第八話 恋愛小説

小さなバー。名前は《N+2》。

オッサンが、飲みかけのグラスを前に何か考え込んでいる。妙に得意そうな顔をしている。

オッサン「俺、恋愛小説の構造を発見したぞ」

マスター「また大きく出たな」

おねーさん「文学研究者に謝る準備をしておくにゃ」

オッサン「聞けって。驚くほど単純なんだ」

マスター「言ってみろ」

オッサン「まず、訳ありの男か女がいる」

おねーさん「訳あり?」

オッサン「昔の恋愛で傷ついてる。家族に問題がある。秘密を抱えてる。自分に自信がない。何でもいい」

マスター「それで?」

オッサン「そこに、社会的には割と成功してる相手が現れる。金がある。地位がある。仕事ができる。何かしら強い」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「二人は出会う。最初から惹かれることもあるし、反目することもある」

マスター「普通だな」

オッサン「ところが、すぐにはくっつかない。外に障害がある。仕事、家族、身分、昔の恋人、子供、距離、過去の事件」

おねーさん「外的要因にゃ」

オッサン「そう。でも、気になる」

マスター「恋愛小説だからな」

オッサン「会わない方がいいのに会う。嫌いなはずなのに気になる。離れようとしても相手のことを考える」

おねーさん「読者にはもう分かってるにゃ」

オッサン「そこも面白いんだよ。当人より読者の方が先に分かってる」

マスター「で?」

オッサン「関係が進みかけたところで、障害が本格的に効いて破綻しかける。一番よくあるのが誤解だ」

マスター「本人に聞けば済むやつか」

オッサン「そう。昔の恋人といるところを見る。会話を途中まで聞く。相手のためについた嘘がばれる。三分話せば済むことを百ページ悩む」

おねーさん「効率が悪いにゃ」

オッサン「効率が良かったら小説にならん」

マスター「最後は?」

オッサン「二人で障害を乗り越えて、結ばれる」

マスター「……それがお前の大発見か」

オッサン「そうだ」

マスター「昔からある」

おねーさん「ものすごく昔からあるにゃ」

オッサン「俺も途中でそう思った」

マスター「終わったな」

オッサン「ところが、ここからなんだよ」

マスター「まだあるのか」

オッサン「なんで最後に結ばれなきゃならない?」

マスター「恋愛小説だからだろ」

オッサン「それじゃ説明になってない。好きだと分かったところで別れて、それぞれ家に帰ってもいいだろ」

おねーさん「それでは読者が納得しないにゃ」

オッサン「そうなんだよ。大抵は婚約する、結婚する、一緒に暮らす。少なくとも『これからこの二人でいる』というところまで行く」

マスター「関係を固定するわけだ」

オッサン「そこで考えた。なんで恋愛と婚姻がこんなに相性がいいんだ?」

おねーさん「恋愛と婚姻は同じものじゃないにゃ」

オッサン「そこだよ。そもそも婚姻って何だ?」

マスター「ずいぶん戻ったな」

オッサン「恋愛するための制度じゃないだろ」

おねーさん「歴史的には、財産、相続、親族関係、子供、扶養、労働、家同士の関係。いろんな機能を束ねてきた制度にゃ」

オッサン「つまり婚姻って、一個のものじゃないんだよ。機能の束なんだ」

マスター「パッケージだな」

オッサン「共同生活する。性交する。子供を作る。育てる。所得を融通する。病気になったら面倒を見る。歳を取ったら支える。財産を引き継ぐ」

マスター「リスク・プールでもある」

オッサン「そう。婚姻には社会保障制度の側面があるんだ」

