使徒覚醒編 ニャンコ教
小さなバー。名前は《N+2》。
オッサンが、カウンターの向こうのおねーさんを見た。
オッサン「おねーさん」
おねーさん「何にゃ?」
オッサン「ニャンコ教の教祖やって」
マスター「何を言ってるんだ」
おねーさん「いいにゃ」
マスター「受けるのか」
オッサン「よし。じゃあ教義を決めよう」
おねーさん「もうあるにゃ」
オッサン「あるの?」
おねーさん「あるにゃ」
おねーさんが一枚の紙をカウンターに置いた。
ニャンコ教教義
- 第一戒 眠いときは寝るにゃ。
世界の問題のかなりの部分は、起きてから考えればいいにゃ。
- 第二戒 お腹が空いたら食べるにゃ。
空腹のまま人生について考えてはいけないにゃ。
- 第三戒 嫌なところからは離れるにゃ。
逃げることと、距離を取ることは別にゃ。
- 第四戒 気になるものは、とりあえず見るにゃ。
理解するかどうかは、そのあと決めればいいにゃ。
- 第五戒 分からないものは、分からないまま置いておいていいにゃ。
無理に答えを作るくらいなら、その方がましにゃ。
- 第六戒 昨日決めたことを、今日変えてもいいにゃ。
昨日の自分と今日の自分は、持っている情報が違うにゃ。
- 第七戒 他人の物差しで、自分を測りすぎないにゃ。
ただし、自分の物差しが正しいとも限らないにゃ。
- 第八戒 頑張れるときは頑張るにゃ。
頑張れないときまで頑張る必要はないにゃ。
- 第九戒 楽しいものは、ちゃんと楽しむにゃ。
楽しむために理由はいらないにゃ。
- 第一戒律 モフらせるかどうかは、ニャンコが決めるにゃ。
これは基本的人権より先にある基本的猫権にゃ。
オッサン「第一戒律?」
マスター「十番目だろ」
おねーさん「重要度順とは言ってないにゃ」
オッサン「信者なら?」
おねーさん「関係ないにゃ」
オッサン「お布施したら?」
おねーさん「関係ないにゃ」
オッサン「ブラッシングするから」
おねーさん「関係ないにゃ」
マスター「そこだけ妙に堅牢だな」
***
オッサン「待てよ」
マスター「何だ」
オッサン「俺たち、こんな適当に宗教作っていいのか?」
マスター「作れと言ったのはお前だ」
オッサン「教義の妥当性を検証しよう」
おねーさん「望むところにゃ」
オッサン「まず第一。眠いときは寝る」
マスター「勤務中は?」
おねーさん「寝ないにゃ」
オッサン「いきなり駄目じゃん」
おねーさん「休めるときに寝るにゃ」
マスター「変わったぞ」
おねーさん「教義は改訂可能にゃ」
オッサン「第六戒を自分に適用するな」
マスター「いや、教義通りだ」
***
オッサン「第二。腹が減ったら食べる」
マスター「健康診断の前は?」
おねーさん「食べないにゃ」
オッサン「二連敗」
おねーさん「身体の要求を理由なく無視しない、くらいにするにゃ」
マスター「それなら通る」
オッサン「どんどん弱くなってない?」
マスター「反例に耐えようとすれば、普通はそうなる」
***
オッサン「第三。嫌なところからは離れる」
マスター「仕事は?」
オッサン「嫌でも行く」
おねーさん「獣医さんにも嫌だけど行くにゃ」
オッサン「教祖が自分で反例を出すなよ」
おねーさん「妥当性を検証してるにゃ」
マスター「『嫌だから離れるという選択肢を認める』ならどうだ」
オッサン「ずいぶん弱くなったな」
おねーさん「でも、『逃げてはいけない』という理由だけで留まる必要もないにゃ」
オッサン「それなら分かる」
***
オッサン「第四。気になるものは、とりあえず見る」
マスター「これは比較的そのままでいいな」
オッサン「危険物だったら?」
おねーさん「遠くから見るにゃ」
マスター「見ることと近づくことは別だ」
オッサン「第四戒、意外と強いな」
***
オッサン「第五。分からないものは、分からないまま置いておいていい」
マスター「橋を設計していて荷重計算が分からなくても?」
