第一話 バカ記事はどこでバカになるのか

小さなバー。名前は《N+2》。

カウンターが七席。

奥には四人掛けのテーブルが一つあるが、オッサンはそこに客が座っているところをほとんど見たことがない。

マスターは理工系だった。

それも、かなりバリバリの。

専門はシステム工学。機械や組織の一部分だけではなく、入力から出力までを一つのシステムとして捉え、その全体がどう動くかを考える分野だ。

大学を出てから何をして、どういう経緯でバーのカウンターに立つことになったのか、マスター自らが語ることはなかった。

休日になると双眼鏡を首から下げて山や干潟を歩いている。植物も鳥も虫も見る。分類群を問わず、とりあえず何でも見る。

本人は「ただの散歩だ」と言っている。

もう一人いる。

白いネコのおねーさん。

哲学科を出て、そのまま博士課程まで進み、中退した。

なぜ博士課程をやめたのか。

なぜネコなのか。

なぜバーで働いているのか。

誰も何も気にしない。

語尾は「にゃ」。

そして、オッサンはそこの常連だった。

***

オッサンが、スマホの記事を眺めながら酒を飲んでいる。しばらくして、露骨に嫌そうな顔をした。

オッサン「またバカな記事書いてるな」

マスター「何がバカなんだ」

オッサン「これ。化学反応がなぜ一方向に進むのかを、エントロピーで説明してる」

マスター「それだけなら間違いとは言えない」

オッサン「そこなんだよ。間違ってはいないんだよ」

おねーさん「何を怒ってるにゃ」

オッサン「反応が進む理由を、『自然界はエントロピーが増大する方向へ進むから』って説明してる」

マスター「雑だな」

オッサン「だろ?」

マスター「化学反応論なら、それだけじゃ足りない」

オッサン「そうなんだよ。俺も35年前に習った話だから細かいところはほとんど忘れてる。でも、化学反応の方向を考えるなら、それ以外の兼ね合いがあったはずだろ」

マスター「ある」

オッサン「Gibbs の自由エネルギーから始まって、エンタルピー、エントロピー、温度、それに実際の反応系なら濃度とか分圧とか、そういう条件も入ってくる」

マスター「入る」

オッサン「だから最初、焦ったんだよ。俺が根本から間違って覚えてたのかと思って」

おねーさん「35年前の記憶と最新の記事の対決だにゃ」

オッサン「そう。で、調べ直した」

マスター「どうだった」

オッサン「俺の知ってる体系で大筋合ってた」

おねーさん「ちょっと嬉しかったやつだにゃ」

オッサン「ちょっと嬉しかった」

マスター「で?」

オッサン「そこで逆に不思議になった。この筆者、完全なデタラメを書いてるわけじゃないんだよ」

マスター「そうだな」

オッサン「エントロピー増大も間違いじゃない。化学反応と熱力学を結びつけるのも間違いじゃない。個々に拾えば、それらしいことが書いてある」

おねーさん「なのに全体として読むと、化学反応が『無秩序になりたいから進む』みたいな話になっちゃうにゃ」

オッサン「そう。それだ」

マスター「なら間違い探しをしても仕方ない」

オッサン「だよな」

マスター「どこでそういう形になったかを見ろ」

オッサン「……記事になる過程か」

おねーさん「面白くなってきたにゃ」

オッサン「まず元の現象がある」

マスター「ある」

オッサン「研究する奴がいる」

マスター「いる」

オッサン「論文なり専門書なりになる」

マスター「そこでも既に変換されてる」

オッサン「まあそうだな。でも今は置いとく」

マスター「置いとけ」

オッサン「それをライターが読む。あるいは誰かが解説する」

おねーさん「そこで、何を記事にするか選ぶにゃ」

オッサン「そう。『化学反応の自発性と熱力学』じゃ弱い」

マスター「弱いな」

オッサン「『なぜ自然界は無秩序へ向かうのか?』」

おねーさん「強くなったにゃ」

オッサン「でも、その瞬間に話の形が決まるんじゃないか?」

マスター「決まる」

オッサン「エンタルピーだの温度だのを入れたら、話が面倒になる」

マスター「なる」

オッサン「エントロピーだけなら、『秩序から無秩序へ』って一本の物語になる」

おねーさん「分かりやすいにゃ」

オッサン「分かりやすすぎるんだよ」

マスター「商品としては強い」

オッサン「……そうか。ここだな」

おねーさん「何がにゃ?」

オッサン「間違った情報を足したんじゃない。必要な情報を落としたんだ」

マスター「そうだ」

オッサン「嘘を足してないのに、削ったら嘘みたいになった」

おねーさん「それは今日の話の入口として、かなりいいにゃ」

***

オッサン「でも、それって悪意じゃないよな」

マスター「要らん」

オッサン「何が?」

マスター「悪意なんか要らん。読ませる記事を作ればそうなる」

オッサン「……なるほど」

おねーさん「誰も『間違った記事を書こう』とは思ってないにゃ」

オッサン「ライターは分かりやすくしたい。編集者は読ませたい。媒体はクリックしてほしい。読者は短時間で『分かった』と思いたい」

マスター「全部正常だ」

オッサン「全部正常なのに、出来上がったものがバカになる」

マスター「よくある」

オッサン「システム屋っぽいことを言いたいんだろ?」

マスター「局所最適だ」

オッサン「やっぱり」

マスター「各段階では合理的だ。全体が正しいとは限らん」

おねーさん「面白いにゃ。悪意による虚偽じゃなくて、合理性の積み重ねによる歪みだにゃ」

オッサン「それ、かなり怖くないか?」

マスター「別に」