おねーさん「国家の社会保障が弱ければ、病気、失業、出産、育児、老後なんかのリスクを家族や親族が引き受ける部分は大きくなるにゃ」

オッサン「今なら国家、自治体、保険、市場が分担してるものを、昔は婚姻や家族が大量に抱えてた」

マスター「それで?」

オッサン「俺たちは、そのパッケージを一個の自然なものだと思いすぎてないか?」

おねーさん「分解する気にゃ?」

オッサン「そう」

マスター「また始まった」

***

オッサン「まず、婚姻しなくても一緒に暮らせる」

マスター「当然だ」

オッサン「性交もできる。子供だってできる。育てることもできる」

おねーさん「いわゆる野合でも、それらは成立するにゃ」

オッサン「つまり、共同生活も性愛も生殖も、婚姻制度そのものじゃない」

マスター「逆方向の例もある」

オッサン「スパルタか」

マスター「そうだ。古代スパルタについて伝えられている婚姻慣行では、婚姻、常時の共同生活、性的排他性、生殖が、今の夫婦みたいに全部一つには束ねられていない」

おねーさん「夫の同意のもとで、別の男性が生殖に関与し得たという記述もあるにゃ」

オッサン「ほら。婚姻、同居、性愛、生殖、血縁。分解できるじゃん」

マスター「何が、ほら、だ」

オッサン「じゃあ必要条件を調べよう」

おねーさん「何のにゃ?」

オッサン「婚姻の」

マスター「嫌な予感がするな」

オッサン「男女であることは?」

おねーさん「同性婚があるにゃ」

オッサン「必要条件じゃない。二人の間で子供を作れることは?」

マスター「不妊の夫婦だって婚姻だ」

おねーさん「養子を迎えて親になることもできるにゃ」

オッサン「つまり生殖と親になることも別だ。一対一であることは?」

おねーさん「複数婚を認める社会もあるにゃ」

オッサン「それも普遍的な必要条件じゃない」

マスター「お前、婚姻を解体して何がしたいんだ」

オッサン「最後まで残るものを見たい」

おねーさん「残差にゃ?」

オッサン「そう」

オッサン「今度は機能を引いてみる」

マスター「まだ引くのか」

オッサン「経済的扶養を引く。二人とも自分で食える」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「病気になったときの保障を引く。医療保険や公的保障がある。老後も年金と貯蓄がある。失業時の保障もある」

マスター「完全な代替ではないが、思考実験としてはいい」

オッサン「家事もかなり外に出せる。外食、惣菜、家電、家事代行」

おねーさん「育児も家族だけで担うものではないにゃ。保育、学校、医療、行政支援があるにゃ」

オッサン「財産と相続も別の制度で処理できる。性愛だって婚姻の中にしかないものじゃない」

マスター「そうやって社会保障機能を外部化すると、婚姻しなければ生きられない理由は減っていくな」

オッサン「そこが重要なんだよ」

おねーさん「なぜにゃ?」

オッサン「必要がなくなるからだ」

マスター「必要?」

オッサン「生活のために結婚する必要がない。老後のためでもない。子供を持つための唯一の手段でもない。世間体のためでもない」

おねーさん「結婚しなくても生きていけるにゃ」

オッサン「そう。選択肢が増える」

マスター「制度による拘束が弱くなるわけだ」

オッサン「そこで初めて、別のものがよく見えるんじゃないかと思った」

おねーさん「何がにゃ?」

オッサン「選好だよ」

マスター「ほう」

オッサン「結婚しなきゃ生きていけないからこの人といる、じゃない。他の相手でもいいからこの人といる、でもない。一人でも生きられる。他の相手も選べる。それでも、この人を選ぶ」