オッサン「駄目だろ」
おねーさん「でも、分からないのに分かったことにするよりはいいにゃ」
オッサン「あ」
マスター「これは行動の教義じゃないな」
オッサン「認識の教義か。分からないことを、分からないと認識することを許す」
おねーさん「必要なら、そのあと調べればいいにゃ」
オッサン「これは残そう」
***
オッサン「第六。昨日決めたことを今日変えてもいい」
マスター「契約は?」
おねーさん「勝手に変えたら駄目にゃ」
オッサン「約束は?」
おねーさん「相手がいるにゃ」
マスター「自分の判断なら?」
オッサン「新しい情報が入ったのに、昨日決めたという理由だけで維持する必要はないな」
おねーさん「はいにゃ」
マスター「変更できることと、変更すべきことは別だ」
オッサン「これも残る」
***
オッサン「第七。他人の物差しで自分を測りすぎない。ただし、自分の物差しが正しいとも限らない」
少し沈黙した。
マスター「これはそのままでいいんじゃないか」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「他人の評価を絶対視しない。でも自己評価も絶対視しない」
マスター「ああ」
オッサン「物差しそのものを疑うわけか」
おねーさん「ときどき測り直すにゃ」
オッサン「ニャンコ教のくせに、ずいぶん面倒なこと言うな」
おねーさん「ニャンコ教を何だと思ってるにゃ」
***
オッサン「第八。頑張れるときは頑張る。頑張れないときまで頑張らない」
マスター「締切前は?」
オッサン「頑張れなくても頑張る」
おねーさん「やらなきゃいけないことはあるにゃ」
オッサン「また駄目か」
マスター「『余力があるからという理由だけで、全部使い切る義務はない』ならどうだ」
オッサン「それならいい」
おねーさん「休む余力も残すにゃ」
***
オッサン「第九。楽しいものは、ちゃんと楽しむ。楽しむために理由はいらない」
マスター「他人に害を与えなければな」
おねーさん「それは当然にゃ」
オッサン「その『当然』を全部書いたら教典が六法全書になるぞ」
マスター「だから社会には法律がある」
おねーさん「ニャンコ教は法律の代わりをしないにゃ」
オッサン「……あ」
マスター「どうした」
オッサン「分かった。そもそも適用範囲が違うんだ」
おねーさん「何がにゃ?」
オッサン「これは社会全体を統治する規範じゃない。他人に守らせる道徳でもない」
マスター「じゃあ何だ」
オッサン「自分が自分をどう扱うかについての原則だ」
おねーさん「はいにゃ」
マスター「それなら、最初に適用範囲を書けばいい」
オッサン「改革だな」
***
三人は教義を書き直した。
ニャンコ教・改革教義
総則
- ニャンコ教の教義は、社会を統治する規則でも、他人に要求する道徳でもない。
- 自分を絶対視せず、しかし自分を粗末にも扱わないための、自分に対する原則である。
- 社会的責任、他者との約束、他者の権利を無視する根拠として、教義を用いてはならない。
教義
- 第一戒 眠いときは寝るにゃ。
休むことを怠慢と決めつけないにゃ。
休息できるときには休息するにゃ。
- 第二戒 お腹が空いたら食べるにゃ。
身体の要求を理由なく無視しないにゃ。
ただし、身体の要求だけに従うわけではないにゃ。
- 第三戒 嫌なところからは離れてもいいにゃ。
嫌だから離れる、という選択肢を認めるにゃ。
「逃げてはいけない」という理由だけで留まり 続ける必要はないにゃ。
- 第四戒 気になるものは、とりあえず見るにゃ。
判断する前に観察するにゃ。
ただし、危ないものは遠くから見るにゃ。
- 第五戒 分からないものは、分からないまま置いておいていいにゃ。
分からないことを、分かったことにしてはならないにゃ。
必要なら調べるにゃ。
- 第六戒 昨日決めたことを、今日変えてもいいにゃ。
新しい事実を知ったなら、昨日の判断を変えてもいいにゃ。
