第十四話 このカメラが好き

小さなバー。名前は《N+2》。

オッサンがカウンターにカメラを置いた。

マスター「またそれか」

オッサン「またとは何だ」

マスター「V3」

オッサン「変態的名機だぞ」

マスター「十二年前のな。形容詞も含めて名機であることは認める」

オッサン「俺もオッサンだからな。機材もオッサンで頑張るんだよ」

マスター「意味が分からん」

おねーさん「今日は何を撮ってきたにゃ」

オッサンはカメラの背面を見せた。

おねーさん「やっぱり、今回のも小さいのかにゃ?」

オッサン「五ミリくらい」

マスター「最近ずっとそれだな」

オッサン「可愛いだろ」

おねーさん「可愛いにゃ」

オッサン「だろ」

おねーさん「でも、前から思ってたにゃ。なんで五ミリの花を十二年前のカメラで撮るにゃ?」

オッサン「それ、関係あるか?」

マスター「新しいカメラを買え、という話なら俺も賛成する」

オッサン「お前まで何だ」

マスター「性能が違う」

オッサン「そんなことは分かってる。画素数も違う。ダイナミックレンジも違う。AFも違う。高感度も違う」

おねーさん「じゃあ、なんで使ってるにゃ」

オッサン「使いやすいから」

マスター「曖昧だな」

オッサン「小さい。軽い。10–30mmの専用レンズが寄れる。リグに載せても大げさにならない。三灯付けて、傘付けて、銀面付けて――」

マスター「Field Studio」

オッサン「お、覚えたな」

マスター「名前だけ格好つけやがって」

オッサン「機能は認めてるだろ」

マスター「それは認める」

おねーさん「でも、それならもっと新しい小さいカメラでもいいんじゃないかにゃ」

オッサン「……そうなんだよ」

マスター「何が」

オッサン「俺もそう思ってたんだ。V3が壊れたら困るからな。代わりを考えてる。もっと新しい小型機にマクロ付けて、同じようなリグを組めばいい」

おねーさん「解決にゃ」

オッサン「ところが、考えてると何か違うんだよ」

マスター「性能が良くなるのが不満なのか」

オッサン「そんな変態じゃない」

マスター「十分変態だと思うが」

オッサン「古いものを使うこと自体が好きなわけじゃないんだよ。新しい方が便利なら新しい方がいい」

おねーさん「じゃあ、何が違うにゃ」

オッサンは少し考えた。

マスター「花を探すことじゃないのか」

オッサン「ん?」

マスター「お前、そのシステムを作ってから、見るものが変わっただろ」

オッサン「……変わったな」

おねーさん「前は?」

オッサン「普通に撮ってたよ。風景とか鳥とか。その中には花もあった。たまたま綺麗だったり、変わった形の花を見掛けた時に撮るだけだった」

マスター「今は地面を見てる」

オッサン「そうだな」

マスター「五ミリの花を探してる」

オッサン「うん」

おねーさん「つまり、カメラは撮り方だけじゃなくて、被写体の探し方まで変えたにゃ」

オッサン「……そうなるな」

おねーさん「Field Studioで余計なものを捨象する話は前にしたにゃ」

オッサン「ああ。背景を落として、必要なものだけ残す」

おねーさん「でも今見ると、変わったのは写真の中だけじゃないにゃ」

オッサン「どういうこと?」

マスター「撮る前だ」

オッサン「撮る前?」

マスター「昔なら通り過ぎてた」

オッサン「……ああ」

おねーさん「今は?」

オッサン「止まるな」

マスター「何を見る」

オッサン「花の形。向き。背景との距離。どこから光を入れられるか。傘を立てられるか」

おねーさん「前なら?」

オッサン「『小さい花が咲いてる』で終わってた」

マスター「今は終わらない」

オッサン「そうだな」

おねーさん「写真の中で何を残すかを決める前に、何を撮るかのところから変わってるにゃ」

オッサン「Field Studioを作ったら、通り過ぎてたものの前で止まるようになったのか」

マスター「そういうことだ」

***

おねーさん「でも、ここで前の『ちっぽけ』の話が変わってくるにゃ」

オッサン「どう変わる?」

おねーさん「前は、小さいもの全部が好きなわけじゃないから、『ちっぽけ』は単なる寸法じゃないって話だったにゃ」

オッサン「ああ。五ミリの虫には別に興味ない」

おねーさん「それはもう分かったにゃ。今回はその先に行けるにゃ」

オッサン「その先?」

おねーさん「オッサンは最初から『ちっぽけな花』というカテゴリーを持っていて、それに合うものを探したわけじゃないんじゃないかにゃ」

オッサン「……確かに」

マスター「撮ってるうちにできたカテゴリーか」

おねーさん「そうにゃ。対象を見つけて、撮って、選んで、また探す。その繰り返しの中で『ちっぽけ』という見方そのものができたにゃ」

オッサン「カテゴリーを先に作って、世界を分類したわけじゃない」

おねーさん「世界とのやり取りの中で、カテゴリーの方が育ったにゃ」

