第十六話 雪の中でも春なのか

小さなバー。名前は《N+2》。

オッサンが、スマホでマスターとおねーさんに写真を見せている。

オッサン「この前、北海道に戻ったときの写真。白鳥の群れが湖上を飛んでいるシーンを撮れた」

おねーさん「植物以外も撮るにゃか?」

マスター「こいつ、花の前は鳥だったぞ。望遠レンズをぶん回してた」

オッサン「過去形じゃないぞ。鳥撃ちもお花摘みもしている」

おねーさん「言い方が怪しげにゃ」

オッサン「でさ、そのシーンがまるでシベリウスの交響曲第5番みたいだったな、と」

おねーさん「良い曲みたいだにゃ。でも、シベリウスなら《フィンランディア》と2番くらいしか知らないにゃ」

オッサン「まあ、今度、聴いてみると良いよ。ところで、その2番なんだけどさ」

マスター「また、話が飛びそうだな」

オッサン「いや、2番ってさ、俺にはどう聴いても春なんだよ」

おねーさん「春にゃか。私はそこまで季節を意識して聴いたことなかったにゃ」

マスター「標題音楽じゃないんだろ」

オッサン「そう。だからシベリウスが春を描いたって話じゃない。俺にそう聞こえるってだけだ」

おねーさん「でも、明るいところばかりじゃないにゃ。途中、かなり暗くなるにゃ」

オッサン「そうなんだよ。風が強くなって、雪が吹きつけてくるみたいに聞こえるところもある。だから、冬の曲だっていうやつもいる」

マスター「春でも吹雪くだろ」

オッサン「そう。そこなんだよ」

***

オッサン「たぶんさ、雪がなくなって、暖かくなって、花が咲いたところから春だと思ってると、2番は春には聞こえないんだ」

おねーさん「それが普通の春のイメージじゃないにゃか?」

マスター「本州ならな」

オッサン「北海道だと、春分の頃なんて、まだ普通に雪景色だぞ。場所によっては見渡す限り真っ白だ。それでも春は春だ」

おねーさん「雪があるのに?」

マスター「最初に変わるのは光だ」

オッサン「そう。日が長くなる。陽射しが強くなる。景色はまだ雪に覆われてるのに、光がもう真冬とは違う」

マスター「日射が増える。雪面の状態も変わる。昼間は融けるようになる」

オッサン「屋根から雨だれが落ち始めるんだよ。昼に融けて、夜にはまた凍ったりする。道路はぐちゃぐちゃになる。窓を開ければまだ寒い。それでも、春なんだ」

おねーさん「光の春、というやつにゃ」

マスター「そうだ」

オッサン「で、そのまますんなり暖かくなるわけでもない。寒気が来る。雪も降る。吹雪くことだってある」

おねーさん「春なのに、また寒くなるにゃ」

マスター「三寒四温が極端なんだ」

オッサン「北海道じゃ五月に雪が降ることだってざらにあるからな」

マスター「短期的には気温が大きく戻る。雪も降る。だが日照時間は伸びてるし、太陽高度も上がってる。季節全体としては春が進んでる」

おねーさん「同じ日に、春と冬が混じっているようなものにゃ」

マスター「現象としてはな」

オッサン「だから2番を聴いてて吹雪みたいなところが出てきても、俺には全然おかしくないんだよ」

おねーさん「吹雪があるから冬、とはならないにゃ」

オッサン「そう。むしろ、そういうのも含めて北国の春なんだ」

***

おねーさん「でも、それなら、そもそも季節って何にゃ?」

オッサン「ほら来た」

マスター「お前が連れてきたんだろ」

おねーさん「雪がある。寒い。吹雪く。そういう状態だけを見れば冬に見えるにゃ」

オッサン「うん」

おねーさん「でも、光が増えている。気温が上がる方向にある。雪が融け始めている。そっちを見るなら春にゃ」

マスター「状態を見るか、変化を見るかだな」

おねーさん「ある瞬間の値だけを見るのか、どちらへ動いているかを見るのかにゃ」

オッサン「微分するのか」

マスター「一変数じゃない」

オッサン「分かってるよ。気温だけじゃない。日の長さも、日射も、積雪もある」

マスター「生物季節もある」

オッサン「そういうものが全部、同じ日に一斉に冬から春へ切り替わるわけじゃない」

おねーさん「境界線を一本引けるようなものじゃないにゃ」

オッサン「でも俺たちは、春が来たって分かる」

おねーさん「なら、北国では特に、春を静止した状態としてではなく、冬から春へ向かう遷移として認識しているのかもしれないにゃ」