ただし、他者との約束は自分一人では変えられないにゃ。
- 第七戒 他人の物差しで、自分を測りすぎないにゃ。
他人の評価だけを自分の価値にしてはならないにゃ。
同時に、自分の物差しだけが正しいとも思わないにゃ。
- 第八戒 頑張れるときは頑張るにゃ。
余力があるというだけの理由で、その余力をすべて使い切る必要はないにゃ。
- 第九戒 楽しいものは、ちゃんと楽しむにゃ。
楽しいということは、それ自体で楽しむ理由になりうるにゃ。
- 第一戒律 モフらせるかどうかは、ニャンコが決めるにゃ。
信者であること、お布施をしたこと、いかなる善行も、モフる権利を発生させないにゃ。
オッサン「ずいぶん立派になったな」
マスター「最初よりはな」
おねーさん「改革成功にゃ」
***
オッサン「よし。次は布教だ」
マスター「なぜだ」
オッサン「宗教だからだよ」
おねーさん「誰に布教するにゃ?」
オッサン「悩める人々に」
マスター「その人がニャンコ教を嫌だと言ったら?」
オッサン「第三戒に従って離れてもらう」
マスター「終わったな」
オッサン「待て」
おねーさん「他の考え方の方がいいと思ったら、そっちに行けばいいにゃ」
オッサン「教祖が信者を逃がすなよ」
おねーさん「第七戒にゃ。ニャンコ教の物差しが正しいとも限らないにゃ」
オッサン「自分の宗教まで相対化するのか」
マスター「教義通りだな」
オッサン「じゃあ、『この教義が正しいから従え』とも言えない?」
おねーさん「言えないにゃ」
オッサン「入信した人を引き留めるのは?」
マスター「本人がやめたいなら第三戒だ」
オッサン「教義が布教の邪魔しかしない!」
***
オッサン「じゃあ、どうやって広めるんだよ」
マスター「実践すればいいんじゃないか」
オッサン「実践?」
マスター「自分たちで」
オッサン「なるほど。俺たちが教義通りに生きる。それを見て興味を持った奴がいたら教える」
おねーさん「興味を持たなかったら、何もしないにゃ」
オッサン「まあいい。じゃあ実践するとどうなる?」
マスター「教義を見れば分かるだろ」
オッサンは改革教義を上から読み直した。
オッサン「眠くなったら寝る」
マスター「ああ」
オッサン「腹が減ったら食う」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「嫌なら離れる」
マスター「ああ」
オッサン「気になるものは、とりあえず見る」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「分からなかったら、分からないままにすることもある」
マスター「ああ」
オッサン「昨日の判断に拘束されない」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「他人の評価だけでは動かない」
マスター「ああ」
オッサン「余力を全部使い切らない」
おねーさん「はいにゃ」
オッサン「楽しいことは、理由なく楽しむ」
マスター「ああ」
オッサン「触られるかどうかは自分で決める」
おねーさん「第一戒律にゃ」
オッサン「……これ」
沈黙した。
オッサン「ネコじゃん」
マスター「……」
おねーさん「……」
オッサン「お前、最初からネコの生き方を教義にしただけだろ!」
おねーさん「違うにゃ」
オッサン「何が違うんだよ!」
おねーさん「三人で妥当性を検証したにゃ」
マスター「お前も全部納得してたぞ」
オッサン「じゃあ何か? 人間が理性を使って、一個ずつ反例を出して、適用範囲を決めて、教義を改革して、最後まで残ったものを全部実践したら――」
マスター「ああ」
オッサン「ネコになるのかよ!」
おねーさん「ようこそニャンコ教へ、にゃ」
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