オッサン「怖いだろ。誰も嘘をついてないのに、嘘みたいなものができるんだぞ」

おねーさん「厳密には嘘とも違うにゃ」

オッサン「じゃあ何?」

おねーさん「表象の問題だにゃ」

オッサン「出たよ哲学」

おねーさん「呼んだのはオッサンだにゃ」

オッサン「呼んでない」

おねーさん「現実そのものと、現実についての記述は同じじゃないにゃ」

オッサン「そりゃそうだ」

おねーさん「でも人は、記述を通してしか知らないことについて、記述を現実だと思いやすいにゃ」

オッサン「……ああ」

マスター「モデルと現物を混同するな。それだけだ」

オッサン「お前が言うと一気に哲学じゃなくなるな」

マスター「同じ話だ」

おねーさん「そうでもあるにゃ」

オッサン「じゃあ、雑誌記事は現実のモデルか」

マスター「粗いモデルだ」

オッサン「粗くすること自体は悪くない」

マスター「当然だ。全部入れたら元と同じになる」

オッサン「問題は何を捨てたか」

マスター「それと、何のために捨てたか」

オッサン「目的関数か」

おねーさん「何を達成したら良いとするかを決める基準かにゃ?」

マスター「そうだ」

おねーさん「正確に伝えるための捨象と、読ませるための捨象は違うにゃ」

オッサン「捨象って、要らないところをいったん落として考える、でいい?」

おねーさん「ここではそれでいいにゃ」

オッサン「なるほどなあ」

***

マスター「お前もやってる」

オッサン「何を?」

マスター「写真」

オッサン「俺?」

マスター「背景を落とす」

オッサン「落とす」

マスター「光を制御する」

オッサン「する」

マスター「邪魔なものを画面から外す」

オッサン「する」

マスター「露出アンダー気味で撮って、シャドウを切って、暗めの部分を真っ暗にする」

オッサン「する」

マスター「現実そのものか?」

オッサン「……違うな」

おねーさん「バカ写真だにゃ」

オッサン「違うだろ!」

マスター「違う。そこじゃない」

おねーさん「怒られたにゃ」

マスター「写真は最初から選択だ。何を見せるか決めてる」

オッサン「そうだよ。だから撮るんだろ」

マスター「記事も同じだ」

オッサン「うっ」

おねーさん「刺さったにゃ」

オッサン「でも俺は花について嘘をついてるわけじゃないぞ」

マスター「記事を書いた奴もそう思ってるだろ」

オッサン「……」

おねーさん「深淵を覗いたにゃ」

オッサン「やめろ」

マスター「違いはある」

オッサン「何?」

マスター「目的だ」

オッサン「目的?」

マスター「お前は花の構造を見せたい。だから背景を捨てる」

オッサン「うん」

マスター「記事は読者に読ませたい。だから複雑さを捨てる」

オッサン「ああ」

マスター「捨てたものが目的に必要だったら失敗だ」

オッサン「なるほど」

おねーさん「つまり捨象そのものに善悪があるわけじゃないにゃ」

オッサン「何を残すかは、何を見せたいかで決まる」

マスター「そうだ」

オッサン「じゃあバカ記事の問題って、情報量が少ないことじゃないんだ」

マスター「違う」

オッサン「単純化したことでもない」

マスター「違う」

オッサン「記事の目的に最適化した結果、元の現象を理解するために必要なものまで落とした」

マスター「そうだ」

おねーさん「しかも、残った情報だけで綺麗な物語ができるから、読者は理解した気になるにゃ」

オッサン「そこだ!」

マスター「うるさい」

オッサン「分からない記事より危ないんだ。分かった気になる記事なんだ」

おねーさん「認識の圧縮率が高すぎるにゃ」

マスター「圧縮はいい。復元できないのが問題だ」

オッサン「非可逆圧縮か」

マスター「そうだ」

オッサン「おお……」

おねーさん「また理工系に持っていかれたにゃ」

***

オッサン「でもこれ、雑誌だけじゃないぞ」

マスター「当たり前だ」

オッサン「テレビもそうだ」

おねーさん「SNSもだにゃ」

オッサン「会社の資料も」

マスター「そうだ」

オッサン「マーケティングも」

マスター「当然だ」

オッサン「論文も?」

おねーさん「程度と仕組みは違うけど、原理的には逃れられないにゃ」

オッサン「写真も」

マスター「さっき言った」

オッサン「じゃあ、人間が何かを認識して他人に伝える限り、全部この問題から逃げられないのか」

おねーさん「たぶん、そこが今日の哲学論考だにゃ」

オッサン「バカ雑誌の記事に文句言ってただけなのに」

マスター「いつものことだ」

オッサン「現実があって、観測して、選んで、編集して、伝えて、相手が解釈する」

おねーさん「その全部で何かが落ちるにゃ」

オッサン「だから大事なのは、情報を増やすことじゃない」

マスター「何を捨てたかを見ることだ」

オッサン「それと、なぜ捨てたか」

おねーさん「そして、捨てた結果、残ったものの意味が変わっていないか、だにゃ」

オッサン「……面倒くせえな、世界を知るって」

マスター「昔からそうだ」

オッサン「でもさ」

マスター「何だ」

オッサン「結局、この記事はバカ記事でいいんだよな?」

マスター「知らん」

オッサン「ここまで話してそれかよ」

マスター「で、お前、その記事を最後まで読んだのか」

オッサン「読んだ」

マスター「じゃあ商品としては成功だ」

オッサン「……」

おねーさん「完全にシステムの一部だにゃ」

オッサン「くそっ」

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