マスター「雪が消えたから春なんじゃない。雪が残っていても春は春だ」

オッサン「そうなんだよ」

少し間が空いた。

おねーさん「……でも、それ、春の話だけじゃない気がするにゃ」

オッサン「何が?」

おねーさん「オッサン、シベリウスの2番のある場所を切り取って、ここが春っぽいから春の曲だって言ってるんじゃないにゃ」

オッサン「うん」

おねーさん「曲がどっちへ動いているかを聴いてるにゃ」

マスター「状態じゃなくて変化か」

オッサン「……ああ。そうか」

マスター「で、それはシベリウスだからなのか?」

オッサン「また面倒なこと言い出したな」

マスター「お前にだけは言われたくない」

***

オッサン「でも、シベリウスって、そういう作曲家ではあるんだよな」

おねーさん「どういう意味にゃ?」

オッサン「音楽が進みながら形になっていく感じが強い。小さい動機が出てきて、それが変形して、結びついて、いつの間にか大きな構造になってる」

マスター「主題を出して展開するのとは違うのか」

オッサン「もちろんそういう普通の作曲技法も使うよ。でも、区画ごとに出来上がったものを並べてる感じが薄いんだ」

おねーさん「有機的形式にゃ」

オッサン「そう。それがもっと極端になると7番だな」

おねーさん「7番は知らないにゃ」

オッサン「一楽章で交響曲をやっちゃう」

マスター「全部か」

オッサン「全部。普通なら別々の楽章に分かれそうな性格や速度の違う音楽が、ひと続きの中で変形しながらつながっていく」

マスター「境目を消した?」

オッサン「それだけじゃないと思う。変化そのものが形式になってる感じがする」

おねーさん「完成した区画を順番に通るんじゃなくて、音楽そのものが時間の中で形を変えていくにゃ」

オッサン「そうそう」

マスター「さっきの春と似てるな」

オッサン「だろ?」

おねーさん「でも、同じものだとは言わない方がいいにゃ。2番が北国の春に聞こえることと、シベリウスの形式上の特徴は別の話にゃ」

オッサン「分かってるよ」

おねーさん「似た構造が見える、までにしておくにゃ」

マスター「止めとかないと、こいつは何でも一つの理屈で説明し始める」

オッサン「そこまで雑じゃないぞ」

マスター「さっき微分しようとしてただろ」

オッサン「してない。たとえだ」

おねーさん「危なかったにゃ」

***

オッサン「で、7番なんか聴いてると、もう一つ妙なことを思うんだよ」

マスター「まだあるのか」

オッサン「シベリウスって、本当に保守的な作曲家なのか?」

おねーさん「同時代のシェーンベルクなんかと並べれば、そう見えやすいにゃ」

オッサン「そうなんだよ。20世紀初頭の前衛音楽って言われてシェーンベルクを出されたら、すごく分かりやすい」

マスター「調性を壊した奴だろ」

おねーさん「最終的には十二音技法へ進むにゃ」

オッサン「何の音をどういう関係で使うか、その組織原理そのものを変えた。耳で聴いても、従来の音楽とは違うと分かりやすい」

マスター「シベリウスは違う?」

オッサン「違う。でも、別に綺麗な協和音だけで書いてるわけじゃないぞ。不協和音だってかなり使う」

おねーさん「それでも調性感そのものは残っているにゃ」

オッサン「そう。調性の重力みたいなものは感じる。だからシェーンベルクほど、音の世界そのものを入れ替えたようには聞こえない」

マスター「でも、さっきの7番みたいなことをやってる」

オッサン「そうなんだよ」

マスター「なら、変えた場所が違うだけじゃないのか」

オッサン「たぶん、そこなんだ」

おねーさん「シェーンベルクが音高を組織する原理を大きく変えたとするなら、シベリウスは音楽が時間の中でどう生成され、どう全体になるかを変えた、と考えられるにゃ」

マスター「どっちが前衛なんだ」

オッサン「それを聞きたいんだよ」

***

おねーさん「そもそも、前衛を何で測るにゃ?」

オッサン「新しさ?」

おねーさん「何の新しさにゃ?」

オッサン「音の新しさ」

おねーさん「それならシェーンベルクの革新は分かりやすいにゃ。でも、形式を変えることは新しさに入らないにゃか?」

マスター「入るだろ」

おねーさん「時間の構成を変えることは?」

マスター「それも入る」

オッサン「じゃあ、耳に新しく聞こえることと、音楽の仕組みが新しいことは別だ」

