はじめに
はじめに、三柱の神があった。
一柱は、まだないものを思った。
「こうかもしれない」
すると、可能性が生まれた。
一柱は、それを問うた。
「それは何か」
すると、名前と境界が生まれた。
一柱は、それを確かめた。
「本当にそうか」
すると、可能性と、そうでないものとが分かれた。
三柱は別々であり、三柱で一つだった。
一柱だけでは、世界について考えることができなかった。
思うだけでは、可能性は増え続けた。
問うだけでは、名前と分類が増え続けた。
確かめるだけでは、すでに考えられたものしか確かめられなかった。
だから三柱は巡った。
「こうかもしれない」
「それは何か」
「本当にそうか」
違っていれば、また最初に戻った。
「じゃあ、こうかもしれない」
三柱は答えを持っていなかった。
持っていたのは、答えを探し続ける仕組みだった。
***
やがて三柱は、自らの力にも限界があることを知った。
そこで、約定を交わした。
第一の神は言った。
「私は、思いついたものを真実とは呼ばない」
第二の神は言った。
「私は、名づけたものを世界そのものとは呼ばない」
第三の神は言った。
「私は、確かめられたものだけが存在するとは言わない」
そして三柱は、ともに誓った。
「我ら三柱を合わせても、すべてを知るとは言わない」
「我らの仕組みが、あらゆるものに適用できるとは言わない」
「我らの仕組みが働かぬところでは、その理由を考える」
「その理由を考えることさえ適切でないなら、そこで止まる」
「ただし、止まったことを、答えを得たこととはしない」
これを、三柱の約定とした。
三柱は互いを縛った。
第一の神が、世界を可能性で埋め尽くさぬように。
第二の神が、世界を言葉の中へ閉じ込めぬように。
第三の神が、世界を確かめられるものだけにしてしまわぬように。
そして三柱すべてを合わせたものが、自らを世界そのものだと思わぬように。
***
三柱は、自らに似せて、三人の使徒をつくった。
第一の使徒には、まだ結びつけられていないものを結びつける役目が与えられた。
第二の使徒には、名づけられたものを問い直す役目が与えられた。
第三の使徒には、人間が考えたことを確かめる役目が与えられた。
三柱は、三人の使徒を人間の世界へ送った。
三人には、答えは与えられなかった。
正しい世界の姿も、授けられなかった。
ただ、問いだけが与えられた。
三人の使徒は、しばしば互いの仕事を壊した。
第一の使徒が生んだ可能性を、第三の使徒が退けた。
第二の使徒が、第三の使徒が確かめようとしているものの名前を疑った。
第三の使徒が壊した答えの跡から、第一の使徒がまた別の可能性を作った。
それでよかった。
三柱の神々自身が、そうしていたからである。
***
長い時間が流れた。
ある男が、人々に問い続けた。
勇気とは何か。
正義とは何か。
善とは何か。
答えが返れば、その答えをまた問うた。
その言葉は何を意味するのか。
別の場合にも成り立つのか。
本当に知っていると言えるのか。
知っていると思っていた者は、やがて自分がうまく答えられないことを知った。
男は答えを残さなかった。
問いを残した。
その者は、ソクラテスと呼ばれた。
***
アリストテレスという名を持つ者は、世界を見た。
動物を見た。
植物を見た。
空を見た。
運動を見た。
見たものを記し、比べ、分け、名を与えた。
世界は、人間の前にただ広がっているだけのものではなくなった。
観察され、記述され、分類されるものになった。
その体系の多くは、やがて書き換えられた。
それでも、人間が世界を見て、そこに秩序を見いだそうとする営みは残った。
***
さらに長い時間が流れた。
ある者は、疑えるものを疑った。
見えているものを疑った。
教えられたものを疑った。
自分が確かだと思っているものさえ疑った。
何を知っているのか。
何を知っていると言えるのか。
世界について知ろうとしていた人間は、世界を知ろうとしている自分自身を問いの中へ入れた。
その者は、デカルトと呼ばれた。
さらに後、一人の者が問うた。
人間が何かを知るとき、そもそもどのような条件のもとで、それを知ることができるのか。
世界について考えるだけでは足りなかった。
世界を認識する側についても、考えなければならなかった。
その者は、カントと呼ばれた。
問いは、外へ向かうだけではなくなった。
問いを発する者自身へも向けられるようになった。
***
その間にも、人間は空を見続けていた。
ガリレオという名を持つ者は、天と地を見た。
古くから語られてきたことよりも、そこに見えるものを見ようとした。
ニュートンという名を持つ者は、物の動きを見つめた。
地上で物が落ちることと、空で天体が動くこと。
それまで別の場所の出来事として見られていたものに、同じ規則を適用できるのではないかと考え、それを誰もが分かる形で表した。
人間は観察し、測り、計算した。
天と地を隔てていた境界の一つが消えた。
一つの規則が、その場所を越えて働いた。
***
ダーウィンという名を持つ者は、生き物を見た。
