMAとか心霊写真とか」
マスター「信じてるのか」
オッサン「いや」
おねーさん「即答にゃ」
オッサン「だって、本当にいたら面白いじゃん」
マスター「それなら調べればいい」
オッサン「そうなんだよ。幽霊なんか、本当に出るなら最高の研究対象だろ」
おねーさん「出現条件が分かれば観察できるにゃ」
マスター「温度、湿度、電磁場、音、映像。測れるものは測る」
オッサン「お前、心霊スポットに測定器一式持って行きそうだな」
マスター「現象があると言うならな」
オッサン「夢がねえなあ」
マスター「測定できた方が面白いだろ」
オッサンは少し考えた。
オッサン「じゃあさ。幽霊って、本当にオカルトなのか?」
マスター「定義による」
オッサン「またそれか」
おねーさん「たとえば『毎晩二時になると、この部屋に白い人影が出る』なら、調べられるにゃ」
オッサン「二時にカメラ置けばいいもんな」
マスター「出なければ出なかった。それだけだ」
オッサン「でも、『今日は霊力が弱かった』って言われたら?」
マスター「話が変わる」
おねーさん「さらに『疑っている人がいると霊は現れない』と言われたら、もっと変わるにゃ」
オッサン「ああ。どっちに転んでも幽霊説が生き残るのか」
マスター「そうなる」
オッサン「それ、無敵じゃん」
おねーさん「無敵な説明は、強い説明とは限らないにゃ」
オッサン「逆か。負けないから怪しいのか」
マスター「負ける条件がない」
オッサン「要するに、『こうなったら俺の説は間違いです』って条件がないわけだ」
おねーさん「そういうことにゃ」
マスター「二時に出ると言ったなら二時に来い」
オッサン「幽霊に時間厳守を要求するなよ」
***
オッサン「でも、そういう説明って幽霊以外にもあるよな」
おねーさん「あるにゃ」
オッサン「本人が『違う』って言ったら、『そう否定すること自体に意味がある』って返すやつ」
マスター「あるな」
オッサン「認めても当たり。否定しても当たり」
おねーさん「本人が自覚していない心の働きを考える理論では、本人が否定したからといって、すぐ理論が間違いだとは言えないにゃ」
オッサン「本人にも分からないものを扱ってるんだからな」
おねーさん「そうにゃ。そこまではおかしくない。でも、否定したことまで全部『理論が正しい証拠』として回収し始めると、外から崩せなくなるにゃ」
オッサン「夢を見ても材料、言い間違えても材料、忘れても材料、否定しても材料」
マスター「説明する側が強すぎる」
オッサン「幽霊より怖えな」
おねーさん「ただし、解釈の道具として面白いことと、経験科学としてどう検証するかは別の話にゃ」
オッサン「そこは分けるのね」
おねーさん「分けないと雑にゃ」
***
オッサン「じゃあ、もっと科学っぽい話なら大丈夫か?」
マスター「何が大丈夫なんだ」
オッサン「世界中の言葉って、全然違うじゃん」
おねーさん「違うにゃ」
オッサン「でも、人間の言語には生まれつき共通する仕組みがある、って考え方があるだろ」
おねーさん「あるにゃ」
オッサン「ところが、いろんな言語を調べていくと、最初に考えていた共通規則ではうまく説明できないものも出てくる」
マスター「なら仮説を直せ」
オッサン「でもさ。『表面では違って見えるけど、もっと深いところでは共通してる』って言ったら?」
マスター「その深いところをどう調べる」
オッサン「さらに例外が出たら?」
おねーさん「何を共通と呼ぶかを、もっと抽象的なものへ変更することもできるにゃ」
オッサン「それをずっと続けたら?」
マスター「何が残る」
オッサン「絶対に負けない理論」
少し間が空いた。
おねーさん「そうなる危険はあるにゃ。でも、それだけで即オカルトとは言えないにゃ」
オッサン「さっきの幽霊と同じじゃないの?」
