パンドラの匣

子供のころ、パンドラの匣の話がよく分からなかった。パンドラが匣を開けると、病気や苦痛や災厄が世界へ飛び出し、希望だけが中に残った。なぜ、災厄と希望が同じ匣に入っていたのだろう。


今なら、少し分かる気がする。ただし、論証できるとは思わない。ここから先、仏教まで持ち出すし、イスラム教にも手を出す。最後まで行っても、おそらく「こう考えると腑に落ちる」というところまでしか行かない。だから、これは論文ではなくエッセイである。


二十五年ほど前に私は、それなりの期間のサラリーマン生活を経た上で博士課程に進んだ。博士論文の題目は「リスク・コミュニケーション・ギャップの分析手法――リスク管理者がリスク被受者を理解するための指針――」。問題にしたのは、リスクを管理する側と、それを受ける側との認識のずれだった。リスク管理には、最初から解消できない問題がある。ゼロ・リスクにはできない。しかし、だからといって何もしなくてよいわけでもない。どこまでリスクを低減すれば十分なのかを、どこかで決めなければならない。そこで私は、回避可能なリスクと不可避の危険を分ける境界を「諦念の境界」と呼んだ。

リスク管理者にもリスク被受者にも、それぞれの諦念の境界がある。管理者が「ここから先は不可避だ」と考えていても、被受者が「まだ回避できる」と考えていれば、そこにギャップが生じる。したがってリスク・コミュニケーションは、単に正しい情報を伝達すれば解決する問題ではない。両者がどこに境界を置いているのかを知り、その乖離がどこから生じるのかを理解する必要がある。博士論文では、そのギャップ分析のための構造を考えた。


その背景には、ベックとギデンズのリスク社会論があった。科学や技術が進めば、それまで不可避だった危険の一部が回避可能になる。つまり、諦念の境界は固定されていない。一方で、すべての危険をあらかじめ知ることもできない。未知の危険をあらかじめ列挙し、それに完全に対応できるシステムを作ることはできない。検証できた時点で、それはすでに未知ではないからである。結局できるのは、その時点で認識できる危険を扱うシステムを作り、新たな危険が認識されたときに、できるだけ早くそれを取り込んで更新することである。

もう一方で、リスク低減そのものにも限界を置かなければならない。諦念を一切認めず、考え得る危険をすべて検討し、その回避に際限なく資源を投入すれば、最後には何もできなくなる。諦念はリスク・マネジメントの失敗や放棄ではない。何を管理し、何を不可避として受け入れるのかを決めること自体が、現実のリスク・マネジメントを成立させる条件になる。


博士論文では、そこまで考えて止めた。論文には問題設定があり、その問題に答えるための射程がある。気になったことを全部追いかけることが目的ではない。しかし、射程の外にも気になる問題はいくつも残った。ルーマンは、その典型だった。

リスクを減らすためにリスク・マネジメント・システムを作れば、私たちはそのシステムに依存するようになる。システムが前提としている知識や情報、制度や組織が想定どおりに機能することを前提として社会が動けば、その前提が崩れること自体が新しいリスクになる。そのリスクを管理するためにさらに仕組みを作れば、今度はその仕組みへの依存が生じる。リスクを管理することによってリスクの外へ出られるわけではない。


サラリーマン生活に戻り、リスク論とは縁遠くなった今では寧ろ、こういう横道の方が気になる。そして、論証を抜きにすれば、もっと根本的なところが、ずっと気になっていた。現在広く使われているリスクという概念そのものに、キリスト教の影が見える気がするのである。もちろん、キリスト教がリスク概念を作った、と言いたいわけではない。より慎重に言えば、キリスト教圏で進んだ近代化の影なのかもしれない。

ピーター・L・バーンスタインは『Against the Gods』で、近代をそれ以前から分けたものの一つとして、人間が未来の不確実性を引き受け、制御しようとするようになったことを挙げている。大航海時代、人間は未知の海へ乗り出した。それは、未来を神に委ねるだけではなく、自ら選択して不確実性の中へ踏み出すことでもあった。そして、その航海がもたらす損失を人間同士で引き受ける仕組みとして保険が発達した。神に委ねられていた未来の一部が、人間が計算し、選択し、管理する対象へ移っていったのである。