マスター「分類器の学習だな」

おねーさん「身も蓋もないにゃ」

マスター「教師データは自分で選んでる」

オッサン「待て。それ、まずくないか?」

おねーさん「何がにゃ」

オッサン「自分で好きな花を選んで、それを教師データにして、自分の好みを学習して、また似た花を探すんだろ」

マスター「そうなるな」

オッサン「どんどん偏るじゃないか」

マスター「当然だ」

オッサン「それって前に話した『世界はなんて美しいんだろう』問題と同じじゃないか」

おねーさん「やっと気づいたにゃ」

オッサン「俺が撮った写真を見返すと、世界は美しいと思う。でも、上手く撮れた写真しか残してない。好きなものしか撮ってない。そりゃ美しい世界になる」

マスター「選択バイアスだ」

オッサン「じゃあ俺は、小さい花をよく見られるようになったんじゃなくて、小さい花しか見えない人間になってる可能性もある?」

マスター「ある」

オッサン「即答するなよ」

おねーさん「でも大事なところにゃ。道具が世界を見せてくれる、という話だけなら綺麗すぎるにゃ」

オッサン「見せると同時に、見えなくする?」

おねーさん「そうにゃ」

マスター「測定器は全部そうだ」

オッサン「カメラも測定器扱いか」

マスター「光を測って記録する装置だろ。測れるものと測れないものがある」

おねーさん「人間の注意にも限界があるにゃ」

マスター「五ミリの花を見つけるようになった代わりに、別の何かを見落としてるかもしれない」

オッサン「嫌な話だな」

おねーさん「でも、それはV3の欠点じゃないにゃ」

マスター「新しいカメラでも同じだ」

オッサン「何かを見るって、何かを見なくなることでもあるのか」

マスター「全部は見られない」

おねーさん「しかも今回は、頭の中だけの話じゃないにゃ」

オッサン「カメラがある。レンズがある。傘がある。ライトがある」

マスター「しゃがんでる」

オッサン「そこはいい」

おねーさん「道具を持った身体で世界を見てるにゃ」

オッサン「……そうか」

***

オッサン「V3で撮ってるとき、V3を見てないな」

マスター「花を見てる」

オッサン「そうだ」

おねーさん「前にハイデガーの道具の話をしたにゃ」

オッサン「ああ。使ってる間は、道具そのものが前に出てこない」

マスター「壊れると出てくる」

オッサン「内部電池の話をするなよ」

マスター「まだしてない」

おねーさん「自分からしたにゃ」

オッサン「でもさ、それなら新しいカメラでも、使い込めばいずれ同じようになるだろ」

マスター「当然だ」

オッサン「じゃあ結局、V3である必然性はない」

おねーさん「たぶん、そこまで言って初めて正しいにゃ」

オッサン「え?」

おねーさん「V3そのものを神聖化したら、この話は終わるにゃ」

マスター「ただの懐古趣味になる」

オッサン「それは嫌だな」

おねーさん「V3でなければならない、ではないにゃ。でも、何に替えても同じ、でもないにゃ」

オッサン「その間か」

マスター「置換すると系が変わる」

オッサン「完全互換を探すんじゃなくて?」

マスター「完全互換なんてない。新しい機材を入れれば、重量も操作も画角もワーキングディスタンスも変わる。撮り方が変わる」

オッサン「それだけ?」

マスター「探すものも変わるかもしれない」

オッサン「……最初に戻ったな」

おねーさん「新しいものが見えるようになるかもしれないにゃ」

オッサン「代わりのカメラを買うって、今と同じことを続けるためだけじゃないのか」

マスター「同じにはならん」

オッサン「新しいカメラに替えたら、今まで見てなかったものの前で止まるようになるかもしれない」

おねーさん「そうにゃ」

オッサン「逆に、今まで止まってたものの前を通り過ぎるかもしれない」

マスター「あるだろうな」

オッサン「……それはちょっと怖いな」

おねーさん「でも、悪いこととは限らないにゃ」

オッサン「そうだな」

***

また少し静かになった。

オッサンは背面モニターの五ミリの花を見た。

オッサン「じゃあ、この花は元から『ちっぽけな花』だったのかな」

おねーさん「花は元からそこに咲いてたにゃ」

オッサン「そうじゃなくて。『ちっぽけ』だったのかってこと」

マスター「寸法なら測れる」

オッサン「寸法じゃないって話はもうしただろ」

マスター「だから答えは測れない」

おねーさん「たぶん、花の側だけには『ちっぽけ』はないにゃ」

オッサン「俺の頭の中だけ?」

おねーさん「それも違うにゃ」

オッサン「じゃあどこにあるんだよ」

おねーさん「間にあるにゃ」

オッサン「間?」

おねーさん「花がそこにある。オッサンが歩いている。小さいものを探す目がある。V3がある。寄れるレンズがある。しゃがむ。傘を立てる。周囲を暗くする。五ミリの花だけが浮かぶ。そのとき初めて、『ちっぽけ』が意味を持つにゃ」

