第一話 オッサンの弁明
小さなバー《N+2》。
オッサンは、そこの常連だった。
***
オッサン「今日は、ちゃんと哲学をやろうと思う」
マスター「普段は何をやってるんだ」
おねーさん「本人は哲学のつもりだったらしいにゃ」
オッサン「今日は俺の弁明をする」
マスター「何の」
オッサン「その前に、これ」
マスター「何だこれ」
オッサン「『ソクラテスの弁明・反対尋問用あんちょこ』」
おねーさん「裁判ごっこにゃ?」
オッサン「再現実験だ」
マスター「なんで俺に渡すんだ」
オッサン「マスター、メレトスやって」
マスター「誰だ、それ」
おねーさん「ソクラテスを追求する人にゃ。被告が検察側に資料を配ってるにゃ」
オッサン「ちゃんと追及してもらわないと困るだろ」
マスター「なんで俺が告発する側なんだ」
オッサン「俺がソクラテスだから」
マスター「そこから間違ってる気がするぞ」
おねーさん「私は何をするにゃ?」
オッサン「裁判官」
おねーさん「私しかいないにゃ?」
オッサン「三人しかいないんだから仕方ないだろ」
おねーさん「アテナイの民主政がずいぶん小さくなったにゃ」
***
オッサン「ではメレトス君。君は私が青年を堕落させていると言う」
マスター「言ってない」
オッサン「役をやれよ」
マスター「お前は青年を堕落させている」
オッサン「誰が青年を善くするのかね」
マスター「知らん」
オッサン「原典ではそこ答えるんだよ」
マスター「面倒な被告だな」
おねーさん「裁判官として答弁を命じるにゃ」
マスター「じゃあ、法律とか、裁判官とか、市民とか」
オッサン「つまり私以外の人々は青年を善くし、私一人が堕落させるのか」
マスター「そういう設定なんだろ」
オッサン「では馬ならどうだ。馬を善くできるのは、大多数の人間か。それとも馬を扱う技術を持った少数の人間か」
マスター「少数だろうな」
オッサン「ところが人間については、大多数が善くして、一人だけが悪くするというのか」
マスター「なるほどな」
おねーさん「一応、効いてるにゃ」
オッサン「一応って何だ」
おねーさん「続けるにゃ」
オッサン「では私は、意図して青年を堕落させているのか。それとも意図せずにか」
マスター「意図して」
オッサン「私は、自分の周囲の人間を悪くすれば、その人間から自分も害を受ける可能性があることを知らないほど愚かなのか」
マスター「そこまでは言ってない」
オッサン「ならば、私は自分に害が返ってくると知りながら、わざと周囲の人間を悪くしていることになる」
マスター「そうなるな」
オッサン「そんなことを意図的にする人間がいるだろうか」
マスター「いるだろ」
オッサン「え」
マスター「いるだろ」
おねーさん「止まったにゃ」
***
オッサン「いや、待て」
マスター「待ってる」
オッサン「結局、自分に害が返ってくるんだぞ」
マスター「それでもやる奴はいる」
オッサン「なんで」
マスター「目先の利益を取るとか。腹が立ったとか。害が返ってくる確率を低く見積もるとか。自分だけは大丈夫だと思うとか」
おねーさん「将来の害より現在の利益を大きく評価することもあるにゃ」
オッサン「……あるな」
マスター「あるだろ」
オッサン「でも、それは本当に悪いと分かってるのか?」
マスター「今度はそっちか」
オッサン「本人が本当に、自分にとって悪い結果になると完全に理解していたら、それでも選ぶか?」
おねーさん「『完全に理解する』を入れたにゃ」
オッサン「重要だろ」
おねーさん「重要だけど、最初の問いと変わってきてるにゃ」
マスター「酒を飲みすぎるときは、きまって明日つらいと完全に理解していても飲むもんだぞ」
オッサン「お前はな」
マスター「一般論だ」
おねーさん「今ちょっと怪しかったにゃ」
***
オッサン「じゃあ、知っているのに、その知識に反して行動することはある」
マスター「普通にあるだろ」
オッサン「だとすると、知識と意志は別なのか」
おねーさん「そう簡単でもないにゃ」
オッサン「なんで」
おねーさん「『明日つらくなる』ことを知っていても、『今もう一杯飲みたい』も同時にあるにゃ」
マスター「あるな」