おねーさん「選択の自由が大きくなるほど、選好そのものが見えやすくなるにゃ」

オッサン「そうなんだよ」

***

マスター「それで恋愛小説に戻るのか」

オッサン「戻る」

マスター「長い寄り道だったな」

オッサン「恋愛小説で一番重要な情報って何だと思う?」

マスター「相手の素性か」

オッサン「違う」

おねーさん「相手が自分を好きかどうか、にゃ?」

オッサン「それだ」

マスター「選好か」

オッサン「俺は相手が好きだ。それは俺には分かる。でも、相手が俺を好きかどうかは直接分からない」

マスター「聞けば良い」

オッサン「だから、それができたら百ページいらないんだよ」

おねーさん「しかも選好を表明すること自体にリスクがあるにゃ」

オッサン「そう。好きだと言って、相手が自分を好きじゃなかったら振られる。それまでの関係まで壊れるかもしれない」

マスター「だから表明しない」

オッサン「相手も同じことを考えていたら?」

おねーさん「両想いなのに、両方とも黙ってるにゃ」

マスター「効率が悪いな」

オッサン「だから恋愛小説になるんだって」

おねーさん「つまり、選好は存在する。でも、その表明は観測できないにゃ」

オッサン「しかも、表明されたものが本当の選好と一致してる保証もない」

マスター「どういうことだ」

オッサン「好きなのに『嫌い』と言う。嫉妬してるのに平気な顔をする。相手のために身を引く。逆に、利害のために好意があるふりをすることだってできる」

おねーさん「選好と表明が一致するとは限らないにゃ」

オッサン「だから相手の選好を、行動から推定するしかない」

マスター「会いに来た。助けてくれた。嫉妬した」

オッサン「でも、それが愛情なのか、義務なのか、同情なのか、利害なのかは分からない」

マスター「潜在変数を観測値から推定してるわけだ」

オッサン「恋愛を統計モデルにするな」

マスター「婚姻の残差を取り始めたのはお前だ」

おねーさん「でも、それなら誤解が恋愛小説で多用される理由も分かるにゃ」

オッサン「ああ。誤解って、単に事実を間違えることじゃないんだ」

マスター「相手の選好を誤って推定することか」

オッサン「そう。『あの人は俺を選ばない』と思わせれば、それだけで関係を壊せる」

おねーさん「本当は二人とも相手を選んでいるのに、互いにそう思っていない状態まで作れるにゃ」

オッサン「だから恋愛小説では、本人に聞けば済む誤解が強烈に効くんだ」

マスター「選好と表明が非対称だからか」

オッサン「そう」

おねーさん「そして最後に?」

オッサン「表明する」

マスター「告白か」

オッサン「そうだ。告白で新しく恋愛感情が発生するわけじゃない。前からあった私的な選好が、初めて相手から観測可能になる」

おねーさん「『私はあなたを選んでいる』という情報を公開するにゃ」

オッサン「そして相手も同じ情報を公開する」

マスター「そこで二つの私的な選好が、相互選択になる」

オッサン「そうなんだよ!」

おねーさん「最初の大発見より、ずいぶん面白くなったにゃ」

オッサン「だろ?」

マスター「だが、お前が最初に言ってた障害はどうなる」

オッサン「そこも繋がる。障害は、単に二人を邪魔するためにあるんじゃない」

おねーさん「どういうことにゃ?」

オッサン「条件を一個ずつ悪くしていくんだよ」

マスター「条件?」

オッサン「金がなくなった。それでも選ぶか。家族に反対された。それでも選ぶか。過去を知った。それでも選ぶか。相手について思っていたことが間違っていた。それでも選ぶか」

おねーさん「引き算にゃ」

オッサン「そう。恋愛小説って、引き算を物語にしてるんだ」

マスター「婚姻を分解したときと同じことを、物語がやっているわけか」

オッサン「そうなんだよ。『この条件だから好き』という条件を、一つずつ壊していく」

おねーさん「それでも最後に選好が残るかを見るにゃ」

オッサン「だから最後の告白に意味がある。条件が悪くなった。誤解もした。相手について知らなかったことも知った。他の選択肢だってある。その上で、『それでもあなたを選ぶ』と表明する」