すると、それまで仕方がないとされていたことの一部が、回避可能なものへ移っていく。回避できたはずなのに何もしなかったことへの責任も生じる。人間にできることが増えるほど、人間が引き受ける領域も広がる。


もし、このリスクの見方がキリスト教圏で成立した近代と無関係ではないのだとしたら、別の宗教的伝統から見ればどうなるのだろう。最初に思いついたのは仏教だった。

リスク・マネジメントでは普通、守りたいものを先に置く。健康を失いたくない。財産を失いたくない。事故を起こしたくない。より良い未来を実現することより、望まない未来を避けることに重心がある。ところが仏教を持ってくると、その一つ前を問うことができる。なぜそれを失いたくないのか。なぜその未来を避けたいのか。そこには欲望があり、執着があり、煩悩がある。

もちろん、リスクと煩悩が同じだという話ではない。ただ、守りたいものがあるから、失う可能性が問題になる。それなら煩悩をなくせばよい。何も望まず、何にも執着しなければ、それによって生じる苦しみもなくなる。


しかし、それでは人生が退屈である。


ここはまだ思いつきであって、論証まで辿り着いていない。仏教の理解として正しいのかどうかも慎重でなければならない。ただ、この引っ掛かりは残った。そこで、もう一つ気になった。仏教を持ってきたのなら、イスラム教ではどうなるのだろう。

私はイスラム思想について全くの門外漢である。それでも、tawakkul という概念は気になる。自分にできることをした上で、結果を神に委ねる。「ラクダをつないで、そして神を信頼せよ」という言い方だけを見ると、何もしないことでも、すべてを人間が支配しようとすることでもない。仏教を持ってきたときには、「なぜそれを避けたいのか」という方向へ問いが動いた。それに対して tawakkul は、少なくとも私が現在理解できている範囲では、人間が行為することと、その結果まで人間が支配することとを分けているように見える。人事は尽くす。後は天命に委ねる。つまり、できることをやり尽くしたからといって、未来のすべてが自分の支配下に入ったとは考えない。

これは、私が「諦念の境界」と呼んだものと妙に合う。ただし、tawakkul 一語を拾ってイスラム教全体を論じれば、間違いなく浅薄になる。仏教についても事情は同じである。ここで比較宗教論を始めるつもりはない。


それでも三つを横に置くと、少し違った景色が見える。近代的なリスク・マネジメントは、予期された災厄に介入する。仏教は、なぜそれを避けたいのかを問う。イスラム教は、人間が行為することと、その結果を支配することとを分ける。

何を避けるのか。どこまで人事を尽くすのか。どこから先を、自分にはどうにもできないものとして引き受けるのか。私が「諦念の境界」と呼んだものは、どうやらリスク・コミュニケーションだけの問題ではなかったらしい。


そして、ようやく子供のころの疑問に戻る。なぜ、災厄と希望が同じ匣に入っていたのか。災厄はある。しかし、希望があれば、それを避けられるかもしれない。起こる確率を下げられるかもしれない。被害を小さくできるかもしれない。希望があるから、人間はまだ起きていない災厄に働きかけようとする。

しかし、それだけではなかった。希望があるから、人は苦しむ。失いたくないと思うから、失うことを恐れる。避けたいと思うから、それが起こることを恐れる。そういう意味では、希望もまた、人間に苦しみをもたらす。煩悩があるから苦しむ。しかし、煩悩をなくせばよいと言われても、それでは人生が退屈に思える。希望も、なくしてしまえば苦しみは減るのかもしれない。しかし同時に、未来を変えようとする理由もなくなる。

パンドラの匣に残った希望については、昔からさまざまな解釈がある。希望が人間のために残されたという読み方もあれば、希望まで人間から取り上げられたという読み方もある。そもそも elpis は、単純に良い未来を願う「希望」だけではなく、より広く未来への期待や予期として読むこともできる。そうだとすれば、ここでもリスク論とつながる。未来を予期することができるから、人間はまだ起きていない災厄をリスクとして扱うことができる。


希望は、人間を災厄から救うものだったのか。それとも、災厄とともに与えられた最後の災厄だったのか。どちらなのかは、今でも分からない。ただ、希望が災厄と同じ匣に入っていたことは、子供のころよりずっと分かる気がする。

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