第四話-2 未知と遭遇したとき
小さなバー。名前は《N+2》。
オッサンが、何の脈絡もなく言った。
オッサン「この前、地中海料理屋に行ったんだよ」
マスター「そうか」
オッサン「名前がForno Majeure」
おねーさん「Majeureはマヨルカ島、Fornoはオーブンとか竈とかそういう意味かにゃ」
オッサン「店の名前の意味はそう。でも、それ以来、Force majeureが頭にこびりついて離れない」
マスター「店に迷惑だな」
おねーさん「Force majeure……強い力?」
オッサン「フランス語としては、まあそんな感じ」
おねーさん「何かの用語にゃ?」
オッサン「契約でいう不可抗力。災害とか戦争とか、自分ではどうにもできない事情で契約を果たせなくなったときに出てくるやつ」
マスター「契約にはよく入れるボイラープレートだな」
おねーさん「ボイラープレート?」
マスター「由来は昔の新聞で、同じ記事を使い回す金属の印刷版をそう呼ぶようになった。形がボイラー用の鉄板に似ていたかららしい」
オッサン「で、使い回す文章そのものがボイラープレートと呼ばれるようになった」
おねーさん「それが、契約書の定型条項にまで使われるようになったんだにゃ」
マスター「そういうことだ」
オッサン「でさ、何ならForce majeureとして認められるんだ?」
マスター「何の話だ」
オッサン「例えば何か起きたとして、『これは予測できませんでした。だから不可抗力です』って言うじゃん」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「それ、どうやって証明するの?」
おねーさん「分からなかったことを?」
オッサン「そう。『俺には分かりませんでした』じゃない。『その時点では分かりようがありませんでした』って、どうやって証明するんだ?」
マスターが手を止めた。
マスター「『俺には分かりませんでした』じゃないぞ。『その時点では合理的に予見できませんでした』だ」
オッサン「で、それをどうやって証明するんだ?」
おねーさん「分からなかったことの証明にゃ」
オッサン「そう」
マスター「面倒な店に行ったな」
オッサン「店は何も悪くない」
***
マスター「工学なら、まず何が起こり得るかを考える」
オッサン「故障モード?」
マスター「そう。止まる。漏れる。誤作動する。そういう壊れ方を先に考える」
おねーさん「想定できれば対策できるにゃ」
マスター「確率が分からなくても、起こる事象を記述できれば検討対象にはできる」
オッサン「じゃあ、記述できなかったものは?」
マスター「事前には評価できない」
オッサン「それが本当に予見不能だったのか、それとも単に考えなかっただけなのか」
マスター「そこは別問題だ」
オッサン「そこが知りたいんだよ」
おねーさん「知らなかったことと、知ることができなかったことは違うにゃ」
オッサン「そう!」
マスター「大声出すな」
オッサン「知らなかった。調べなかった。見落とした。予測に失敗した。原理的に予測できなかった。全部違う」
おねーさん「でも、事故が起きた後なら、全部『起きたこと』として見えているにゃ」
オッサン「そこなんだよ」
マスター「後知恵か」
オッサン「起きた後には、『なんで分からなかったんだ』って言える」
おねーさん「起きる前に何が分かり得たかを、起きた後から評価することになるにゃ」
オッサン「不可抗力の判定って、ものすごく難しくない?」
マスター「だから契約でも何でも条件を決めるんだろ」
オッサン「急に現実に戻すなよ」
***
オッサン「じゃあ、予見できなかったものそのものには備えられない?」
マスター「何に備えるんだ」
オッサンが止まった。
おねーさん「綺麗に返ってきたにゃ」
オッサン「じゃあ、無理?」
マスター「その事象そのものへの対策はな」
オッサン「そのもの?」
マスター「何が起きるか分からなくても、異常が起きた後の動きなら設計できる」
オッサン「例えば?」