おねーさん「そうなるにゃ」

オッサン「モーツァルトなんか典型だよな。ものすごく聴きやすい」

マスター「俺でも聴ける」

オッサン「その言い方だと普段何を聴いてるんだよ」

マスター「鳥」

おねーさん「音楽ですらないにゃ」

オッサン「でも、モーツァルトが聴きやすいからって単純なわけじゃない。表面は明瞭でも、中では恐ろしく精密なことをやってる」

おねーさん「聴取の容易さと構造の単純さは別にゃ」

オッサン「逆に、難しく聞こえるから革新的とも限らない」

マスター「難解さと革新性も別だな」

おねーさん「別の軸にゃ」

オッサン「それに、古いイコール保守でもない。ベートーヴェンなんか面白いぞ」

マスター「第九とかか」

オッサン「いや、弦楽四重奏。中期なんて、曲によってはまるでロックだぞ」

おねーさん「ロックにゃか」

オッサン「リズムで押してくるし、反復するし、音の塊をぶつけてくる。古典派っていう言葉から想像する、お行儀のいい音楽じゃない」

マスター「二百年前の曲だろ」

オッサン「そう。で、後期になると、今度は別の意味で変になる」

おねーさん「どう変わるにゃ?」

オッサン「ロックみたいに正面から殴ってくる変さじゃない。構成も時間感覚も、何をやってるのか簡単には掴めない。内側へどんどん入り込んでいく感じがする」

おねーさん「つまり中期と後期で、前衛的に聞こえる理由まで違うにゃ」

オッサン「そう。しかも俺たちは、その両方を『ベートーヴェンという昔の大作曲家の作品』として聴いてしまう」

マスター「古典だから普通だと思って聴くわけか」

オッサン「そうなんだよ。二百年後の耳だからな」

おねーさん「すると、前衛性は作品だけに固定された属性なのか、という問題も出てくるにゃ」

オッサン「作品と時代との関係か」

おねーさん「その時代に何が普通だったか。その普通から、どちらへ、どれだけ外れたか。そこまで見ないと分からないにゃ」

マスター「また状態と変化か」

三人とも黙った。

オッサン「……また戻ってきたな」

***

マスター「前衛って言葉が雑なんだ」

オッサン「身も蓋もないな」

マスター「音高を変えた。形式を変えた。時間構造を変えた。全部違う。それを一本の軸に並べて、こっちは前衛、こっちは保守って言うからおかしくなる」

おねーさん「たしかにそうにゃ」

オッサン「シェーンベルクとシベリウスを、一本の線の両端に置く必要はないわけだ」

おねーさん「違う場所を変えた、と考えればいいにゃ」

オッサン「シェーンベルクは、音を組織する原理を変えた」

おねーさん「シベリウスは、音楽が時間の中で形になる原理を変えた」

マスター「外形を壊す改造と、外形を残して内部構造を変える改造か」

オッサン「システム屋らしいな」

マスター「その方が分かりやすい」

おねーさん「でも、それなら前衛と伝統は反対語じゃないにゃ」

オッサン「ほう」

おねーさん「伝統を捨てる革新もある。でも、伝統を引き受けたまま、その内部原理を変える革新もあるにゃ」

マスター「交響曲は捨てない。調性感も捨てない。でも、中で音楽が動く仕組みを変える」

オッサン「伝統の内部から前衛になる、か」

おねーさん「そうにゃ」

***

オッサン「考えてみれば、最初の話と同じなんだな」

マスター「またまとめるのか」

オッサン「吹雪いている。だから冬だ」

おねーさん「その瞬間の状態だけを見ているにゃ」

オッサン「調性がある。だから保守だ」

マスター「それも同じだな」

おねーさん「何であるかだけじゃなくて、どこから来て、どちらへ動いているのかを見るにゃ」

オッサン「北国の春は、雪の中にある」

マスター「ある」

オッサン「前衛も、伝統の中にある」

おねーさん「あるにゃ」

オッサン「よし。綺麗にまとまった」

マスター「で、お前は?」

オッサン「俺?」

マスター「鳥を撮って、花を撮って、酒飲みながらシベリウスから季節論と前衛論まで飛んだ」

おねーさん「どちらへ動いているかを見るにゃ」

オッサン「……どこへ?」

マスター「知らん。状態だけ見れば酔っ払いだ」

おねーさん「遷移を見ても酔っ払いにゃ」

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