マスター「関係の属性か」

おねーさん「そう言ってもいいにゃ」

オッサン「実在する花と、俺の認識の間にある?」

おねーさん「そうにゃ。花をオッサンが作ったわけじゃない。でも、花の意味まで最初から地面に生えていたわけでもないにゃ」

マスター「観測対象は実在する。観測結果は系に依存する」

オッサン「お前が言うと急に実験レポートになるな」

マスター「分かりやすいだろ」

オッサン「分かりやすい」

おねーさん「哲学的には、もう少し面倒に言えるにゃ」

マスター「言わなくていい」

オッサン「言ってくれ」

おねーさん「人間は世界をそのまま受け取っているわけでも、好き勝手に作っているわけでもないにゃ。世界との関係の中で、何かが何かとして現れるにゃ」

オッサン「五ミリの植物体が、『ちっぽけな花』として現れる」

おねーさん「そうにゃ」

オッサン「その関係にV3も入ってる」

おねーさん「入ってるにゃ」

マスター「傘もな」

オッサン「ライトも」

マスター「膝パッドも」

オッサン「どうしても入れたいんだな」

マスター「実際必要だろ」

オッサン「必要だ」

おねーさん「なら存在論的膝パッドにゃ」

オッサン「急に哲学が安くなったな」

マスター「現場を無視する哲学よりマシだ」

オッサンは、もう一度モニターを見た。

オッサン「……ちょっと待て」

マスター「何だ」

オッサン「さっきから、道具が見せるとか、カテゴリーが育つとか言ってるけど」

おねーさん「にゃ」

オッサン「変わったのって、結局、俺じゃないか?」

マスター「やっとそこか」

オッサン「最初から五ミリの花ばかり探してたわけじゃない。V3で撮って、面白くなって、また探して、Field Studioまで作った」

おねーさん「そのうち、昔なら通り過ぎてたものの前で止まるようになったにゃ」

オッサン「『ちっぽけ』って見方までできた」

マスター「そうだ」

オッサン「俺がカメラを選んだはずなのに」

マスター「選んだな」

オッサン「使ってるうちに、見る場所も、探すものも、好きなものも変わった」

マスター「そうだ」

オッサン「じゃあ、俺がV3を使ってたってだけじゃないな」

おねーさん「V3がオッサンを使ってた、でもないにゃ」

オッサン「どっちも変わった?」

マスター「系全体が変わった」

オッサン「……前はWhatとHowの話だったよな」

マスター「ああ」

オッサン「何を撮るかと、どう撮るか」

おねーさん「そうにゃ」

オッサン「その二つがぐるぐる回って、互いに変わる」

マスター「そうだ」

オッサン「でも、その外に俺が立ってたわけじゃない」

マスター「最初からな」

オッサン「……Whoまで入ってたのか」

おねーさん「そうにゃ」

オッサン「WhatとHowが変われば、Whoも変わる。変わったWhoが、またWhatとHowを変える」

マスター「そういう系だ」

オッサン「面白いな」

マスター「普通のフィードバック系だ」

おねーさん「マスターにかかると存在論が制御工学になるにゃ」

マスター「制御できてないけどな」

オッサン「ネコの存在確率密度関数と同じだな」

おねーさん「そこまで接続すると別の回が始まるからやめるにゃ」

オッサン「はい」

オッサンはV3の電源を切った。

数秒後、もう一度電源を入れた。

オッサン「……やっぱり、もう一台欲しいな」

マスター「十二年前のカメラを?」

オッサン「壊れたら、この系が途切れるだろ」

おねーさん「哲学的理由をつけて中古カメラを買おうとしてるにゃ」

オッサン「違う。観測系の冗長化だ」

マスター「それなら予備機は合理的だ」

おねーさん「マスターが援護したにゃ」

マスター「システム工学的に必要だ」

オッサン「程度のいい個体があればな」

おねーさん「結局、中古カメラを買う話になったにゃ」

オッサン「哲学とは、長い道のりを経て正しい結論に到達する学問なんだよ」

マスター「違う」

おねーさん「そこじゃないにゃ」

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