第四話-1 盲点克服

小さなバー。名前は《N+2》。

オッサンが、何の脈絡もなく言った。

オッサン「この前、予備校の前を通ったんだよ」

マスター「勉強し直すのか」

オッサン「違う。たまたま。で、ポスターがいっぱい貼ってあった」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「『盲点克服』みたいな言葉が書いてあってさ」

マスター「よくあるな」

オッサン「盲点って、克服できるの?」

マスター「何の話だ」

オッサン「だって、見えないんだぞ」

おねーさん「受験勉強の話じゃなくなったにゃ」

オッサン「盲点って、本当に見えないんだよ」

マスター「当たり前だ」

オッサン「でも、初めて実験したとき感動しなかった?」

マスター「何をした」

オッサン「紙に点を二つ書く。片目を閉じて、一方の点を見る。紙を近づけたり離したりすると、もう一つの点が消える」

おねーさん「視神経が眼球から出ていくところには、光を感じる細胞がないにゃ」

オッサン「そう。だから見えない」

マスター「知ってる」

オッサン「知識として知ってるのと、本当に消えるのを見るのは違うんだよ。あれは感動する」

おねーさん「消えたものは見てないにゃ」

オッサンが止まった。

オッサン「……そうか」

マスター「始まったな」

***

オッサン「見えないものを見て感動したんじゃないんだな」

おねーさん「見えていたものが消えたことを認識したにゃ」

オッサン「でも、盲点の中に何があるかは見えてない」

マスター「盲点だからな」

オッサン「目を動かせば見えるじゃん」

マスター「その場所はな」

オッサン「でも、目を動かした後にも盲点はある」

マスター「ある」

オッサン「じゃあ、盲点そのものはなくならない」

おねーさん「見えなかった対象が見えるようになることと、見えない領域そのものがなくなることは別にゃ」

オッサン「だったら、盲点なんていう言葉を使わず、素直に『分からないことが分かるようになる』にすれば良いじゃん。学生の頃にいただろ。定期テストの前に頭抱えてて、『何が分からないんだ?』と聞くと『何が分からないかが分からない』って言う奴」

マスター「それじゃ長いから、『盲点』にしたんだろ」

オッサン「でも、意味が違うよ」

おねーさん「それ、ちゃんと考えると面倒なやつにゃ」

マスターが小さくため息をついた。

哲学科博士課程中退のネコが「面倒なやつ」と言った。

今夜は長い。

***

おねーさん「まず、『分からないことが分かる』なら、まだ簡単にゃ」

オッサン「知らないことは分かってる」

おねーさん「そう。答えは知らない。でも問いは存在している。いわゆる known unknown にゃ。何を知らないかは分かっている状態にゃ」

オッサン「で、『分からないことが分からない』は unknown unknown」

おねーさん「何を知らないのか、それ自体を知らない」

オッサン「じゃあさ」

おねーさん「嫌な予感がするにゃ」

オッサン「分からないことが分からないことは、どうやったら分かるんだ?」

おねーさんはしばらく黙った。

おねーさん「直接は無理にゃ」

オッサン「なんで?」

おねーさん「『これを知らなかった』と認識した瞬間、それは known unknown に変わるからにゃ。unknown unknown は、対象として指し示した瞬間に unknown unknown ではなくなる」

オッサン「じゃあ、分からないものが存在すること自体、分からない?」

おねーさんが考え込んだ。

その横から声がした。

マスター「残差」

二人がマスターを見た。

おねーさん「にゃ?」

マスターは拭いていたグラスを棚に戻した。

マスター「予測と実際の観測との差だ。未知そのものを見なくても、モデルと観測が合わなきゃ何かあるだろ」

オッサン「モデルって、この場合は?」

マスター「現実をそのまま扱えないから、必要な要素を抜き出して単純化したものだ。そいつを使って、系がどう動くか予測する」

オッサン「で、現実と比べる」

マスター「そう。出力を予測する。実際に測る。予測と観測値がずれる。その差が、既知の誤差だけでは説明できない」

オッサン「モデルに入ってない何かがある」

マスター「可能性がある、だな」

オッサン「海王星」

マスターが頷いた。

マスター「分かりやすい例だな。天王星の軌道が計算と合わない。そこで未知の天体を仮定する。未知そのものを最初から観測したわけじゃない」

オッサン「未知によって生じた残差を見た」

マスター「そう」

オッサンの顔が明るくなった。

オッサン「おー!」

おねーさん「にゃるほど」

マスター「なんで哲学科が感心してんだ」

おねーさん「哲学科は海王星を発見しないにゃ」

***

オッサンはまだ考えていた。

オッサン「でもさ」

マスターが嫌そうな顔をした。

オッサン「モデルと観測系が、同じ盲点を持ってたら?」

マスターの手が止まった。

オッサン「つまり、モデルに入ってないものを、観測装置も拾えない」

マスター「その場合は残差すら出ない」

オッサン「だよね」

マスター「モデルは観測値をきれいに説明する。実際には世界の一部を丸ごと見落としていてもな」

今度は、おねーさんが身を乗り出した。

おねーさん「おかえりにゃ」

マスター「何が?」

おねーさん「哲学の領域にゃ」

マスター「俺は工学の話をしてる」

おねーさん「その『観測可能なものだけでモデルの妥当性を検証する』という話を突き詰めると、認識論になるにゃ」

マスター「何だ、それ」

おねーさん「人間は何を、どうやって知ることができるのかを考える哲学の分野にゃ」

マスター「知らん」

おねーさん「哲学科は何百年もそこで困ってるにゃ」

マスター「工学屋は困ってても作るんだよ」

オッサンが笑った。

オッサン「その違い、面白いな」

***

オッサン「でも、眼球の盲点なら、あるって分かってるよな」

マスター「調べたからな」

オッサン「別の見方をすれば、そこに何があるかも分かる」

おねーさん「はいにゃ」

オッサン「モデルの盲点も、残差が出れば気付けるかもしれない」

マスター「可能性はある」

オッサン「でも、モデルと観測系が同じ盲点を持ってたら、残差すら出ない」

マスター「そうだ」

オッサン「見えてないことにも気付かない」

おねーさん「そうにゃ」

少し間があった。

オッサン「やっぱり、盲点って克服できないじゃん」

マスター「まだ予備校に文句言ってるのか」

オッサン「だって、見えなかったものが見えるようになっても、見えない領域そのものがなくなるわけじゃないんだろ」

おねーさん「最初に言ったにゃ」

オッサン「おねーさんがそう言った」

マスター「予備校が言ってる盲点は、知らないこととか、理解できてないところとか、そういう意味だろ」

オッサン「だったら、そう書けばいいじゃん」

マスター「何て」

オッサン「『自分が理解できていないことを自分では認識できていない状態から、理解できていないことを認識できる状態へ移行し、そのうち学習によって理解可能なものについて理解できる状態を目指します。ただし、現時点で認識できていないことがすべて認識可能になることを保証するものではありません』」

沈黙した。

おねーさん「哲学的営為によって導き出された表現として、その妥当性を必ずしも否定するものではないにゃ」

オッサン「つまり?」

マスター「だから『盲点克服』という表現に落ち着いたってことだ」

サイト内検索

コメント