何の役に立つ

小さなバー。名前は《N+2》。

オッサン「ユークリッドって、教師としては失格だと思うんだよ」

マスター「二千年以上前の数学者をいきなり査定するな」

おねーさん「何したにゃ?」

オッサン「弟子が聞いたんだよ。幾何学を勉強して、何の役に立つんですかって」

おねーさん「有名な逸話にゃ」

オッサン「そしたらユークリッド、金を渡した」

マスター「要約に悪意があるな」

オッサン「でも、だいたい合ってるだろ」

おねーさん「伝承では、最初の定理を学んだ弟子が、これを学んで何を得るのかと聞いたにゃ。ユークリッドは召使いに、三オボル与えろ、学んだことから利益を得たいらしいから、と言ったにゃ」

オッサン「ほら」

マスター「質問には答えてないな」

オッサン「教師としては失格だろ」

マスター「お前なら何て答える」

オッサン「自分で考えろ」

マスター「お前も失格だ」

***

オッサン「でもな、この話、昔からちょっと引っ掛かってたんだよ」

おねーさん「何がにゃ?」

オッサン「俺、元々が化学屋だからさ。学生の頃にIUPACって覚えたんだよ」

マスター「国際純正・応用化学連合」

オッサン「International Union of Pure and Applied Chemistry」

おねーさん「Pure and Applied にゃ」

オッサン「そう。わざわざ名前に入ってるんだよ」

マスター「名前はそうなってるな」

オッサン「なんでPure and Appliedなんだ?」

マスター「さあな」

オッサン「片方では、何の役に立つのかって聞いた弟子に小銭をやる。片方ではAppliedが看板に書いてある」

おねーさん「時代も分野も違うにゃ」

オッサン「分かってる。でも、学生の頃から変な感じがしてたんだよ」

***

オッサン「しかも、あとで気づいた。化学だけじゃない」

マスター「数学か」

オッサン「純粋数学と応用数学」

おねーさん「物理にも応用物理があるにゃ」

オッサン「そう。大所の学問には、結構この分け方がある」

マスター「全部じゃない」

オッサン「工学か」

マスター「純粋工学とは、あまり言わない」

オッサン「医学も農学も、同じ分け方はしないな」

おねーさん「そもそも、純粋と応用できれいに二分できるとは限らないにゃ」

オッサン「じゃあ、そもそも応用って何だ?」

マスター「何かで得た知識や方法を、別の問題に使う。まず思いつくのはそれだな」

オッサン「役に立つこととは違う?」

おねーさん「純粋数学として研究されたものが、あとから別の分野で使われることもあるにゃ」

マスター「役に立つかどうかと、純粋か応用かは同じ話じゃない」

オッサン「じゃあ、何で分ける?」

マスター「だから、そんなに簡単な線じゃないんだろ」

少し間が空いた。

オッサン「ユークリッドの弟子は間違ってなかったんじゃないか」

マスター「まだそこに戻るのか」

オッサン「『これ何に使えるんですか』って聞いただけだろ」

おねーさん「そういう読み方もできるにゃ」

オッサン「Appliedの芽じゃん」

マスター「本人に言うなよ。三オボル渡されるぞ」

***

オッサン「じゃあ、哲学は?」

マスター「何が」

オッサン「応用哲学ってあるの?」

おねーさん「あるにゃ」

オッサン「何やってる?」

おねーさん「応用倫理は大きいにゃ。生命倫理、環境倫理、情報倫理とかにゃ」

オッサン「応用すると、倫理になるの?」

おねーさん「ならないにゃ」

オッサン「ならないんだ」

おねーさん「政治哲学や認識論、言語哲学なんかも、現実の問題に応用されているにゃ」

オッサン「じゃあ、哲学の概念や方法を現実の問題に持っていけば応用?」

おねーさん「そこまで簡単には決められないにゃ」

マスター「また線を引こうとしてるぞ」

オッサン「最近、線を引くと怒られるな」

マスター「引くなとは言ってない。引いた線を自然法則みたいに扱うな」

オッサン「はい」

少し黙った。

***

オッサン「この前、非内属ファクタって作ったよな」

マスター「作ったな」

おねーさん「分類を見るための概念装置にしたにゃ」

オッサン「最新版にも使った」

マスター「使ったな」

オッサン「内属って哲学の概念から始めて、現実の分類を見た」

おねーさん「そうにゃ」

オッサン「それで足りなくなって、非内属ファクタを作った」

マスター「そうだったな」

オッサン「……これ、応用哲学じゃね?」

少し間が空いた。

おねーさん「さっきの意味なら、そう見えるにゃ」

マスター「少なくとも、使ったな」

オッサン「おお」

マスター「大発見みたいな顔をするな」

オッサン「だって俺、応用哲学やってたかもしれないんだぞ」

マスター「古本屋の最新版でな」

オッサン「急に小さくなったな」

***

少しして、オッサンが言った。

オッサン「で、何の役に立った?」

マスター「最新版が、なんなのかが分かった」

オッサン「それだけ?」

おねーさん「それだけにゃ」

少し間が空いた。

オッサン「ちっぽけだな」

マスター「だから、良いんだろ?」

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