おねーさん「未来の不利益と現在の欲求を比べて、現在を選んだなら、知識に反したというより、別の評価を優先したとも言えるにゃ」
オッサン「じゃあ本人は、悪を選んだんじゃない?」
おねーさん「何を悪と呼ぶかによるにゃ」
マスター「明日の二日酔いは悪だが、今の一杯は善かもしれない」
オッサン「急に酒飲みの哲学になったな」
マスター「お前が始めたんだ」
オッサン「でも、そうすると変だぞ。人間が何かを選んだら、その瞬間には必ず何らかの意味で、それを選ぶ方が良いと思っていたことにできる」
おねーさん「そうなるにゃ」
オッサン「じゃあ、人間は悪いと知りながら悪を選べないことになる」
マスター「いや、さっき選べるって言っただろ」
オッサン「だから困ってるんだよ」
***
おねーさん「二つの話が混ざってるにゃ」
オッサン「二つ?」
おねーさん「結果についての判断と、行為を選ぶときの判断にゃ」
マスター「明日苦しむと分かっている。でも今は飲む」
おねーさん「結果を悪いと判断することと、それでもその行為を選ぶことは両立するにゃ」
オッサン「じゃあ、知識は行為を決定しない」
マスター「少なくとも、それだけでは決まらないな」
オッサン「何が決める?」
マスター「知らん」
オッサン「欲望?」
おねーさん「それだけとも限らないにゃ」
オッサン「習慣?」
おねーさん「それもあるにゃ」
オッサン「感情?」
マスター「あるだろうな」
オッサン「価値判断?」
おねーさん「それもにゃ」
オッサン「じゃあ、その全部をまとめて最後に『これをする』と決めてるものは何なんだ」
マスター「お前じゃないのか」
オッサン「その『俺』って何だよ」
マスター「面倒なところに来たな」
***
オッサン「俺が決めた、って普通に言うだろ」
マスター「言うな」
オッサン「でも俺の欲望は、俺が自由に作ったものなのか?」
おねーさん「全部ではないにゃ」
オッサン「習慣は?」
マスター「過去の積み重ねだな」
オッサン「価値観は?」
おねーさん「教育や経験や周囲の影響も受けているにゃ」
オッサン「身体の状態は?」
マスター「腹が減ってりゃ判断も変わる」
オッサン「じゃあ、俺が自由に決めたと言っているその『俺』自体が、俺の決めてないものでできてるじゃん」
おねーさん「かなりの部分はそうにゃ」
オッサン「自由意志、なくない?」
マスター「今度は飛びすぎだ」
オッサン「どこが」
マスター「原因ある制限があることと、自由じゃないことを同じにした」
オッサン「あ」
おねーさん「そこを分けないといけないにゃ」
***
オッサン「じゃあ自由って何だ」
マスター「知らん」
オッサン「今日はお前、そればっかりだな」
マスター「知らないものは知らない」
おねーさん「最初は、『悪いと知っていて悪を選べるか』だったにゃ」
オッサン「うん」
おねーさん「それを考えていたら、知識だけでは行為は決まらないという話になったにゃ」
オッサン「うん」
おねーさん「じゃあ何が決めるのかを考えたら、『自分が決める』になったにゃ」
オッサン「うん」
おねーさん「それで今、その『自分』は何なのかを考えてるにゃ」
オッサン「……ずいぶん遠くまで来たな」
マスター「ソクラテスはどこ行った」
オッサン「入口に置いてきた」
おねーさん「でも、最初の論証はまだ残ってるにゃ」
オッサン「どれ?」
おねーさん「自分に害が返ってくると知りながら、人は意図的に悪いことをするのか、にゃ」
マスター「することはある」
オッサン「でも、そのとき本人は何を選んでるんだろうな」
マスター「それを考え始めたから、ここまで来たんだろ」
オッサン「で、自由意志はあるの?」
おねーさん「最初に聞いてないにゃ」
オッサン「そうだっけ」
マスター「質問まで途中で変わったぞ」
オッサン「哲学って、答えを探してたら質問が変わるのか」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「それ、いつ終わるの?」
マスター「ソクラテスに聞け」
オッサン「死んでるよ」
マスター「じゃあ今日はここまでだ」
(『ソクラテスの弁明』24d–26a)
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