まえがき
カウンターの上に、一枚の紙が置かれている。
マスター「何だ、これ」
オッサン「指示書らしい」
おねーさん「誰からにゃ?」
オッサン「『自分では何も書かないオッサン』」
マスター「お前じゃないのか」
オッサン「俺じゃない」
おねーさん「ややこしいにゃ」
マスター「何て書いてある」
オッサン「読むぞ」
オッサン「『三人が弁証法の装置として有効であることを論証せよ』」
マスター「嫌だ」
オッサン「まだ続きがある。『テーマは、目玉焼きにかけるのは何が良いか』」
マスター「帰れ」
おねーさん「誰がにゃ?」
マスター「これを書いた奴だ」
オッサン「俺たちの外にいるぞ」
***
オッサン「じゃあ始めるか。目玉焼きには醤油だ」
マスター「塩だろ」
おねーさん「始まったにゃ」
オッサン「なんで塩なんだよ」
マスター「卵の味を邪魔しない」
オッサン「醤油だって卵に合うだろ」
マスター「合うかどうかじゃない。醤油をかけたら醤油の味が加わる」
オッサン「それの何が悪い」
マスター「目玉焼きを食ってるんだろ」
オッサン「目玉焼きは料理だぞ。味付けして何が悪い」
おねーさん「二人とも、違うものを評価してるにゃ」
オッサン「何が?」
おねーさん「マスターは、卵そのものの味をどれだけ残すかを見てるにゃ。オッサンは、料理としてどれだけ美味しくなるかを見てるにゃ」
マスター「まあ、そうだな」
オッサン「じゃあ評価関数が違うのか」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「じゃあ、どっちも正しい?」
おねーさん「まだ早いにゃ」
***
マスター「そもそも醤油と塩だけなのか」
オッサン「ソース?」
マスター「胡椒でもいい」
おねーさん「ケチャップをかける人もいるにゃ」
オッサン「急に世界が広がったな」
マスター「それに、何と一緒に食うかでも変わるだろ」
オッサン「どういうこと?」
マスター「白飯なら醤油が合うかもしれない。パンなら塩と胡椒でもいい」
おねーさん「同じ目玉焼きでも、食事全体の中での役割が違うにゃ」
オッサン「じゃあ『目玉焼きに何をかけるべきか』って問い自体が雑なのか」
マスター「最初から雑だ」
オッサン「お前、最初は塩って断言したじゃん」
マスター「条件を追加したから変わった」
おねーさん「反例が入って、最初の命題がそのままでは維持できなくなったにゃ」
オッサン「お」
マスター「何だ」
オッサン「なんか弁証法っぽくなってきたぞ」
***
オッサン「じゃあ統合しよう。目玉焼きに何をかけるべきかは、卵だけじゃなく、食事全体との関係で決まる」
おねーさん「一段上がったにゃ」
マスター「でも決まらないぞ」
オッサン「なんでだよ。今まとめただろ」
マスター「同じ白飯でも、俺は塩がいいかもしれない」
オッサン「また壊すの?」
マスター「好みがある」
オッサン「それ言ったら終わりじゃん」
おねーさん「終わらないにゃ」
オッサン「なんで」
おねーさん「好みがあるなら、今度は『良い』とは何かが問題になるにゃ」
マスター「本人が好きなら良いのか」
オッサン「料理として美味しい方が良いのか」
おねーさん「栄養や健康を入れることもできるにゃ」
マスター「値段もあるな」
オッサン「目玉焼き一個に何を背負わせてるんだよ」
***
オッサン「待てよ。最初の問いは『目玉焼きにかけるのは何が良いか』だった」
マスター「そうだな」
オッサン「俺は醤油と言った」
マスター「俺は塩」
おねーさん「そこから、『良い』を決める基準が違うことが分かったにゃ」
オッサン「さらに、目玉焼き単体じゃなくて、食事全体との関係が入った」
マスター「その上で、個人の好みまで入った」
オッサン「つまり、最初の対立を解消するたびに、新しい対立が出てきてる」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「正、反、合?」
マスター「そんなにきれいか?」
おねーさん「必ず三段階になるわけではないにゃ。でも、一つの命題に対して反対や矛盾が出て、その対立を含められるように考え方を組み替える。その新しい考え方にも、また問題が出るにゃ」
オッサン「じゃあ、結論に向かって一直線に進んでるわけじゃないんだ」
マスター「問いの方も変わってるな」
オッサン「最初は調味料を聞いてたのに」
おねーさん「今は『良いとは何か』を話してるにゃ」
オッサン「目玉焼きから?」
マスター「目玉焼きから」
***
オッサン「で、俺たち三人がいることに意味はあるの?」
マスター「一人でも考えられるだろ」
おねーさん「できるにゃ」
オッサン「じゃあ三人いらないじゃん」
おねーさん「でも三人いると、役割を分けられるにゃ」
マスター「お前がとりあえず何か言う」
オッサン「言い方」
マスター「俺が穴を見つける」
おねーさん「私が、何が対立しているのか整理するにゃ」
オッサン「それで俺がまた変なことを思いつく」
マスター「自覚はあるんだな」
おねーさん「でも役割は固定じゃないにゃ。マスターが命題を出すこともあるし、オッサンが反例を出すこともあるにゃ」
オッサン「三人の人格が弁証法なんじゃなくて」
マスター「三人の間を動く議論が、そういう構造になりやすい」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「じゃあ、指示に答えられた?」
マスター「何だっけ」
オッサン「『三人が弁証法の装置として有効であることを論証せよ』」
おねーさん「一応、実証したにゃ」
オッサン「よし」
マスター「で、目玉焼きには何をかけるんだ」
オッサン「醤油」
マスター「塩だ」
おねーさん「何も解決してないにゃ。新たな問いが生ませただけにゃ」」
オッサン「まあいいや。これで三人が使えることは分かっただろ」
マスター「少なくとも、今の対象にはな」
オッサン「結局、この三人って使えるの?」
マスター「対象による」
おねーさん「自分たちを入れると危ないにゃ」
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