おねーさん「似ている。でも同じとは限らないにゃ」
オッサン「そこ、説明して」
おねーさん「科学では、一つの仮説だけを裸で試しているわけじゃないにゃ。観測方法もある。測定器もある。データの解釈もある。別の前提もあるにゃ」
マスター「実験結果が理論と合わなかったとする」
オッサン「うん」
マスター「理論が間違ってるのか、測定器が壊れてるのか、条件設定が悪いのか、計算を間違えたのか。すぐには分からん」
オッサン「ああ」
マスター「だから一回外れたからといって、中心の理論を即座に捨てるとは限らん」
オッサン「なるほど。学問って、思ったより簡単に負けてくれないんだな」
マスター「簡単に負けても困る」
オッサン「じゃあ、科学かどうかは『間違ってると証明できるか』で決めればいい、って話があったよな」
おねーさん「ポパーの反証可能性にゃ」
オッサン「そう、それ。それで一発じゃないの?」
おねーさん「それで全部片づくなら、その後の科学哲学はずいぶん暇だったはずにゃ」
オッサン「駄目なの?」
おねーさん「駄目というより、現実の科学はもう少し面倒にゃ。何かが予測と違ったとき、理論のどこが間違ったのかを一発では決められないにゃ」
マスター「だから一本の線を引こうとするな」
オッサン「じゃあ科学とオカルトの境界って、ないのか?」
おねーさん「それも言いすぎにゃ」
オッサン「どっちなんだよ」
おねーさん「境界線一本で切るより、間違ったときにどう振る舞うかを見る方がいいかもしれないにゃ」
オッサン「間違ったとき?」
おねーさん「予測と観測が合わなかった。原因を調べる。必要なら方法を直す。仮説を直す。それでも駄目なら、理論そのものを捨てるにゃ」
マスター「仮説を立てる。試す。結果を見る。直す」
オッサン「……それってPDCAじゃん」
少し沈黙した。
マスター「まあ、そうだ」
おねーさん「ポパーが急に業務改善になったにゃ」
オッサン「俺、会社で科学哲学やらされてたの?」
マスター「お前のPDCAが回ってたならな」
オッサン「そこは回ってたことにしろよ」
マスター「事実を曲げるな」
オッサン「じゃあオカルトって、PDCAを回さないのか?」
マスター「それも違う」
オッサン「まだ違うの?」
マスター「Pは立てる。Dもやる。問題はCだ」
オッサン「チェック?」
マスター「都合の悪い結果を無視する」
おねーさん「あるいは、どんな結果が出ても最初のPが正しかったことにしてしまうにゃ」
オッサン「……それ、会社でもあるぞ」
マスター「あるな」
おねーさん「急に身近になったにゃ」
オッサン「オカルト、会議室にもいるのか」
マスター「珍しくない」
***
オッサン「でも、そう考えると科学ってPDCAそのものじゃないか?」
マスター「違う。もっと一般化しろ」
オッサン「何に?」
マスター「フィードバック制御だ」
オッサン「ああ。結果を戻して、次を変えるのか」
マスター「そうだ」
おねーさん「仮説を作って、観測して、評価して、また仮説や方法を変える。そういう循環を持つ知識生産システム、と見ることはできるにゃ」
オッサン「じゃあ科学って、マネジメントシステムなのか?」
マスター「そういう側面はある」
オッサン「ISOみたいに?」
マスター「そこまで言うと雑だ」
オッサン「でも品質保証は必要だろ」
マスター「当然だ」
オッサン「医薬とか農薬の安全性試験には、もっとガチガチの仕組みがあるぞ」
マスター「GLPか」
オッサン「そう」
おねーさん「試験のやり方や記録まで管理して、後から『この結果がどう作られたか』を追えるようにする仕組みにゃ」
オッサン「誰がやった。いつやった。何を使った。元データは何だった。途中で何を変えた」
マスター「手順書、機器管理、原資料、逸脱記録、保存。品質保証も入る」