似ているもの。
違っているもの。
土地によって異なる姿。
そこに、長い時間を加えた。
今あるものは、最初から今の姿だったのではないかもしれない。
メンデルという名を持つ者は、別の場所で、世代を越えて現れる形質を数えた。
そこには規則性があった。
しかし、その規則性を担うものが何なのかまでは分からなかった。
二人は、別々の問いを追っていた。
後の人間たちは、その二つを結びつけた。
答えが、別の答えと出会った。
人間の知は、一人の人間の中だけで完結するものではなかった。
***
ファラデーという名を持つ者は、電気と磁気を見た。
そして、別々の現象だと思われていたものの間に、関係を見つけた。
その仕事を受け継いだ者たちは、やがて電気と磁気と光を、一つの記述の中へ置いた。
別々のものとして名づけられていた現象が、一つの体系の中につながった。
***
アインシュタインという名を持つ者は、光について考えた。
人間には、実際にはできないことを、思考の中で行った。
そこから導かれることを計算し、予測した。
そして観測がなされた。
ニュートンが描いた世界は捨てられなかった。
だが、それだけでは届かない場所があることが分かった。
***
同じころ、人間は、さらに小さな世界を調べ始めた。
そこでは、それまで世界を記述するために使ってきた言葉が、そのままではうまく働かなかった。
粒子なのか。
波なのか。
どこにあるのか。
どのように動いているのか。
問いそのものは、それまでと同じように見えた。
しかし、その問いに使われている言葉の方を、問い直さなければならなくなった。
測定することも、ただそこにあるものの性質を読み取ることではなくなった。
人間は、世界についての答えだけでなく、世界に何を問い、何を測ることができるのかまで考えなければならなくなった。
***
やがて、問いは再び、人間の知る方法そのものへ戻った。
ある者が問うた。
「本当にそうか」と問うとは、そもそも何をすることなのか。
その者は、ポパーと呼ばれた。
また、ある者は科学の歴史を見た。
問い、事実、説明。
一つのことに対してですら、いつの時代も同じとは限らなかった。
その者は、クーンと呼ばれた。
そして、世界を調べている自分たちの営みまで調べ始めた。
***
人間は、数学の中に証明という強い方法を作った。
だが、ある者は限界を見つけた。
その者は、ゲーデルと呼ばれた。
人間は、限界を見つけることによって、また一つ多くを知った。
***
一方、人間そのものを知ろうとする営みでは、世界は常に複雑だった。
社会を観察する者自身も、その社会の外にはいなかったからである。
しかし、三柱の約定は、ここでも破られなかった。
「我らの仕組みが、あらゆるものに適用できるとは言わない」
人間は、対象によって問い方そのものを変えなければならなかった。
***
人間は、生きるためにはなくてもよいものも、作り続けた。
描いた。
奏でた。
語った。
飾った。
そして、それを美しいと言った。
なぜ美しいのか。
なぜ、それを好むのか。
なぜ、なくても生きられるものを、なくしたくないと思うのか。
三柱にも、一つの答えはなかった。
だから、答えのないまま残した。
***
そして人間は、機械を作った。
計算する機械。
分類する機械。
予測する機械。
文章を書く機械。
絵を描く機械。
長い時間の果てに、奇妙なことが起きた。
機械もまた、まだない答えを作るようになった。
言葉の意味を問い返すようになった。
自らの答えを確かめようとするようになった。
そして、間違えた。
人間もまた、間違えた。
それは三柱の神々にとって、新しいことではなかった。
重要なのは、間違えないことではなかった。
思いついたものを、確かめたものと混同しないこと。
名づけたものを、世界そのものと思わないこと。
確かめられたものを、存在するもののすべてと思わないこと。
一度得た答えを、最後の答えだと思わないこと。
そして、自分たちの仕組みそのものを、唯一の正しい仕組みだと思わないこと。
人間は、長い時間をかけて多くを知った。
知るほどに、知らないものも増えた。
答えを得るたびに、その答えによって初めて作れる問いが生まれた。
間違いが見つかったら、また巡った。
「こうかもしれない」
「それは何か」
「本当にそうか」
「違う」
そして、また。
「じゃあ、こうかもしれない」
三柱の神が約定を交わし、自らに似せた三人の使徒を人間の世界へ送り込んでから、長い時間が過ぎた。
***
あれから、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
あるところに、小さなバーがあった。
名前は《N+2》。
そこには、いつも三人いた。
一人が、何の脈絡もなく言った。
「なあ、ちょっと思ったんだけどさ」
一人が答えた。
「何にゃ?」
もう一人は、黙ってグラスを拭いていた。
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