マスター「異常検知。停止条件。フェイルセーフ。縮退運転。調査手順。モデル更新。権限移譲」
オッサン「待て。一般人を置いていくな」
マスター「……異常を見つける。危なくなったら止める。壊れても危険側に行かないようにする。全部動かせなければ機能を落として動かす。原因を調べる。モデルを直す。現場で判断できなければ上に渡す」
おねーさん「最初からそう言えばいいにゃ」
マスター「長い」
オッサン「でも分かる」
マスター「未知そのものを管理するんじゃない。未知が系に何か変なものを出したとき、どう反応するかを決める」
オッサン「不可知から可知への遷移を管理する」
マスター「そういうことだ」
おねーさん「未知を支配するのではなく、未知との遭遇の仕方を設計するわけにゃ」
マスターがちらりとおねーさんを見た。
マスター「それなら、まあいい」
おねーさん「採点されたにゃ」
***
オッサン「でもさ」
マスター「まだあるのか」
オッサン「何を異常とするかは、先に決めないといけないよな」
マスター「ある程度はな」
オッサン「何を損失とするかも」
おねーさん「そこからは工学だけでは決まらないにゃ」
マスター「そうだな」
おねーさん「何を損失と呼ぶのか。誰にとっての損失なのか。どの未来を望ましいとするのか」
オッサン「価値判断が入る」
マスター「評価関数を誰が決めたんだ、って話だ」
オッサン「結局、不可抗力かどうか以前に、何を守ろうとしてたのかまで決めないといけない」
おねーさん「そして、何をどこまで予見すべきだったのかもにゃ」
オッサン「面倒だな」
マスター「お前が始めたんだろ」
***
オッサンがしばらく黙った。
オッサン「でも、そういう仕組みがあると、人間はそれを前提に行動するよな」
マスター「何の話だ」
オッサン「安全装置がある。監視してる。異常時の手順もある。専門家もいる」
おねーさん「だから安心して行動するにゃ」
オッサン「行動が変わる」
おねーさん「組織も変わるにゃ」
オッサン「すると、最初に想定していたリスクの形も変わる」
マスター「制御系なら、コントローラを入れたらプロセスの挙動が変わるのは当たり前だが」
オッサン「今度はプロセスとコントローラだ」
マスター「制御される対象がプロセス。そいつを望む状態に近づけるために働くのがコントローラだ」
おねーさん「ただ、人間社会ではプロセスの方がコントローラの存在を知って行動を変えるにゃ」
マスターが少し考えた。
マスター「……面倒だな」
おねーさん「だから社会科学があるにゃ」
マスター「俺は工学でいい」
***
オッサン「つまり、完成しないんだな」
マスター「何が」
オッサン「リスク・マネジメント」
マスター「完成させようとするな」
オッサン「え?」
マスター「変わったら直せ」
おねーさん「理工系が身も蓋もないにゃ」
マスター「未知がなくなるまで待ってたら、何も作れん」
オッサン「分からないものそのものは管理できない」
マスター「そうだ」
オッサン「でも、分からないものが出てきた時にどうするかは決められる」
マスター「そうだ」
おねーさん「そして、分かるようになったら、次からはもう同じ意味での未知ではないにゃ」
オッサン「モデルを直す」
マスター「そういうことだ」
少し間があった。
オッサン「でもさ。できることが増えたら、どこまでやればいいの?」
マスター「できる範囲だろ」
オッサン「その『できる範囲』って、ずっと広がってるよな」
マスター「……また何か始める気か」
オッサン「今日はやめとく」
おねーさん「珍しいにゃ」
マスター「不可抗力か?」
オッサン「俺の意思だよ」
マスター「なら不可抗力じゃないな」
少し間があった。
おねーさん「でも、始めないって予測できたかにゃ?」
マスター「できなかった」
オッサン「おい」
おねーさん「じゃあ、Force majeureにゃ」
オッサン「俺は天災かよ」
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