オッサン「そうそう。結果だけじゃなくて、結果を作った工程を残す」
おねーさん「論文の結論がもっともらしいかを見ることと、その結論が作られた工程を保証することは、同じではないにゃ」
オッサン「じゃあ普通の科学にも全部GLP入れればいいじゃん」
マスター「研究が止まる」
オッサン「即答だな」
マスター「何が出るかも分からん探索研究まで全部同じ管理にしたら、金も時間も足りん」
おねーさん「自由に試すことと、工程を厳密に管理することには緊張関係があるにゃ」
オッサン「でも自由にしすぎると、捏造だってできる」
マスター「できる」
おねーさん「普通の学術研究にも査読、研究倫理、データ管理、追試はあるにゃ。でも、すべての研究がGLPのような工程管理を受けているわけではないにゃ」
オッサン「論文だけ見てても、元データを作るところで嘘つかれたら分からんもんな」
マスター「追試されれば分かるかもしれん」
オッサン「されなかったら?」
マスター「残る」
オッサン「フィードバック遅すぎね?」
マスター「しかもセンサーが疎だ」
オッサン「科学、制御系として結構ひどくない?」
***
おねーさん「でも、そこで終わらないところが重要なんじゃないかにゃ」
オッサン「どういうこと?」
おねーさん「科学は、間違わない仕組みではないにゃ。間違いが見つかったときに、直せる仕組みを持っているにゃ」
オッサン「真理に向かって直す?」
マスター「真理との誤差をどう測る」
オッサン「……測れないな」
おねーさん「そこが面白いにゃ。真理そのものを目標値にして制御しているわけではないにゃ」
オッサン「じゃあ、何を見て直すんだ?」
マスター「予測が外れた。再現しない。観測と矛盾した。他の結果と合わない」
おねーさん「真理そのものを見ることはできなくても、『何かがおかしい』という信号は拾えるにゃ」
オッサン「ああ」
しばらく三人とも黙った。
オッサン「科学って、正しいことを保証するシステムじゃないんだな」
マスター「そんな保証は誰にもできん」
おねーさん「間違いを見つけて、直せる可能性を残しておくシステム、と考えた方が近いにゃ」
***
オッサン「……でもさ。俺たちも結構危なくない?」
マスター「何がだ」
オッサン「こうやって、全然違う話の中に似た構造を見つけてさ。『これも同じじゃん』って、よくやるだろ」
おねーさん「やるにゃ」
オッサン「何を見ても同じ構造に見えるようになったら?」
マスター「その時点で駄目だ」
オッサン「やっぱり?」
おねーさん「似ているところを見つけるのと、違うところを無視するのは別にゃ」
オッサン「さっきの幽霊と科学みたいに?」
おねーさん「そうにゃ。似たところはあった。でも同じではなかったにゃ」
オッサン「じゃあ、違うと分かったら?」
マスター「捨てる」
オッサン「せっかく見つけた構造でも?」
マスター「違うならな」
おねーさん「自分たちだけ間違いの外に置いたら、さっきまで笑っていたものと同じになるにゃ」
オッサン「危ねえなあ」
マスター「お前が一番な」
オッサン「なんで俺だけなんだよ」
しばらくして、オッサンがグラスを空けた。
オッサン「そういや、宵の明星から始まったんだったな」
おねーさん「ずいぶん遠くまで来たにゃ」
マスター「オカルトから科学哲学、PDCA、GLPまでな」
オッサン「でも構造は似てたぞ」
マスター「今それを言うな」
オッサンは席を立った。
オッサン「じゃあな」
マスター「おう」
おねーさん「またにゃ」
店を出ると、金星はもう見えなかった。
オッサン「……雲に隠されたか」
もちろん、金星が消えたわけではない。
見えなくなっただけだ。
コメント
コメントを投稿
ご感想をどうぞ。コメントは承認後に公開されます。読者同士の議論ではなく、作品へのコメントとしてお寄せください。