マスター「そして相手も選ぶ」

オッサン「相互選択だ」

***

オッサン「で、ここで俺は思った」

マスター「まだ思ったのか」

オッサン「これが恋愛の本質なんじゃないか」

おねーさん「待つにゃ」

オッサン「早いな」

おねーさん「残差を本質と呼んじゃ駄目にゃ」

マスター「当然だ」

オッサン「分かってるよ。欠落変数だろ」

マスター「ほう。学習したな」

オッサン「孤独が嫌だから一緒にいる。習慣になってる。別れるのが面倒。自分を肯定してくれる。共有した記憶がある。損失回避もある」

おねーさん「愛着もあるにゃ」

オッサン「性的選好も、生物学的な配偶行動もある。そういう説明変数を全部入れていけばいい」

マスター「恋愛を重回帰する気か」

オッサン「それで全部説明できたら、それはそれで面白い」

おねーさん「恋愛という独立した実体はなかった、という可能性にゃ」

オッサン「そう。いろんな欲求、選好、制度、生物学的傾向を束ねた構成概念に、俺たちが『恋愛』って名前を付けてるだけかもしれない」

マスター「逆に、説明変数を増やしても系統的に残るものがあれば?」

オッサン「恋愛と呼びたくなる」

おねーさん「本質とは?」

オッサン「言わない」

おねーさん「偉いにゃ」

オッサン「恋愛と呼んでいるものの、最小構成候補」

マスター「ずいぶん弱くなったな」

オッサン「精密になったと言え」

おねーさん「じゃあ、その候補は何にゃ?」

オッサン「制度的な必要がない」

マスター「うん」

オッサン「物質的な便益だけでは説明できない」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「他の選択肢もある」

マスター「うん」

オッサン「相手について、都合の悪い情報も含めて知っている」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「それでも、その人を選好する」

マスター「そして?」

オッサン「相手も自由に俺を選好する」

おねーさん「でも、それだけでは互いに分からないにゃ」

オッサン「だから表明する」

マスター「相互に」

オッサン「そう。自由に選べる二人が、互いの選好を表明して、相互選択になる」

おねーさん「かなり削ったにゃ」

オッサン「これ以上削ると何が残る?」

マスター「『なぜその人なのか』だな」

オッサン「そうなんだよ」

おねーさん「それは説明できるかもしれないにゃ。外見、性格、記憶、愛着、相性、経験」

オッサン「全部説明できるかもしれない」

マスター「できないかもしれない」

オッサン「そこが残差だ」

おねーさん「本質とは言わないにゃ」

オッサン「言わないって」

オッサン「でもさ」

マスター「何だ」

オッサン「何かのためにその人を選ぶのと、その人だから選ぶのは、やっぱり違う気がするんだよ」

おねーさん「その『だから』を説明するのが科学にゃ」

マスター「説明できる範囲まではな」

オッサン「哲学は?」

おねーさん「そもそも『その人だから』って何なのかを疑うにゃ」

オッサン「文学は?」

おねーさん「説明しきらずに物語にするにゃ」

オッサン「ああ」

***

マスター「それで最初の恋愛小説に戻るのか」

オッサン「戻れる」

おねーさん「どう戻るにゃ?」

オッサン「恋愛小説の最後って、二人の問題が全部解決したところじゃないんだな」

マスター「当然だ。人生は続く」

オッサン「病気もする。金にも困る。親も歳を取る。子供ができるかもしれない。仕事だって変わる」

おねーさん「新しい障害はいくらでも来るにゃ」

オッサン「じゃあ、なんでそこでハッピーエンドにできる?」

マスター「二人で問題を抱えることを選んだからだろ」

オッサン「そうか」

おねーさん「最初は一人で抱えていた『訳』が、二人の問題になるにゃ」

オッサン「問題がなくなったんじゃない」

マスター「問題を共同管理する相手を決めた」

オッサン「お前が言うと恋愛がシステム工学になるな」

マスター「最初に機能分解したのはお前だ」

オッサン「でも、それなら結婚式で終われる理由も分かる」

おねーさん「幸福が確定したからじゃないにゃ」

オッサン「未来の問題を、こいつと一緒に引き受けるって決めたからだ」

マスター「そういうことだ」

オッサン「俺、恋愛小説の構造を発見しただけのつもりだったんだけどな」

おねーさん「婚姻制度を解体して、社会保障を引いて、選好と表明の非対称性を見つけて、最後に恋愛を重回帰したにゃ」

マスター「酒飲みながら何やってんだ、お前」

オッサン「役に立たなくても、考えたいから考えてるんだよ」

マスター「それに何の機能がある?」

オッサン「ない」

おねーさん「じゃあ、それも全部引いたあとに残った残差にゃ?」

オッサン「……そうかもしれんな」

マスター「本質か?」

オッサン「本質とは言わない」

おねーさん「学習したにゃ」

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